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9月3日。『SMAPとイク“SAMPLEツアー”for62days』東京公演初日がとある場所で行われました。その場所とは、国立霞ヶ丘競技場、通称「国立競技場」です。サッカーやラグビー、陸上など、長年に渡って数々の名勝負、そして感動を生んできた日本スポーツ界の聖地で、単体アーティストによるコンサート開催が許されたのは、実は、今回のSMAPが歴史上初なのです。香取編集長をはじめ、SMAPの5人が足を踏み入れた聖地・国立競技場――その知られざる歴史に迫ります。 |
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国立競技場があるのは東京都新宿区霞ヶ丘町。江戸時代、この一帯は広大な原っぱでした。周辺には備中高松、いまの岡山県を治めた旗本・花房家を始め、武家屋敷が集中しており、そこに住む御家人たちはこの原っぱで優雅に鷹狩りをして遊んでいたそうです。そして明治維新後、江戸城が皇居となり、広大な敷地を有する武家屋敷は陸軍施設に。この辺一帯も大日本帝国陸軍の兵隊が行進を練習する広場・青山練兵場となったのです。明治天皇が崩御すると、それを祭るために造られたのが明治神宮。現在の国立競技場に程近いこの場所。それに伴って青山練兵場も、その外苑として整備されました。そんな中、この地にアジア最大の本格的陸上競技場建設の計画が持ち上がります。着工は1919年12月。しかし完成目前に迫った時、不足の事態が起こりました。1923年の関東大震災です。工事中だった競技場は大打撃をこうむりました。そればかりか、住む場所を失った人々が建設途中の競技場に押し寄せ、収容施設と化したのです。実に6400人もの被災者がしばらくの間、この場所で暮らしました。これにより、完成は1年伸び、着工から5年後の1924年10月、「明治神宮外苑競技場」はついに完成しました。
完成から12年が経った1936年、神宮競技場に国際デビューのチャンスが訪れました。東京がオリンピック開催地の候補に名乗りを上げたのです。ドイツで開かれた開催地決定の会議で、日本代表・嘉納納治五郎がこう訴えました。「アジアの一角に全世界の若者が集まる時、世界は新しい平和への幕開けの時を迎えるであろう」。この演説が功を奏したのか、フィンランドのヘルシンキを大差で抑えて、東京が次期開催地に決定したのです。そのメイン会場として当初考えられていたのが、国立競技場の前身「明治神宮外苑競技場」でした。しかし、内務省が『天皇家ゆかりの地』での開催に強く反対。そこで急遽、白羽の矢が当たったのが、13万坪という広大な敷地を誇っていた世田谷の駒沢ゴルフ場でした。ここに当時世界でも最大規模の競技場「国立駒沢競技場」が建設されることとなったのです。ところが、オリンピックが3年後にせまった昭和12年、日本は日中戦争へと突入していきました。そのため競技場を建設する物資が不足し、更には軍国主義を貫く日本は国際社会からも孤立していきました。その結果、日本政府はオリンピック開催の権利を放棄。東京オリンピックは「幻のオリンピック」となり、国立駒沢競技場の建設も計画だけに終わったのです。
敗戦から数年後、平和を取り戻した日本は、東京オリンピック招致へと乗り出しました。その悲願を達成するため、1959年に開催される 第3回アジア競技大会で国際的なアピールをする必要があったのです。それにはまず、大きくて新しい競技場の建設が不可欠でした。そこで、神宮外苑競技場を取り壊し、その場所に新たな競技場が建設されることとなりました。しかし、第3回アジア競技大会まで、残された時間はたったの15カ月。機械で少しずつ解体していたのでは間に合わないため、大量の爆薬による爆破解体が行われました。神宮外苑競技場の爆破解体した箇所から、同時進行で基礎工事が進められました。22000立方メートルという大量のコンクリート、3000tという鉄筋鉄骨を調達するため、日本各地にこの工事専用の下請けのコンクリート工場や製鉄工場が多く造られ、工事は24時間体制で休みなく続けられました。そして、第3回アジア競技大会まであと2カ月と迫った1958年(昭和33年)3月25日、現在の国立霞ヶ丘競技場が完成したのです。総工費13億5000万円、7万1328人収容の当時アジア最大のスタジアムでした。 |
