科学と技術が切り分けるもの
2024年03月17日

 もう10年以上前に、ノーベル賞を受賞したある著名な科学者にインタビューしたことがある。その中の言葉を思い出した。
 「よく『科学技術』とひとまとめに言われるが、本来、科学と技術は別物。科学は価値中立だが、技術となると人間の判断が入ってしまう」。
 難解な言葉だった。だが、僕はその言葉を噛みしめ、以下のような意味だと理解した。
 「科学とは人間の探求心そのものであり、つまり自由なものだ。その自由な探求心によって生み出されるものが技術なのだが、その技術をどう使うかはまた別の人間の判断によって左右される」。

 久々にその言葉がよみがえったのは、今年のアカデミー賞で作品賞をはじめ7部門で受賞を果たした映画「オッペンハイマー」の試写会で、作品を鑑賞し終えたときだった。
 この映画は、原子爆弾の開発を主導したアメリカの理論物理学者、J・ロバート・オッペンハイマーの評伝に基づき、彼の葛藤を描いている。未知の領域に挑んだ科学者が、結果として自らが生みだした原爆という怪物に苦しむ、大きな皮肉と矛盾の物語だ。

 「科学と技術は別物」という図式を、作中のオッペンハイマーに当てはめてみよう。
 彼は、自由な探求心そのままに原子物理学を極め、1945年7月、アメリカのニューメキシコ州において、史上初の核実験に成功した。こうして実用可能となった原爆は翌月、アメリカ政府の判断によって広島と長崎に投下され、すさまじい被害をもたらした。こののち、日本はほどなくポツダム宣言を受諾、降伏した。
 「科学と技術は別物」だとすれば、自由な研究を進めたオッペンハイマーに罪はなく、それを実際に投下する判断を下した最高指揮官たるトルーマン大統領(当時)が、責めを負うという理屈になる。
 しかし、それほど単純に図式化できるものではない。

 映画を制作したクリストファー・ノーラン監督は、オッペンハイマーが原子爆弾の開発に突き進む姿を描く中で、時の政治情勢をしっかりと織り交ぜている。着々と核開発を進めるナチス政権化のドイツは、最大の脅威であり、ライバルだった。そして、そのドイツが独裁者ヒトラーの自殺を経て第二次大戦の敗者となるや、初の原爆投下の標的として、なおも太平洋戦争を続ける日本が浮上していった。
 オッペンハイマーも一連の経過を熟知していた。映画の中で、友人の物理学者の前に軍服姿で誇らしげに現れ、その友人にたしなめられる場面が出てくる。これは科学者であるオッペンハイマー自身が、政治と無縁どころか、そこに前のめりに関わっていく姿を暗示的に表現していた。

 映画はニューメキシコ州ロスアラモスでの初の核実験成功の場面がひとつの山場を作っている。科学者としての歓喜に浸ったオッペンハイマーだったが、それも束の間、広島と長崎での惨状を知るに至り、人間としての彼は深く苦悩する。終戦後、トルーマン大統領と面会した彼は、「閣下、私の手は血塗られたように感じます」と訴えるが、大統領の反応はにべもない。政治の最終決断に対して、科学者の感傷などつまらぬものだ、と言わんばかりの態度である。
 作中でオッペンハイマーは、「原爆は作ったが、使い方に関する権利や責任は、われわれにはないんだ」と嘆く。つまり、科学者の探求心の赴くところは、結局は政治に支配される領域だった。オッペンハイマーは、現実の原爆投下という惨劇によって、そのことをはっきりと突きつけられた。そして、彼は核兵器研究の最前線から去ることとなる。

写真①

 ノーラン監督に、徳永有美キャスターがインタビューをした。映画制作のタイミングに、ロシアによるウクライナ侵攻が重なることとなった。その偶然がもたらした意味を、ノーラン監督はこう語った。
 「作品に着手したころ、10代だった息子は、『僕たちの世代は核兵器にあまり関心がない』『脅威として意識していない』と話していた。驚きではあったのですが、息子と話してから映画の制作が終わる間に世界は変わっていて、地政学的な状況が悪化していました。(中略)人々は再び、核の拡散と大量虐殺の潜在的な脅威と向き合うようになりました」。

 僕は、神さまのことにはとんと無頓着だが、プーチン大統領が核兵器使用の恫喝を繰り返すそのさなかに、この映画の制作と上映が行われたのは、天の配剤だったのかもしれない。
 いや、そもそも、核エネルギーが持つ莫大な力は、人間の力では制御できない「神の火」でもある。すでに神の領域に入り込んでしまった人間が、すでに神さまの不興を買っていたとしても不思議ではない。

 冒頭に紹介した科学者へのインタビューは、2011年の福島第一原発の事故の直後に行った。研究分野こそ違うが、彼もまた、原発が制御不能となり、罪なき人々に厄難を振りまく現実に苦悩していた。「科学と技術は別物」というロジックはあくまで原則論であり、物ごとはもっと複雑であることを、彼自身はよく理解していたに違いない。

 考え込んでいるうちに煮詰まってきたので、散歩に出た。河川敷の桜のつぼみはまだ固く、多くの木々はまだ冬のモノトーンのままだ。だが、気の早い枝垂れ柳は、もう旺盛に緑を芽吹かせていた。自然の営みは人間の心を癒す。人間もまた自然の一部であることを思い起こさせてくれる。
 しかし、人間の側は自然から逸脱してばかりだ。最近では、AIの開発競争によって、人間は人間自身を超える存在まで生み出そうとしている。それを自由なる探求心の結果だと手放しで喜ぶ気には、到底なれない。
 ひょっとして、人間は神さまですら未知の領域に近づいてきているのかもしれない。その行く末はどこなのだろう。

写真②

(2024年3月17日)

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