

2010年12月22日
今から35年前、ベトナム戦争が終結し、その後、社会主義体制に移行したベトナムから逃れるために小さな漁船で海に出た人たち、いわゆるボートピープルを、日本は“難民”として初めて受け入れた。横浜市泉区にある「いちょう団地」。住民8000人のうち、約半数の4000人が外国とつながりを持っている。実に13の違う文化が交じり合う。団地近辺にある工場で働く難民の人もいれば、日本社会に溶け込めないまま、アメリカやオーストラリアに移住していった人も少なくない。難民の人々は、社会の冷たい風を最も受けやすい立場にいることは間違いない。いちょう団地の人々が少しでも暮らしやすくなるようにと奮闘しているベトナム難民の娘、グエン・ファン・ティホアン・ハーさん(25)を宮嶋泰子アナウンサーが取材した。
民間団体『多文化まちづくり工房』では、いちょう団地に住む難民の人などをサポート。すでに16年が経過し、最近では、自治体との共同事業も行うようになった。ここに生活相談に訪れる人は、後を絶たない。「これは、何の書類か」という簡単なものから、家族問題やお金の工面まで、ありとあらゆる生活相談が持ち込まれる。ハーさんは、ここで、翻訳や日本語を読むことのできない人のためにベトナム語のコミュニティー誌などを作っている。ハーさん自身も両親と一緒にいちょう団地に住んでいる。25年前にボートピープルとして日本に辿り着いた父親を頼って、ハーさんは1995年、母親、兄と共に“家族呼び寄せ”で来日。小学5年生だった。ハーさんの母親は、「日本に来てよかった。義務教育がうれしかった。『お金がなくても子どもが学校に行けるんだ』と思った」と話す。家ではベトナム語を話し、外では地元ボランティアの人たちに日本語を一から教えてもらい、大学にまで進学したハーさん。ベトナム語も日本語も操れる難民1.5世と呼ばれる貴重な世代だ。しかし、ハーさんは、大学卒業後、バイリンガルとして社会で働こうとしたが、外国籍だとわかると断られたという。
多文化まちづくり工房で手伝いをすることになったハーさんが、今、一番力を入れているのは、無償で行っている中学生の勉強のサポートだ。数式は解けても、日本語で書かれた設問の意味がわからないという子どももいる。「高校受験が一番大変だった」と話すハーさんは、ここで勉強を教えてもらい、高校に進学することができた。