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2010年1月14日

さよなら〜山口彊さん

さよなら〜山口彊さん

故人の人生を振り返りながら、その死を悼むシリーズ「さよなら」。今回は、広島と長崎で二度被爆し、“二重被爆者”として核の廃絶と平和を訴え続けた山口彊(つとむ)さん。

三菱重工業長崎造船所の造船技師として勤めていた山口さん(当時29)は、広島に3カ月出張していた。仕事も終わり、長崎に帰るのを翌日に控えた1945年8月6日の朝、爆心地から3キロの地点で被爆、全身に大火傷を負った。山口さんは、必死に逃げながら、川を流れるおびただしい数の死体を目にした。このときのことを「人間が繋がって筏みたいに流れていく。広島は私にとって第一の地獄」と語った。
山口さんは、命からがら、翌日、避難列車に乗り込み、家族の待つ長崎へ帰った。しかし、まさかそこに第二の地獄が待ち受けていようとは知るよしもなかった。8月9日、包帯だらけの姿で造船所に出社し、上司に広島の惨状を報告した。しかし、山口さんの上司は、『一発の爆弾で広島のような大都市が全滅するということは考えられない。頭が変になっているのでは』と山口さんの話を信じなかった。その時、ピカッと光った。二度目の被爆。山口さんは、とっさに机の下に隠れ、奇跡的に助かった。

山口さんは、二度の被爆で左耳は聞こえなくなり、白血球が減るなど、原爆症に苦しんだ。しかし、被爆者に対する差別や偏見は強く、山口さんは、自分が二重被爆者だと語ることはなかった。それは家族を守るためでもあった。ところが、終戦から60年目。2005年2月、息子の捷利(かつとし)さんが59歳で亡くなった。早すぎる死だった。捷利さんは、生後5カ月の時、長崎で被爆。その後、後遺症は出なかったが、60歳を前に突然、全身をがんに侵されてしまった。山口さんは、息子の死をきっかけに、これまで封印してきた二重被爆の体験を語り、反核を訴える決意をした。

捷利さんが亡くなった翌年の2006年8月、90歳の山口さんは、原爆を落とした国、アメリカを訪れた。ニューヨークの国連本部で核廃絶をアピールするためだった。「核兵器をなくすために皆さんの力を貸してください」と訴えた。そして長崎に帰ってからも反核の活動は続いた。“原爆投下は正しかった”と教わるアメリカから来た高校生たちに、山口さんは「巨大な火の玉が目の前で爆裂した。ちょうど皆さんと同じ頃の17歳の学生たちに会った。

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