524 | 525 | 526 | 527 | 528 | 529 | 530 | 531 | 532 | 533 |

2011年8月5日

“写真の少女”が息子へ語る原爆の記憶

“写真の少女”が息子へ語る原爆の記憶

戦争体験者の高齢化が進むなか、自らの貴重な経験を次の世代に語り継いでゆくシリーズ『戦争の話を聞かせてください』3回目。広島に原爆が投下された昭和20年8月6日午前8時15分。そのわずか3時間後、被爆直後の広島の惨状を伝える貴重な写真がある。御幸橋の近くで応急処置を受ける被爆者らを背後から写したものだ。そこには、裸足の少年やセーラー服姿の女学生らが写っている。この中に、当時13歳だった河内光子さん(79)の姿もあった。河内さんは、当時、周囲では誰も着ていなかった三角襟のセーラー服を着ていたため、写真を見て自分だとわかったという。写真は、撮影された場所に掲げられている。今回、河内さんは、その現場で、初めて息子の邦博さん(54)に対して、原爆が投下された時の惨状を語った。

当時、河内さんは、女子商業学校の2年生。学徒動員で、郵便貯金を扱う貯金支局に行っていた。貯金支局は、爆心地から1.6kmに位置する鉄筋4階建ての建物。河内さんは、その2階で作業をしていたところ、窓から火の玉のようなものが迫り、気絶したという。「目を開けたら真っ暗。周りの人と無事を確かめ合い、『逃げよう』と言ったら、じわっと明るくなってきた。このとき『おかあちゃん』と言って泣く人もいたし、『立てない、起きれない』と泣き叫ぶ人もいた」と話す。そんななか、友人が頭にけがを負っていた。その手当てをしてから避難を始めた。外に出た河内さんは、偶然近くで仕事をしていた父親と会うことができた。地面には、ガラスが散乱。河内さんは、裸足だったので、途中にあったズックの配給所でズックをもらい、御幸橋に向けて歩き続けた。ズックにもんぺ、三角襟のセーラー服を着た河内さん。写真は、このとき撮影された。写真に写った河内さんの背中には、無数のガラス片が刺さり、セーラー服には血がにじんでいた。しかし、体の傷より、そこで見た光景に、河内さんは心の痛みを覚えた。黒くなった赤ちゃんを抱いた若い女性が叫んでいたという。「黒くなって、泣きもせん・・・むごい」と話す。河内さんはこの後、生き地獄のようななかを2日かけて帰宅。しかし、家は焼け落ちていた。河内さんの父親は、その後、治療を受けて回復し、1966年に77歳で亡くなった。けがをした友人とは今も連絡を取り合っているという。

河内さんは、これまで自分の被爆体験をあまり語ってこなかった。

  • 1
  • 2
524 | 525 | 526 | 527 | 528 | 529 | 530 | 531 | 532 | 533 |