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1964年10月10日日本国民念願の東京オリンピックが国立霞ヶ丘競技場で幕を開けました。大会の模様は、オリンピック史上初めて衛星中継で世界45か国に同時放映されました。国立競技場が全世界にデビューした瞬間です。東京オリンピックの競技場となった国立では、オリンピック史上に残るいくつもの感動のシーンが生まれています。 「マラソンの王者」・アベベの世界最高記録、「史上最強のスプリンター・褐色の弾丸」ボブ・ヘイズによる爆発的な走り。この東京オリンピックではじめて電動によるタイム計測が導入され、ヘイズは、当時の世界タイ記録となる10秒0をはじき出し金メダルを獲得したのですが、従来と同じ手動測定で、バックアップ用に記録していた時計による記録は、なんと9秒9。もし従来通りの計測法なら、「人類初となる10秒の壁突破」は国立競技場で生まれていたかも知れなかったのです。この国立競技場には、東京オリンピックで世界中からアスリート達を迎え入れるために、様々な工夫が施されています。そのひとつが、『女性用立ち小便器』。世界中からやってくる選手の中には、女性が立ちながら用をたすのが一般的な地域もあるため、選手用の女子トイレには、『女性用立ち小便器』が設置されたのです。現在はこの女子トイレ、使われていないそうです。競技場の四番コーナーにそびえ立つ白いポールは、1928年、第九回アムステルダムオリンピックの三段跳びで、日本人初の金メダリスト、織田幹雄氏の栄誉をたたえ設置されたもので、ポールの長さが、その時の記録と同じ15メートル21センチに設定されているのです。 |
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オリンピックから15年後の1981年。国立競技場が再び世界から注目を浴びることとなる大会が開催されました。サッカークラブ世界一決定戦「トヨタカップ」の開催です。南米とヨーロッパのサッカーのクラブチャンピオンが中立国の日本で、真のクラブ世界一の座をかけて争う、全世界注目の大会でした。しかし、この大会で国立競技場は聖地としてのプライドをずたずたに引き裂かれることとなったのです。試合の前日、国立競技場のグラウンドで練習に終えた世界のスーパースターたちは、口を揃えてこう言いました。「で、本番はどこで、試合するんだい」。実は、当時の国立競技場は、いわゆる日本芝と呼ばれる低温に弱い高麗芝を敷いていました。そのため、冬になると茶色く枯れてしまっていたのです。青々とした緑の芝でプレーすることが当たり前の一流プレーヤー達にとって、枯れた芝生のグラウンドでプレーすること自体、あり得なかったのです。「枯れた芝生では日本の恥を世界にさらすことになる」。この事態に、国立競技場の関係者は、とんでもない方法で対処しました。なんと、枯れた芝生に緑の塗料を吹きかけたのです。第1回トヨタカップの映像をよく見てみると、ピッチが不自然な緑色なのが分かります。当然、この安直な発想は、翌日の新聞で「みっともない」と更なる批判にさらされる結果に終わりました。その後、国立競技場は長きに渡り、冬の時代へと突入することとなりました。冬場には芝が枯れてしまっていた国立競技場は、冬にはある施設として、一般の人に開放されていました。その施設とは「ゴルフの練習場」。この広い競技場を有効利用しようと、ゴルフの打ちっぱなしの練習場として開放したのです。それは、ラグビーのゴールポストを目標に打つというなんとも奇妙な光景だったそうです。
そんな中、「ナショナルスタジアムが、このままではいけない」と、立ち上がった男達がいました。当時の管理責任者であった鈴木憲美さんを中心として結成されたプロジェクトチームです。どうすれば冬でも青々とした芝にできるのか…鈴木さんは、世界中のありとあらゆる芝を取り寄せ、自宅の庭に植えました。そして研究開始から数年たったある日、鈴木さんはあるアイデアを思いつきます。国立競技場のピンチを救うこととなるそのアイデアとは『芝の二毛作』。夏には夏芝を、冬には冬芝の種を蒔くことにより、1年中緑の生きた芝生を育てることを可能にしたのです。鈴木さんを中心とした関係者の苦労と努力の結果、国立のピッチは、年中緑の状態を保つこととなり、見栄えだけでなく、プレーのしやすさも、現在では、世界最高水準といわれるまでになったのです。 |
