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日本人初のNBAプレーヤーとなった田臥勇太選手は、昨年12月にサンズを解雇された後も、再びNBAのコートに立つ夢を追って、現在は、独立リーグABAのロングビーチ・ジャムでプレーを続けています。そう、彼の挑戦は始まったばかりなのです。バスケットプレーヤーなら誰もが夢見るこのNBAの舞台に、いまを遡ること60年前、ニッポン人の血を引くプレーヤーがいました。NBAの歴史に初めてその名を刻んだ日本男児・ワッツミサカこと三阪亙選手とは一体どんな人物だったのでしょうか?
 
 ミサカが生まれたのは1923年12月21日、アメリカ・ユタ州はオグデン。両親は広島県出身の日系1世で、オグデンの地で農家を営んでいました。しかし、ミサカ10歳の時、父親が他界。その後は、理容師だった母親が生計を支えました。少年時代、ミサカは、普通のアメリカの少年がそうであるように野球やバスケットボール、フットボールに夢中になっていました。特に高校時代はフットボールに熱中しましたが、ある時、プレー中に鎖骨を骨折してしまいます。そのとき、母親は「もう二度と、フットボールをしてはいけません」と彼に命じました。この一言が、彼の運命を決定付けることになったのです。
 その後、ミサカが選んだスポーツが、アメリカンキッズなら誰もが熱狂するアメリカ生まれのスポーツ・バスケットボール。本格的にバスケットを始めた彼は、持ち前の運動神経でたちどころに頭角を現しました。そして1944年、ミサカは全米屈指の強豪ユタ大学に進学。当時の大学リーグは、バスケットボールをプレーする者にとって最高の舞台でした。というのも、プロバスケットが誕生したのは、1946年。大学バスケットには、あらゆる人種が出場していたのに対し、プロバスケットリーグNBAは白人プレーヤーのみで構成されていたからです。日常的に広く人種的偏見が残っていたためでした。それ故、大学バスケット選手権は地元校を応援するという、現在のプロスポーツの根幹をなしたカテゴリーだったのです。

 が、時代は第2次世界大戦の真っ只中。日米の交戦状態が続く中、アメリカ国内では対日感情が悪化し、その矛先が在米の日系人達に向けられていました。沿岸部を中心に、強制収容所送りになる者、土地を取り上げられ財産までも没収されるなど、日系人にはあまりにも過酷な時代だったのです。ミサカがいたユタも例外ではありませんでした。
 しかし、そんな状況の中でもミサカは気丈にプレーを続け、ユタ大学の中心選手として活躍を続けました。そんな中、彼の運命を翻弄する出来事が…。
 1945年、ニューヨークでの試合から戻ったミサカに、列車のホームで待っていた母が、あるものを手渡しました。召集令状でした。アメリカ国籍だった彼に米軍から召集令状が舞い込んだのです。この時すでに日本との戦争は終結していました。しかし戦後処理のためにアメリカ軍は引き続き召集をかけていたのです。こうしてミサカは、第2次世界大戦終結直後の1945年11月、両親の故郷であり、自らのルーツであるニッポンへと赴任しました。彼に課せられた任務は、「原爆投下の市民への影響」の調査。くしくも原爆が投下されたのは両親が生まれ育った広島でした。

 ミサカは幼い頃から両親に、日本という国の美しさをたびたび聞かされていました。しかし、初めて目にしたニッポンは、無残に焼けただれた姿だったのです。スマステーションのスタッフは、いまもユタ州ソルトレイクで元気に暮らす81歳のミサカ本人を訪ねました。「自分はアメリカ人として育てられたからアメリカ人として国を守ることは当然と思っていた・・でも、日本の状況を見るのはつらかった・・。戦争が終わっていたことが唯一の救いだった」(ミサカさん・談)。
 
