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スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・F・コッポラ、マーティン・スコセッシ…ハリウッドを代表する映画監督である彼らは、『kurosawa's son=黒澤の子供達』と呼ばれています。そう、彼らは、日本が生んだ偉大なる映画監督・黒澤明の熱烈な信奉者なのです。そこで今回は、数々の伝説を残しその生涯を映画製作に注いだ黒澤明の生涯を追いました。 |
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黒澤明が映画監督としてデビューしたのは32歳――日本が戦争の真っ只中にあった1943年のことでした。そのデビュー作品が『姿三四郎』。主人公・姿三四郎が、柔道を通じて人間的に成長していく姿を、繊細かつダイナミックに描いた痛快娯楽作品です。当時、既に日本映画を代表する監督として知られていた小津安二郎は、黒澤のデビュー作を見て「"姿三四郎"は100点満点でいうと120点だ」と語ったといわれています。この『姿三四郎』は公開されるやいなや、連日、映画館に長蛇の列ができ、興行的にも大成功。黒澤は、その後も『酔いどれ天使』『醜聞スキャンダル』など自ら暖めていた脚本を次々と映画化し、映画監督として順風満帆なスタートを切りました。
そして11作目となる『羅生門』で黒澤にある転機が訪れます。高さ20m以上の門のセットを実際に作るなど、壮大なスケールで撮影された大作。しかしこの「羅生門」、実は公開当初から観客の入りは芳しくなく、映画会社からも、失敗作のレッテルを貼られてしまいました。映画監督としての最初の躓きでした。ところが、その「羅生門」が、意外なところで黒澤本人さえ予想だにしない評価を得ることとなります。1951年、第12回ベネチア国際映画祭でなんとグランプリにあたる金獅子賞を受賞したのです。これは日本人としてはもちろん、アジア人としても初めての快挙。この時、黒澤は41歳でした。
なぜ、日本で失敗作と言われた作品が、遠く離れたイタリアで日の目を見ることとなったのでしょうか。実は、受賞の1年前、日本で『羅生門』を見たイタリアの映画関係者が、「是非、この作品をベネチア映画祭に出品したい」と、一本のフィルムを持ち帰っていたのです。ベネチアでの熱狂振りはすさまじいものでした。グランプリ受賞のニュースは新聞各誌で一面を飾り、一夜にして「アキラ・クロサワ」は、イタリアは勿論のことヨーロッパで最も有名な日本人となったのです。ちなみに、このグランプリ授賞式当日、ベネチアには祝福されるべき黒澤の姿はありませんでした。慌てた主催者は、とりあえず東洋人を探し出し、和服を着せて受賞者席に座らせ、満場の喝采を受けさせたそうです。その後『羅生門』はベネチアに続き、1952年のアカデミー賞でも特別賞を受賞。その翌年には『生きる』がベルリン国際映画祭で銀熊賞を、さらに翌年には『七人の侍』がベネチアで銀獅子賞を受賞するなど、日本が生んだ天才映画監督は「世界のクロサワ」となっていったのです。しかし、ベネチアでの熱狂振りとは対照的に、日本での報道は、新聞にわずか5行の記事が載っただけでした。当時の日本人には、ベネチアでグランプリを取るということが、どれだけの栄誉か全く分かっていなかったのです。それでも、『羅生門』の国際的評価の高まりが日本に伝わるにつれ、日本での報道も加熱し始めました。戦後の復興期に「日本人でも頑張れば世界に通用する」という気運が日本中に広まっていったのです。 |
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そんな世界的なクロサワブームにあやかろうと、外国の映画会社からリメイクの話が相次ぎました。1960年、「七人の侍」は刀をガンに持ち替え、「荒野の七人」という西部劇として生まれ変わり、1964年、「羅生門」は、ポール・ニューマン主演で「暴行」という映画としてリメイクされました。そんな折、こうした海外でのクロサワブームが、ある事件を引き起こしました。『荒野の用心棒』による『用心棒』の盗作疑惑です。この事実は、『荒野の用心棒』が『用心棒』の盗作だとは知らなかった海外のバイヤーが、こともあろうに、本家である『用心棒』を作った日本の映画会社に売り込みに来てしまったことから発覚したものでした。『用心棒』の盗作疑惑は『荒野の用心棒』側が全面的に謝罪。賠償金10万ドルと「荒野の用心棒」の日本での興行権、さらに世界配収益の15%を日本側に支払うことで決着しました。しかし、黒澤作品の盗作と騒がれたことが効を奏したのか、『荒野の用心棒』は世界的大ヒットを記録。主演をつとめたクリント・イーストウッドも無名役者から、一躍、世界的名優の仲間入りを果たしました。後にイーストウッドは、カンヌ国際映画祭で黒澤に会った時、「ミスター・クロサワ。あなたなしでは今日の私はなかった」と話したそうです。
