1914年、「阪急電鉄の父」小林一三が創設した少女歌劇を前身とし、創設以来、常に観客を魅了し続けてきたその華やかな舞台。第二次世界大戦という荒波にさらされた時代も、タカラジェンヌたちの強い絆で苦難を乗り越えました。しかし、その宝塚歌劇にまたしても危機が訪れました。1995年1月17日に関西地方を襲った阪神・淡路大震災です。マグニチュード7.2、最大震度7というこの大地震は、関西全域に甚大な被害をもたらし、死者6000人以上、負傷者40000人以上という、日本災害史上、最大級の損害をもたらしたのです。
真琴つばささん
「ひとりだったけど『ワーッ!』って声出して、テレビの上の時計が落ちて、姿見も倒れてきてカセットデッキの再生ボタンを押しちゃったんです。そしたら1週間前までやってた『狼男』の主題歌が流れて『人は誰でもひとりだ。だから泣くより、笑おう』って。『笑えるか!』ってひとりで叫んでましたね。」
タカラヅカの本拠地・兵庫県宝塚市は、その阪神大震災の被害をもっとも受けた地域のひとつ。震災の2年前にリニューアルされたばかりだった宝塚大劇場も壊滅的な被害を受けました。スプリンクラーが作動し劇場内は水浸しになり、コンピューター制御による最新の舞台装置はことごとく破壊され、約130トンの舞台装置を支えていた、直径8センチのボルトは真っ二つに折れました。また、すべての衣装を保管していた倉庫も水浸しとなってしまったのです。
震災当日は通常通りの公演が予定されていた上に、次回公演のチケット前売り発売日であったため、数時間後には数多くのファンが殺到するはずでした。地震発生が早朝であったため、お客さんに被害が及ぶという最悪の事態は免れたものの、公演再開まで最低でも半年は要する、というほどの甚大な被害を受けたのです。
しかし、この大震災を前に、第二次大戦をも乗り越えたあの「強い絆」が再びよみがえりました。震災地から遠く離れた東京では、大地真央さんや黒木瞳さんらが中心となり、総勢200名ものOGが、日比谷の東京宝塚劇場に集結。チャリティーコンサート「宝塚へ届け愛の唄声」を開催するなどして、タカラヅカの危機に立ち上がりました。さらにOGや数多くの関係者も、様々な形で宝塚復興に向けた活動をスタートさせたのです。
劇場係長・澤田正恒氏
「最初、見た時は、半年くらいかかるんじゃないかと思いましたけど、全国のお客さんから、『宝塚の灯を消すな!』と強い要望がありまして。工期の短縮、3月末までにオープンすることを目標にがんばったんです。協力会社の方が、震災からの復興の為に職人さんの手が必要だ、ということで、震災当日に人数を確保してくれまして…もう無茶苦茶うれしかったです。我々ではもう、どうしようもありませんので。」
営業担当・蓮池晃氏
「感傷にかられるというよりはですね、やはりお客様をどうお迎えするのかというのと、どうやって営業を続けるのかという、どっちかっていうと自分たちの思いというよりは、責任という部分の方が、たぶん皆の中にあったんじゃないかなと。従業員も食べるもがなく、当時、私ども遊園地も営業しながら、動物のエサのリンゴとかパンのくずとかというものを共に口にしながらというようなこともありました。」
そんな中、生徒達は、同期生同士で連絡を取り合い、公演再開を信じて、各自稽古に励みました。
舞風りらさん
「大震災で大変な方々もいらしたですし、少しでもそういう方に夢を見ていただけたらと。そういう時間を、夢を見ていただけるそんな時間を私たちが作れたらいいな、とあの時はみんなで頑張って…。」
震災から約1ヵ月後の2月23日には、再開のメドが立たないながらも、星組が稽古を開始しました。そして震災から74日後の3月31日、タカラヅカが帰ってきました。麻路さき擁する星組公演。再びタカラヅカにレビューの明かりが灯ったのです。依然震災の傷が癒えないままでしたが、それでも再開初日、劇場は多くのファンで埋め尽くされました。
