五輪を考える
2022年02月12日

「人権」というものについて考えながら迎えたオリンピックだった。
北京オリンピックの開催国・中国について、新疆ウイグル自治区などで人権抑圧が行われているとして、アメリカをはじめ日本を含むいくつかの国が、開会式に当たっての閣僚級の派遣を見送った。いわゆる外交的ボイコットである。
オリンピックという大きな舞台で中国への一撃を狙ったという側面はあるだろう。一方で、オリンピックという場所がふさわしかったのかどうかは疑問が残る。

大会が進むにつれ、外交的ボイコットの印象が薄れていったのは否めない。やはり主役は選手たちなのだ。
最高の舞台に挑むアスリートたちに、人間の可能性と、筋書きのないドラマを連日、堪能させてもらっている。為政者たちが、仮に大会に政治的な意味を持たせようとしても、アスリートたちが軽くそうした意図を凌駕していくようだ。

開催国の中国にしても、外交にはチグハグさが残った。欧米などとの関係が冷え込む習近平政権は、ロシアとの接近を印象付けようと、大会の開会に合わせてプーチン大統領を招待し、首脳会談も行った。
でもちょっと待ってほしい。そもそもロシアは組織的なドーピングを行ったとして制裁措置を受けている立場であり、選手は個人資格での大会参加だ。気の毒なことに国旗も掲揚されないし、国歌も流れない。その国の元首が主賓級でやってきた。招く方も招かれる方も、どこかピントがずれていると感じてしまう。
スポーツと政治は無関係だ、などというつもりはないが、せめて政治が後ろに退いていられる環境になればいいのだが。とりわけ、オリンピックという人類の祭典の前では。

だが、そういうわけにも行かないのが国際社会の現実だ。
オリンピックの場では、国境を越えた人間の普遍性が強調されるのに対し、国家というレベルで人間を見ると、「異質であること」に目が行ってしまいがちだ。排除や征服の論理が先行すると、世界は剣呑になる。

ロシアはウクライナ侵攻の構えを強める。ロシアにとってウクライナは歴史的に「同じ」源流を持ち、「同じ」ソビエト連邦の一員だったのに、欧米に近づき、「異質」なものへと変わろうとしているように見える。だからそれを阻止したい。
中国は台湾に目を光らす。北京の政府にとって台湾はあくまでひとつの中国なのであり、核心的利益だ。台湾独立へとつながる動きは何としても阻止したい。香港の抑圧を見てもわかるように、自分たちの「一部」が異質な世界へと去っていくことは力に訴えても絶対に許さないというのだ。ざらつく刃は世界のあちこちに潜んでいる。

そう考えれば、かすんでしまった外交的ボイコットや、チグハグに見えた中ロ首脳会談も、やはり過小評価はできない。
実際、東西冷戦下の1980年モスクワオリンピックでは、外交的ボイコットどころか、日本を含む西側諸国が選手団の参加を見送った。絶対王者だった柔道の山下泰裕さん(現JOC会長)たちの涙は忘れられない。政治の力の前にはスポーツが吹き飛んでしまうことがあるのは事実だ。

僕らは厳しい現実をしっかり見据えなければならない。同時に、スポーツが教えてくれる普遍的な価値を武器に、子や孫の世代にこの地球を引き継いでいく努力を並行して続けていかなければならない。

だからこそ、いま、スポーツの価値に目を向けたい。
巷には、メディアはオリンピックを騒ぎすぎだという声もある。他に伝えるべきことがあるだろうという批判がある。確かに自国偏重、メダル偏重の伝え方は反省すべきところがあると自覚している。
しかし、僕たちがスポーツに時間を割いて伝えるのは、単に面白いからではない。そこには願いが込められている。異質なものばかりに目を向けるのでなく、人間には、共有できる大事な価値があることを伝えたいという願いだ。

つい話が大きくなってしまった。
スノーボード・ハーフパイプの平野歩夢選手が、納得のいかない2回目の採点にもめげずに、文句のない3回目の演技を決めて見事、逆転の金メダルを勝ち取った。繰り返し流されるそのハイライト映像に興奮したからかもしれない。

20220212

わが家のコタローが不思議なポーズをとっている。
コタローも飼い主と一緒で、オリンピックに興奮したのだろうか。パンチでも繰り出しそうだ。
平和外交でなだめることにしよう。
(2022年2月12日)

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