

2008年10月15日
故人の人生を振り返りながら、その死を悼むシリーズ企画。
今回は特別編として、日本サッカー協会元会長の長沼健さんを偲ぶ。
1968年に開催されたメキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本。当時、日本代表監督を務めたのが長沼さんだった。
しかし、1970〜80年代と日本サッカーは低迷し、多くの日本人がワールドカップの存在すら気にかけていなかった。そんな中、長沼さんは"日本サッカー再生"の夢をかけ、ワールドカップの開催地に立候補することを決めた。メキシコ五輪の日本代表コーチだった岡野俊一郎さんは「世界の一流を見るということは大きな勉強。日本のサッカーの普及、レベルアップに必ず繋がると長沼さんはいつも言っていた」と語る。
アジアでの開催が決まっていた2002年大会―――韓国を相手に招致合戦が始まった。
2年に渡る招致合戦で、60歳代半ばの長沼さんは世界30カ国・地球19周分も飛び回り、日本開催をアピールした。しかし、長沼さんは招致活動の現実に直面することになる。
「南米サッカー協会会長のレオスさんに『北海道ではこんなスタジアムができる』。ホテルはこうで、ホスピタルティはこうで…と説明していたら『もういい』と。『韓国は各国理事1人に対して(※指を2本立てて)これだ』と言った」と当時、長沼さんの通訳を務めた下田功さんは語る。
しかし、長沼さんはこう答えたという。
「『それはできない』とハッキリそこで言った。よく言っていたのは『日本は王道を行くんだ』と…」
長沼さんが大切にしたのは"スポーツマンシップ"だった。
断られても…断られても…頭を下げ続けた長沼さん。日本と韓国はまったく互角のまま、投票日を迎えようとしていたとき、事態が一変した。国際サッカー連盟が過去に一度も例が無い共同開催を提案してきたのだ。
当時、日本と韓国は様々な問題を抱えていた。共同開催するくらいなら辞退したほうがいいという意見もあった。メキシコ五輪の日本代表コーチだった岡野俊一郎さんは「(国際サッカー連盟から)電話がかかってきて、『韓国は共催でもいいと言っているが、日本はそれをのむ用意があるか』と聞いてきた。それが投票日の朝7時のことだった」と語る。
招致活動の先頭に立ち、誰よりも単独開催を望んでいた長沼さん。