さらにイーストウッド以外にも黒澤へのリスペクトの言葉を残している映画人は多くいます。フランシス・コッポラは「クロサワのように壮大なスケールを目指した映画作りがしたい」。ジョージ・ルーカスは「映画作りを学ぶ者にとって、クロサワは間違いなく巨匠の一人だ」。そしてあのスティーブン・スピルバーグは「クロサワは現代における映像のシェークスピアだ」と、その偉大さを称えています。 |
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「完全主義という言葉が実際あるかどうか知らないけれど、モノを作る人間が完全なものを目指さないはずがありませんよ」(黒澤明)。黒澤明監督は、撮影現場ではどんな人物だったのでしょうか。それを説明する時、誰しもが口にする言葉が『完全主義』。「雲の形が気に入らない」「川の流れを逆にしろ」「馬が演技していない」などなど、黒澤は映画のこととなると、一切の妥協を許さない並外れた頑固者だったというのです。
そんな黒澤の完全主義ぶりがうかがえるこんなエピソードが残っています。1957年製作の『蜘蛛巣城』で、三船敏郎演じる武将に無数の矢が浴びせられるシーン。CGなどないこの時代故、使用したのは全て本物の矢。弓道の有段者数人が至近距離から一斉に矢を射るという、演じた三船にとって、まさに命がけの撮影だったのです。1963年製作『天国と地獄』では、当時としては異例の電車を貸し切っての撮影を行いました。滑走する電車の中から鉄橋に差し掛かった時に身代金を投げ渡すというそのシーン。しかし、ダイヤを乱さぬように、通常の運行車両を貸し切ったため、鉄橋を通過するチャンスは一度きり。失敗は許されませんでした。そこで黒澤は、電車の等身大の模型をリハーサルのためだけに造り、何度も何度もリハーサルを重ね本番に挑んだのです。NGが許されない一度きりの撮影のため、8台のカメラを同時に回しました。なんとか無事一回で撮影は成功したのですが、このシーンには更に、完全主義者・黒澤のすさまじいまでの拘りが隠されていたのです。実は、このシーンのロケハン中、鉄橋付近の景色を見て、黒澤は驚くべき一言を吐きました。「あの家が邪魔だな・・・」。カメラの前を一瞬だけ横切る民家の屋根が、どうしても邪魔だとういうのです。それを聞いた助監督たちは、その民家に出向き、こう切り出しました。「この家の屋根を…取り壊させてください!」。そして、撮影後に建て直すと言う条件付で、どうにか、屋根部分を取り壊す許可をもらったのです。
同じく『天国と地獄』では、こんなことも…。バーでのシーン。黒澤は、とにかくたくさんの客で埋め尽くしたいと言っていたため、スタッフは500人ものエキストラを用意しました。しかしそれを見た黒澤は、「少ないな…」と言い、急遽、壁を鏡貼りにさせ、その鏡の映り込みでエキストラが倍の人数に見えるように工夫して撮影したのです。『羅生門』の冒頭のすさまじい豪雨が降り注ぐシーン。最初の撮影では、ポンプ車4台を用意し、大量の水を放水したのですが、肉眼で見るのとは違い、カメラで映すと、思ったほどの豪雨にはなりませんでした。そこで黒澤は、水に墨汁を混ぜることで、雨の迫力を増そうと考えました。さらに、雨の日を狙って撮影するという、念には念の入れよう。白黒作品ならではアイデアですが、黒い雨が、見事に豪雨を表現しています。しかし、あまりに大量の水を使ったために、この地区は、一時的に水不足になってしまったそうです。黒澤作品にはなぜか雨のシーンが多くあります。中でも世界の映画史に残る名シーンとして語り継がれているのが、『七人の侍』での土砂降りの中での合戦シーン。映画史上、最大の雨を降らしたこのシーンは、いまや伝説ともなっています。北野武監督が『七人の侍』に影響を受けて撮ったというのが『座頭市』での、晴天での豪雨シーン。刀に反射して光る雨に『七人の侍』へのオマージュの意味が込められているのです。
