

2007年2月22日
亡くなった人たち。
それぞれの人生を振り返りながら、その死を悼む不定期企画。
スポーツ実況の草分け的存在だった元TBSアナウンサーの渡辺謙太郎さん。
当時、彼の声を知らない人はいなかった。去年6月、胃がんで入院する直前まで仕事を続けていた。告別式の式場には、ラジオ中継の音声が流れたという。
11月14日、心不全にて死去。(享年75)
元平安高校野球部監督の西村進一さんは、ノックの名手だった。
戦地で利き手の右手首を失った西村さんに母校の平安高校から監督の要請が届いたのは、戦後すぐのこと。
「片腕で出来るのか…」西村さんは悩んだという。
「誰よりも早く学校へ来てボールを打っていた。並の数ではなかったと思う」と語るのは、息子の一貴さん。
1年後、グラウンドには片腕の“ノックの名手”が立っていた。
就任から4年目の1951年、平安高校は夏の甲子園で深紅の優勝旗を手にした。
それは、“隻腕監督”の名が世に知れ渡った瞬間だった。
11月13日、脳梗塞にて死去。(享年86)
東京大学で水俣病を研究していた宇井純さん。
1962年に水俣病の原因が工場排水にあるという実験データを入手したが、巨大企業に潰されることを恐れ公表しなかった。東京大学はこの企業に優秀な人材を送り込んでいたからだ。
そして第二の水俣病が発生し、宇井さんは告発を決意した。その後、嫌がらせの電話や、差出人不明の脅迫状が毎日届くようになった。それでも戦い続けた宇井さん。そして1971年、ついに企業の過失責任を認める判決が下された。
11月11日、胸部大動脈瘤破裂にて死去。(享年74)
かつて報道カメラマンとして世界を渡り歩いていた写真家の牧田清さん。
生まれ育った大阪に目を向け始めたのは20年ほど前のことだった。社会を支える普通の人々、差別や偏見の目で見られる社会的弱者を撮り続けた。
そんな牧田さんは、神戸にある長田の街が大好きだった。その街が消えたのは1995年1月17日。
「しんどい者同士、助け合うしかない。それを撮りたい」―――。
撮影した写真は、3週間で7000枚にも及ぶ。それが1冊の本になったとき、牧田さんはこう書き添えた。
「見つめてやってください。この街を、この街に生きた人々を」
11月1日、両側性肺炎にて死去。