

2010年8月10日
戦時中、全国各地を襲った空襲で障害を負った人は、全国に30万人以上いたとされる。政府は、その被災者に対し、戦後、治療費や生活費などの特別な手当ては一切してこなかった。国からの援助もないまま苦しい生活を余儀なくされている空襲被災者の生活と補償を求める動きを取材した。
1945年3月19日深夜。燃えさかるように降り注ぎ、街を瞬く間に火の海に変えていく、“火の雨”とも言われる焼夷弾に名古屋市で襲われた福井良子さん(79)。当時13歳だった良子さんは、「本当に生き地獄だった」と話す。彼女の4つ上の姉、松野和子さん(83)は、3歳の弟を背負い、良子さんとともに逃げていたとき、焼夷弾が足元を直撃し、大火傷を負った。両足は化膿し、太ももの付け根から数センチを残して、切断された。それからが地獄の日々だったという。「自殺しようと思ったが、それだけの元気がなかった。これからという17歳9カ月で(両足を切断に)なったら、悲しいよ」と話す。
全国の163都市が空襲に見舞われた太平洋戦争。実は、戦時中は、空襲被災者に対して、手厚い補償があった。空襲で焼け出された人や障害を負った人には、一時支給金が支払われていた。ところが、その制度は、終戦と共に廃止され、二度と復活することはなかった。なぜ、復活しなかったのか。その謎は、敗戦直後の1945年11月24日、日本を占領したGHQが出した覚書に隠されていた。『恩給その他、あらゆる報酬や給付金の支給を打ち切るため、必要な手段を講じるよう、日本の帝国政府に対して命令する』と記されていた。軍国主義の一掃を目指したGHQは、軍人やその遺族などに対して特別な支給金を支払う“軍人恩給”の廃止を要求した。戦後補償問題に詳しい一橋大学の田中宏名誉教授は「軍隊に参加したことのために一般の人よりも優遇される制度は、日本軍国主義を支えた制度だから一切認めない。生活ができない人は、戦争に起因した人ということではなく、生活保護法によって最低限の生活を保障するというもの」と説明する。軍人、民間を区別しないというGHQの命令にこたえ、政府は、軍人恩給を廃止。さらには、一般の空襲被災者への補償制度も廃止した。しかし、7年後、GHQから独立した日本は、軍人恩給のみを復活させた。