 9ヵ月の赴任を終えたミサカは、再びユタ大のコートへと舞い戻りました。そして1947年秋、NYマディソンスクエアガーデン。全米No1を決める決勝のコートにミサカは立ちました。相手は、史上最強と言われたケンタッキー大学。しかしそんな強豪相手に全くひるむことなく立ち向かったユタ大は、試合開始10分で13対11とリード。ハーフタイムでは27対21。その後もリードを守り続け、接戦の末に49対45で全米No1に輝いたのです。この試合にフル出場を果たしたミサカは、得意のディフェンスで相手エースをシャットアウトしました。翌日のニューヨークタイムズは、「アメリカ生まれの日系人リトル・ワット・三阪は再三パスをカットし、ケッタッキーに惨めな夜を味わせた“キュート”なやつ」と彼を褒め称えました。そしてこのゲームが、ミサカの人生を大きく動かす転機となりました。なんと、この年初めて開催されたNBAカレッジドラフト――大学生プレーヤーを対象にしたドラフトで、NYニックスに指名されたのです。当時のNBAは白人しかプレーしていなかった時代。この指名は、まさに異例中の異例の出来事でした。こうしてNBA史上初となる有色人種プレーヤー、ワッツ・ミサカが誕生したのです。契約金は3000ドル。いまの価値で20万円でした。誕生間もない当時のNBAでは、現在ほどの高額の契約金は保証されていなかったのです。
 ミサカは入団後、いきなりその実力を見せつけ、シーズン開始前に発表される登録メンバー12人にその名を刻みました。「ケンタッキー大との試合をNYでやっていたので、ニックスのファンも覚えていてくれてみんな応援してくれたよ・・」(ミサカさん・談)。
 そしてシーズン開幕。デビュー戦となった開幕ゲーム、キャピトルズ戦では持ち前のディフェンス力を発揮し初勝利に貢献。続くスティームローラーズとのゲームでは、攻撃にも参加し、5得点を記録するなど活躍しました。そしてシカゴスタッグスとの3戦目…懸命なディフェンスを見せたミサカも、シカゴの巧みなパス回しに翻弄され連勝はストップ。序盤の3試合に出場した彼の成績は、ディフェンスながら、フィールドゴール3本、フリースロー1本の計7得点でした。「当時はレベルも大した事無かったんだよ。ダンクシュートも無かったし、いまとルールも違ったしね。だから自分のこの身長でも出来たんじゃないかな」と当時を振り返るミサカさん。しかし、彼は3試合を終えた時点でチーム上層部から解雇を告げられます。
 活躍を見せていた彼はなぜ解雇されたのでしょうか。「いまでもわからないんだよ。当時は腹が立ったが何故だかは聞かなかったんだ。ゼネラルマネージャーに告げられたが『コーチが権限を持っているから』と言われてね。でも、日本語で言えば“しょうがない”」。この突然の解雇を巡っては、当時も様々な憶測が飛び交いました。コーチの人種差別、成績の不振…その理由はいまとなっては分からないのです。キング牧師らによる公民権運動が始まるのは、この年の3年後。更に戦争という傷跡も、まだアメリカ人の心に残っていたのかもしれません。こうしてNBA史上初の有色人種であり、ニッポン男児、ワッツ・ミサカはNBAのコートを去りました。

 ユタに戻ったミサカはその後、ユタ大でエンジニアリングの学位を取得。エンジニア関係の仕事に就き、自らの家庭を築きました。そして現在も、趣味のボウリングを楽しみながら、妻のキティーさんとともにユタで暮らしているのです。彼がNBAを去って3年後、NBAでは初めての黒人プレーヤーが誕生しました。これを機に、様々なスポーツで黒人をはじめとする有色人種プレーヤーが誕生し、同時に各競技は目覚しい進歩を遂げることになるのです。
 彼はいま、身長173センチの日本人・田臥勇太に昔の自分の姿を重ねているといいます。「いまのNBAは大きい人ばかりだから田臥選手も大変だと思うけど、絶対に諦めないでほしいね。落胆せずに続けていけば、必ず道は開けるんだから」とミサカさん。その言葉に対して田臥選手は「早くNBAに戻って、ミサカさんが成し遂げられなかったことをできるように頑張ります!」と答えてくれました。ミサカさんの夢を継いだ田臥選手の今後の活躍にも期待しましょう。頑張れニッポン!頑張れジャパニーズ!
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