

2007年6月18日
山口県沖の瀬戸内海の底に、旧日本軍の戦艦「陸奥(むつ)」が眠っている。太平洋戦争さなかの1943年、謎の爆発を起こして一瞬にして海へ沈んだ"悲運の戦艦"だ。そして先月、水中写真家らが陸奥の姿を32年ぶりにとらえた。
陸奥が建造されたのは大正時代中期。全長225メートル、排水量3万9050トンで当時としては世界最大の口径41センチ主砲が備えられていた。陸奥は連合艦隊のシンボルであり、国民の誇りでもあった。そして太平洋戦争が勃発。しかし、すでに飛行機の時代となっていて、陸奥が活躍する場は少なくなっていた。自慢の主砲が火を噴くこともないまま、陸奥は国内で待機する日々を送っていた。
1943年(昭和18年)6月8日の午後0時10分ごろ、突如、大爆発が起きた。陸奥には1474人が乗り込んでいて、元乗組員の芝田五郎さん(87)は、事故が起きたときには前方の船室にいたという。芝田さんは、そのときの様子を「ドカンという爆発音がして、窓から水が入ってきた」と語る。後に出された調査報告書などによると、爆発したのは後部の火薬庫で、3番砲塔と4番砲塔の間。爆発で船は真二つに裂けた。助け出された乗組員は353人。1121人もの将兵が船と運命をともにした。
「今も海に眠る"悲運の戦艦"に光を当てたい」―――。そんな思いから、水中写真家の田中正文氏らが先月、陸奥の潜水撮影を行った。陸奥は上下が逆さまに沈んでいて、船体は、ほとんど原型をとどめていない。しかし艦内の奥へ入ると、今だ数多くの品々が残っていて、そこには確かに人間の営みの形跡があった。
陸奥沈没地点の南側にある屋代島では、「軍艦沈没」の噂がすぐ住民の間に広まった。島に住む松林陽さん(76)は、当時の様子をこう振り返る。「軍艦の一番大きいのが沈んだって、当時はいろんな噂があった。警察が『そういう話をしてはいけない』『しゃべってはいけない』と」
弾薬の自然発火か、それとも何者かが火をつけたのか…。原因もわからぬまま、軍部は「陸奥沈没」の隠蔽工作を行った。
爆沈で殉職した将兵の亡骸は、人目を避けるために現場近くにある無人島で荼毘に付された。その作業にあたったのは、芝田さんら助けられた乗組員だった。