

2007年9月10日
時代を越えて愛されるヒット曲を量産し、日本の音楽史を築き上げた作曲家・阿久悠。作詞家としてのシングル総売り上げ歴代1位、日本レコード大賞の栄冠に輝くこと5回。彼の代表作である「また逢う日まで」には、意外なドラマが隠されていた。
1937年、阿久は兵庫県・淡路島で生まれた。本名は深田公之。大学卒業後は、東京都内の広告代理店に就職した。会社に内緒で放送作家としてアルバイトをしていた時、本名を隠すために作ったペンネームが"阿久悠"。遊び心で"悪友"をもじったものだった。
阿久は週7〜8本もの番組に携わる売れっ子作家となった。そして1967年、阿久の文章力に目をつけたレコード会社から、"グループサウンズの異端児"と呼ばれたザ・モップスのデビュー曲作詞の依頼が来た。しかし、その依頼は「翌朝までに曲を完成させてくれ」という無謀なものだった。阿久は当時、グループサウンズのヒットメーカーと呼ばれた作曲家・村井邦彦氏とともに、ホテルに缶詰にされた。作曲を担当した村井氏は、当時の阿久について「従来にない新しいタイプの詞を作る。絶対に大成功すると自分で決めているんだと言っていた」と語る。
朝までに書かなければ…というプレッシャーの中、阿久はグループサウンズの定石を打ち破ろうとした。そして当時、主流だったロマンス的世界を一切排除し、若者たちの荒々しい生き様を詞に書き綴った。それが「朝まで待てない」だった。
この曲は、既成のGSソングに一石を投じ、モップスのアナーキーなカラーを確立させた。
その後、阿久のもとに作詞依頼が舞い込むようになった。そして1970年、「白い蝶のサンバ」で初のミリオンヒットを記録。その後も、次々とヒット曲を世に送り出していった。
阿久と30年来の友人である音楽評論家・小西良太郎氏は、阿久の詞作りのこだわりについて、「所詮、私たちは…などという、それまでの流行歌が追い求めてきた情念を排除して、タブーに挑戦したいような考えを持っていた」と語る。
そして1971年、阿久の作品が頂点を極める。阿久悠初の日本レコード大賞受賞作となった「また逢う日まで」。実はこの曲の歌詞は、阿久が以前手がけたズー・ニー・ブーの「ひとりの悲しみ」をリメイクしたものだった。