

2012年8月16日
1943年秋、悪化の一途をたどる戦況に海軍の若者から「戦局の打開には、有人の特攻しかない」との声が上がる。それが、人間が魚雷の中に入り、敵の戦艦に体当たりする“人間魚雷”だった。海軍司令部は、生還の見込みのないこの作戦に、いったんは採用を見送る。しかし、その後、制空権・制海権を各地で失い、日本は追い詰められていった。残された砦は、敵のレーダーに捉えられにくい潜水艦をどう駆使して反撃するかだった。1944年夏、海軍はついに人間魚雷の採用を認めた。全長約15m、直径1mの円筒状、先端部分に通常魚雷の5倍の爆薬を積んだ人間兵器は、『天を回らし、戦局を逆転させる』という願いから“回天”と名づけられた。今回、人間魚雷の特攻隊員だった人、人間魚雷の部品を作った人、そして、人間魚雷を積んだ潜水艦の乗組員で発射の瞬間を見送った人、3人に話を聞いた。
太平洋戦争末期、当時20歳だった森正年さん(88)は、上官から『海軍で特攻志願の募集がある』との話を聞きつけた。その特攻が何たるかを知ったのは、選抜された兵士たちと兵舎の狭い部屋で目にした図面からだった。そこには、魚雷本体と内部の構造、そして、敵の戦艦を沈めるための操縦方法が書かれていた。森さんは「仲のいい戦友はみんな死んだ。私だけ生き延びてもいかんし、いの一番に自分もご奉公するつもりで特攻へ志願した。当時は、人間魚雷に乗って敵艦に体当たりすることしか頭になかった」と話す。現役の時計修理職人、大村益穂さん(80)は、14歳で学徒動員された。手先が器用なことが認められ、大人たちと広島県呉市の秘密工場で回天の部品を作っていた。大村さんは、先生に何の武器を作っているか聞いたところ、「今、日本の海軍にとってなくてはならない重要な武器になるもの。だけど、何かということは言えない」と言われたという。回天の内部は、1人がやっと腰掛けられるほどの狭いスペースだ。潜望鏡で敵艦の動きを確認し、魚雷を操る。回天には脱出装置はなく、一度出撃すれば、特攻もしくは窒息死しかなかった。大村さんは「回天を操縦して笑って出て行くことが、すごいと思った。もう3、4年したら自分も乗るだろう、いや、絶対乗ってみせるという気があった」と話す。
回天の搭乗員に選抜されたのは1375人。平均年齢21歳、最年少は17歳の少年だった。
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