演出家・植田慎爾氏
「家は焼けました、潰れました、でもこの時間だけは苦しいことを忘れて見られたので元気を得られましたから明日からまた頑張ります、だから先生のところの宝塚も頑張ってください、ってお帰りいただいたときには、少しはお役に立ってるんだって思いましたよ。だから文化というのは、政治や経済なんかと一緒のように大事だな、っていうのを実感して…。」
劇団生徒やOG、さらには歌劇に関わる多くのスタッフの熱意で、再びその灯をともした宝塚歌劇。しかしそれでも苦難の日々は続きました。阪神・神戸地区では、自宅が倒壊し、避難所生活を強いられる被災者も数多く、宝塚を観劇に訪れる観客数は、震災前に比べれば激減。客席に空席が目立つ日も多く、「辛くて2階席を見上げられない・・・」とつぶやいたトップスターもいたといいます。しかしそれでも彼女達はくじけませんでした。「被災地の人々の心を少しでも癒せるように」と、トップを始めとした生徒が一丸となって稽古に励み、舞台のクオリティーを高め続けたのです。
そして震災から半年後の6月、花組にひとりのトップスターが就任します。「宝塚の革命児」と呼ばれたスター・真矢みきさんです。真矢さんは、それまで「短髪」が当たり前だった男役の常識を覆し、なんと髪の毛を伸ばし、長髪の男役トップスター像を作り出したのです。さらにそれまで多く用いられていたメイクの色合いを変えたり、当時の宝塚の常識からすれば考えられない、写真家・篠山紀信氏の手による写真集を発表するなど、伝統を受け継ぎながらも、次々と新しいことに挑戦。新たなファン層を獲得し、確実に観客の心を捉えていったのです。
第二次世界大戦、阪神淡路大震災…二度の苦難にも決して屈しなかった宝塚歌劇団。その陰には、それを支える多くの人々の努力、そして「夢の世界」を届けるために、音楽学校での厳しい教えに耐え、伝統を受け継いだタカラジェンヌたちの熱い想いと、強い絆がありました。
真琴つばささん
「規則はですね、ハッキリ行って体育会系なんですよ。ノリが。私、学生時代バレーボールやってたんですけど、全く変わらないんですよ。仲間のひとりが怒られてたら、絶対知らん顔しちゃいけないって。一緒になって謝れって学校時代から言われてたので。」
浅海ひかるさん
「まず宝塚の音楽学校にはいって最初におしえてもらうのが、挨拶のしかた。上級生、先生方にする挨拶の仕方を教えてもらいますね。そこから始まって、舞台のこととか、化粧のこととか、衣装のこととか、いろんなことを教わります。」
舞風りらさん
「予科生のときには『何で隅っこのこんな細かいところまでこんなに丁寧に掃除するんだろう』って思ったんですけど、いま思えばそういう目が届かないところとか、自分が気づかないところにまで色んなところに目を配れるというか、色んなことに気づくことができるようにというか、本当に色んな意味がこめられていたんじゃないかと思うんですよね。隣の子が間違えても同期の責任だし、もし私が間違えたら、同期のみんなが『すいませんでした。明日までにはできるようにがんばります』といって…同期の絆も深めることができたし、厳しさの裏には嬉しさが100倍付いてくるみたいな、そんな感覚でした。」
小林一三氏が残した「清く、正しく、美しく」。その教えを忠実に守り、厳しい稽古と重い伝統を受け継いでいくことで、宝塚という夢の舞台は守られ続けてきたのです。
ことしも47名が宝塚音楽学院に入学し、夢の舞台「宝塚」の門をくぐりました。92年の歴史を支えてきたタカラジェンヌによる、宝塚への誇りと強い絆は、未来へ向って脈々と綴られていくのです。 |