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数々の苦難と再生のドラマを生んできた国立霞ヶ丘競技場は、多くのヒーローも誕生させています。1979年9月7日、サッカーワールドユース選手権決勝では、若干18歳の天才が国立競技場から世界デビューを果たしました。その天才とはディエゴ・マラドーナ。大会MVPに選ばれたマラドーナは、同年、南米最優秀選手賞も受賞。国立競技場でのプレーをキッカケに世界へと羽ばたいていったのです。そして、あのジーコもこの場所で栄冠を手にしました。過去、ブラジル代表として三度W杯に出場したジーコでしたが、一度も優勝することは出来ませんでした。そんなジーコが、唯一、世界一の栄冠を手にした場所が、トヨタカップなのです。1981年、第2回トヨタカップ決勝。ジーコ率いる南米王者フラメンゴは欧州王者リバプール相手に快勝し、見事世界一の栄冠に輝いたのです。「あの日のことは一生忘れない。国立競技場は、僕が世界一になった場所。あの頃から、日本に縁があったんでしょうね」というジーコは、このトヨタカップでMVPを獲得し、その賞品だった日本車を、現在でも故郷ブラジルで大切に乗っているそうです。『サッカーの王様』ペレの引退試合が行われたのも国立でした。1977年、ペレの引退試合は、ペレ、ベッケンバウアーを擁するスーパースター軍団「NYコスモス」と日本代表との間で行われ、当時の日本スポーツ史上最高記録となる観客数6万人を記録したのです。ほか、ここ国立競技場は高校サッカーやラグビーの聖地として、数々の名勝負を生み出していきました。 |
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日本サッカー史の中で国立競技場を舞台に、幾度となく死闘を繰り広げたのが日韓戦。1967年10月7日に行われたメキシコ五輪出場を賭けた日韓戦は、史上に残る名勝負として、いまも語り継がれています。それから18年後の1985年、国立が再び満員の観客で埋め尽くされました。当時日本が「もっともワールドカップに近づいた日」といわれた、メキシコワールドカップ・アジア最終予選の日韓戦です。この試合に惜敗した日本は、念願のワールドカップ出場を逃してしまいました。その後、サッカーの試合で国立競技場が満員になることはなく、サッカー人気は低迷の一途をたどっていったのです。
その現状を打開すべく立ち上がったのが、現・日本サッカー協会キャプテン・川淵三郎氏でした。当時サラリーマンとして務めていた古河電工を辞め、日本サッカーリーグの総務主事に就任した川淵氏は、まず、観客を集めることに心を砕き、「国立を満杯にする会」を主宰。6万人の観客を国立競技場に集めようと、全国の少年サッカーチームの名簿を洗い出し、日本サッカーリーグの試合に無料で招待することにしたのです。しかし、実際に入ったのは目標の半分の3万人でした。限界を知った川淵は、日本サッカーが生き残る道は「プロ化」しかないと考え、10年はかかるといわれたプロリーグ発足を、たった3年で実現させてしまったのです。1993年5月15日、国立競技場でのJリーグ・オープニング試合は、ヴェルディ川崎vs横浜マリノスでした。
1997年、日本代表は予選を勝ち抜き、フランス大会で、ワールドカップ初出場を果たしました。国立競技場と共に歩んできた日本サッカー界が、ついに世界デビューを果たした瞬間でした。迎えた2002年、日韓共催ワールドカップ。しかし、国立競技場はその会場に選ばれませんでした。日本サッカーを見守り続けてきた聖地・国立競技場は、何故日韓共催のW杯の試合会場に選ばれなかったのでしょうか? それは「屋根がなかったから」。FIFA、国際サッカー協会の規定では、観客席の3分の2以上、屋根で覆われていない競技場はワールドカップの会場に認められなかったのです。ではなぜ改修工事によって屋根をつけなかったでしょうか。その背景には、当時、財政圧縮を目指していた東京都の方針がありました。金銭的な理由によって、東京都はワールドカップ招致に消極的だったといわれているのです。しかし、国立競技場が日本スポーツ界にとって、「聖地」であることに変わりはありません。世界の数ある「聖地」と並び称される日本の誇りなのです。 |