1971年、当時ソビエトだったシベリアの大地で撮影されたのが、映画『デルス・ウザーラ』。シベリアを探検していた軍人が、デルス・ウザーラという密林で育った小数民族と出会う映画です。シベリアの大自然でのロケは過酷を極めました。冬場には零下45度まで気温は下がり、スタッフもほとんどが言葉の分からないロシア人、その上、映画撮影など初めて経験する軍人ばかりであったため、撮影は2年以上もかかってしまったのです。しかしそんな過酷な状況下でも、黒澤は決して妥協することはありませんでした。秋になると、黒澤はシベリアの美しい紅葉の山々の中で撮影したいと考えていました。ところが、撮影の前日、季節はずれの雨が降ってしまい、紅葉した葉っぱが全て散ってしまったのです。その裸になった寂しい木々を見て黒澤は「仕方がない。葉っぱを作ろう」と言い出し、スタッフに人工の赤や黄色の葉っぱを作らせ、広大な森中の木々に葉っぱを一枚ずつ貼り付けさせたのです。気の遠くなるような作業でしたが、そうやって再現された紅葉の中でのシーンは、非常に美しいものとなったのでした。そして、主人公が野生の虎に出くわすというシーンでは、当初用意された虎を見た黒澤は「この虎は目が死んでいるよ。野生の虎を捕まえてきてくれないか?」と言い出しました。実はその虎は、スタッフが撮影用にサーカスから借りてきた虎だったのです。虎の表情にこだわった黒澤は結局、目や顔のUPの時には野生の虎で、全体の動きが要求されるカットには、最初に使ったサーカスの虎で撮影を行いました。
黒澤の映画に対する数々の拘りは『完全主義者』『天皇』という「映画監督・黒澤明」のイメージを作り上げていきました。183cmという当時の日本人としては背の高いその体格とサングラスという風貌も、近付きがたいイメージを助長していたのかも知れません。また、黒澤監督は大変な美食家であり大食漢でした。特に肉が好きで、肉屋からの黒澤家への請求額はひと月100万円にも上ったといわれています。撮影が終わるとスタッフを労う大宴会を開いていたという黒澤監督。完全主義者と呼ばれながらも、常にスタッフへの心使いも忘れない、スケールの大きな人物だったことが伺われるエピソードではないでしょうか。 |
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「『影武者』のときのカンヌに僕は同行したんです。日本における黒澤明も凄いんですが、ともかく世界中の映画監督が表敬訪問ですよ。ホテルにひざまづかんばかりにですね、コッポラ、ルーカスの世界中の監督がひと目お会いしたいと、ずらーっと並ぶわけですから。僕はずいぶん一緒にお仕事してたんですけど、このとき初めて、『天皇ってのは、こういうことだな』っと外国行って気づきましたね。日本人が見てる黒澤監督よりも世界での黒澤さんの尊敬のされ方、天皇と呼ばれるエピソードのひとつですが…。『天国と地獄』のときは、『さあ、いざ本番!』となると、『NGだすと5千万だぞ』っていうわけですから、緊張しますよね。NGだすといけないっていうんで、みんな早口になるんですよね。別の日にアフレコをするんですけども、そのときに『どうしてそんなに早口でしゃべったの?』って監督は言ってましたけど」。 |
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「黒澤明が何を言っても、スタッフは驚かないと思いますよ。それは、だって映画のために必要だから言っているんであって、そのくらいのことで驚いている映画界だから、ちっともよくなんないんだよ。完全主義者じゃなければ、映画監督やっちゃいけない。完全に近いものを作ろうと、自分の考えてた映像を作ろうとすると、完全主義者といわれるだけであってさ、みんな途中で、これでいいかって思う人が多いから、そういわれるだけであって、彼のやっていることは、そんなとんでもない、突飛なことをやっているわけではない、人を斬るときに人を殺しているわけではないから。完全主義より一生懸命作っているという意味で言われているんだと思うよ。妥協しないというだけ。例えば、立ち回りに真剣を使うのは危ないから使わないよね。でも歩いている時に真剣を腰にさすと、重さで腰が落ちて歩くわけ、それを竹光でやるとさ、いまの人は、そういう歩き方が出来ないわけ。そのためにわざわざ真剣をさして歩かしたりするのを、みんなは不思議がったけど、それはそれなりの理由があるから、僕たちは当たり前のことだってみんな解釈してるんだよね。それをこだわりっていうより、当たり前のことを周りの人はそこまでやらなかったから、こだわりっていうんであって、黒澤組の連中にしてみれば、それは当たり前のこととして受け止めてる」。 |