

2007年5月4日
1960年代の高度経済成長期に、続々とセンターがオープンし、一躍ブームとなったボウリング。「さわやか律子さん」の愛称で老若男女に親しまれた中山律子。「ボウリング界の女王」と称された須田開代子。世間は2人を"花のライバル"と謳い上げ、その熾烈な争いに熱狂した。当時、2人はどんな関係にあったのか。
1960年代初頭、中山律子はバレーボールの実業団リーグで活躍していた。しかしチームが廃部となり、故郷である鹿児島へと戻ったときに、初めてボウリングを体験した。その面白さにとりつかれ、毎日通いつめるうちに実力を身に着けていった。そんな中、ボウリング場の支配人に誘われて出場したトーナメントが、中山の運命を大きく変えたのだった。
アマチュアの全日本トーナメントに出場した中山は、予選を1位で通過して決勝進出を果たした。すると、決勝を前に1人の女性が「安心するのは早いわよ」と声をかけてきた。その言葉の主こそ、同じく決勝に進んでいた須田開代子であった。当時、須田はアマチュアながら、その名が知られる実力者。そして須田は決勝で中山を逆転し、優勝をさらっていった。このとき、中山の心に"須田開代子"という目標が芽生え、上京を決意。翌年、「東京タワーボウリングセンター」に所属して、新たなスタートを切った。毎日、30ゲームを投げ込み、さらには東京タワー590段の階段を3往復する走りこみを行った。"打倒!須田開代子"を胸に猛特訓に励んでいるとき、「女子ボウラーのプロ化」が決定。中山はプロを目指すことになる。
1969年、第1期生プロテストが開催された。『4日間に渡って36ゲームを投げ、アベレージ180以上で合格』というテストで、45人中13人がプロ1期生となった。中山は2位の成績でテストに合格し、女子のプロライセンス番号「No.2」に輝いた。一方、ライセンスナンバー「No.1」の座を射止めたのは、19ピン差で中山を上回った須田開代子だった。こうして誕生した女子プロボウラー達は、空前の大ブームを巻き起こしていく。
こうした中、女子プロ1年目で中山は3勝。だが、須田はそれを上回る4勝をあげた。しかしその翌年、中山は須田も成し得なかった"ある快挙"を達成する。
1970年8月21日。
女子プロボウラー13人が一同に介した公式大会が行われた。