その後ろには物語がある
2023年05月29日

 26日の金曜日、スポーツコーナーで、ケガの癒えたプロ野球・西武の源田壮亮選手が先発メンバーに復帰したというニュースを伝えた。そして僕はしみじみとした気持ちになった。大げさに言えば、僕らはある種の物語の延長にいることを再認識したのだ。

 源田選手の、特に捕球から送球へのすばやい動きに象徴される守備力には定評があった。ただ、それはあくまで「いぶし銀」の存在としてであり、しばらく戦線離脱をして復帰したからといって、ここまで特筆されることはなかっただろう。
 しかし、春のWBCを経て、源田選手はドラマチックなヒーローになった。送球する右手の小指を骨折しながらも、テーピングで補強し、志願して出場を続けた姿は、多くの人の胸に刻まれた。彼の復帰がニュースになるのは、その後景に、「物語」があったからである。野球好きのひとりとして、僕は源田選手の復帰に特別な感慨を抱く。

 一方、古い政治記者としての僕は、この週の別のニュースを考えていた。自民・公明の両党の間に入った亀裂のことである。25日、公明党の石井啓一幹事長は、「東京における自公の信頼関係は地に落ちた。東京での自公間の協力関係を解消する」と発言した。
 僕は驚いた。自公の連立政権には、20年以上、あるいはそれを超える長い物語があり、僕もそのわずかな一端を知るひとりだからである。

 僕がNHK政治部の記者だったのは、1989年(平成元年)から2005年(平成17年)までの16年間である。創価学会を支持母体とする公明党は、規模に限度があるとは言え、常にキャスティング・ボートを握る位置にいた。政治記者である以上、そのことは常に念頭に置いて取材に当たる必要があった。
 昭和から平成にかけてのこと。長年の自民党一党支配に対する国民の不信が高まり、政治改革が迫られた。その柱として、衆議院は、自民党のサービス合戦になりがちとされたそれまでの中選挙区制から、今の小選挙区比例代表並立制へと制度改革が行われた。惜敗率による「復活当選」は認められたものの、ひとつの選挙区における当選者はひとりだけとなったのだ。このことは、自公連立を促す要因のひとつとなる。

 創価学会を支持母体とし、発足以来、野党にあった公明党だが、政治的には「中道」の立場を取る。そのため、自民党にとっては、国会で行き詰まった時などの「苦しい時の公明党頼み」は、いわば習い性のようになっていた。
 壮絶な与野党対決となった、1992年のPKO法(国連の平和維持活動への協力法)では、自民党は公明党が主張した「PKO参加5原則」(停戦合意の成立など)をほぼ丸呑みする形で成立にこぎつけた。そのとき野党担当だった僕は、国会という舞台がダイナミックに動くさまをこの目に焼き付けた。
 自民・公明の連立政権の発足は1999年のことである。その主役は、当時の小渕恵三首相と、内閣の要だった野中広務官房長官である。参議院で過半数割れしていた自民党は、単独で法案を成立させることができない状態にあり、その打開を図ろうとしたのである。

 小渕・野中はこの時、少々トリッキーな手を使う。僕はその展開を、首相官邸担当記者として追っていた。野中は公明党に先立って、当時の自由党を率いていた小沢一郎党首との連立交渉に乗り出す。かつて共に自民党旧竹下派(経世会)に身を置きながら、激しく内部対立した関係だが、「悪魔とひれ伏してでも」と、自由党との連立政権樹立を果たす。それが1999年1月だった。

 だが、狙いはもちろん、そこにとどまらなかった。当時、官房副長官として支えた鈴木宗男は、私とのインタビューでこう証言している。
 「公明党さんが、自民党と直接連立を組む前に、自由党を一枚かませていただきたい。自由党が先に自民党と連立を組む、その半年後に公明党もついてくる。こんな流れでどうでしょうかという提案があった」。

 つまりは、事前にあらすじはできていたことになる。自自連立から半年以上経た同年10月、「自自公」連立政権は成立した。鈴木の記憶と大筋で一致している。その後、小沢は政策の不一致を理由に政権を離脱する。本命の公明党を引き寄せるためにまずは小沢に頭を下げ、役目を終えた小沢は政権での居場所を失う。巧みな政治の駆け引きの起承転結である。

 だが、現場で取材をしていた僕にとっては、それは単なる駆け引きを超えたものに見えた。政権の安定を悲願としていた小渕首相にとって、自由党を含めた三党の連立を守りたい気持ちは強かった。小沢を引き留めるトップ交渉が決裂した2000年4月1日、小渕は記者団のインタビューに、しばし絶句した。約5時間後、疲労困憊した小渕は脳梗塞に倒れ、そのまま帰らぬ人となる。
 僕は、その記者団のインタビューの輪の、一番前にいた張本人である。

 あれから20年以上が経つ。連立を組む両党の関係の支柱となり続けたのは、各種の選挙協力である。特に、衆議院の小選挙区では両党の協力の効果は大きく、接戦区にあっては特にそうだ。公明党の協力なくして今の議席はなかったという自民党議員は少なくない。
 今回、自公が揉めたのは、衆院選挙区の区割り変更により、東京の選挙区が25から30に増えるのに伴う候補者調整である。従来、公明党が公認候補を立て、自民党が立候補を見送ってきた選挙区はひとつだけだったが、公明党は今回、自らが望む2つの選挙区で公認候補を立てることにこだわった。しかし、自民党は難色を示し、交渉は暗礁に乗り上げ、先ほどの石井幹事長の発言に至る。

 公明党の石井幹事長は、「連立関係に影響を及ぼすことを考えてはいない」と言うし、岸田首相も、連立の基盤を守ると発言している。だが、自民の側からも公明の側からも、「こうなりゃ連立解消だ!」という威勢のいい声が上がる。威勢がいいだけではない。自民党幹部の中にも、連立解消を具体的に視野に入れる議員はいるという。

 僕は自民党の味方でも、公明党の味方でもない。自公連立を支持するかどうかも表明する立場にない。この連立政権を評価するのは歴史の役割であり、僕はその任にはない。
 ただ、両党の亀裂がここまで一気に走ってしまった驚きは今も変わらない。
 政権の安定のために、当時の政治家たちが気力と体力を削りながら作り上げたのが、今の自公連立の姿である。今はその立役者のかなりが他界してしまった。僕は、彼らが血眼になって知略を振り絞った姿を知っている。

 その後ろには物語がある。物語を知る政治家が減っていくことは仕方ないが、若い政治家たちも、若い政治記者たちも、物語を知る努力はしてほしい。
 古株の政治記者の独り言である。

(2023年5月29日)

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