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日本国内だけで年間1500億円以上を売り上げ、そのデザインの美しさや実用性などから世界で最も愛されているフランスの一流ブランド「ルイ・ヴィトン」。その人気の秘密とは?
そして、ルイ・ヴィトンと日本の意外な関係とは? 香取編集長も招待された「ルイ・ヴィトン創業150年パーティー」のもようを紹介しながら、ルイ・ヴィトンの魅力に迫ります!
「ルイ・ヴィトン」誕生
「ルイ・ヴィトン」の歴史は古く、1854年に遡ります。その頃の日本は、浦賀沖にペリー率る黒船が来航し、日米和親条約が結ばれるなど激動の時代。ちなみに、このとき近藤勇は20歳。新選組局長として名を馳せるまでにはあと10年を待つことになるのです。
ブランド「ルイ・ヴィトン」の創業者、ルイ・ヴィトンが生まれたのは、1821年、スイスとの国境に近いジュラ地方アンシェイ村。12人兄弟、真ん中の子として生まれたルイは、父の影響もあり、職人としてのキャリアをスタートさせます。しかし14才のとき、育ての母親との仲が悪化し、ほとんどお金も持たずに家出。そして彼が向かったのが、当時光の都と呼ばれていたパリでした。パリにたどり着いた少年ルイは、ある一流職人の見習いとなります。それは、トランク製造と、そのトランクに荷造りをする荷造り職人。当時はまだ針金ですそを広げるスカートが流行しており、ドレスをいくつも持ったお金持ちが旅行するときには、専用のトランクが必要でした。更に、「畳んでかばんにつめる」という荷造り職人までいたのです。
この職人のもと、ルイ・ヴィトンは抜きん出た才能を発揮、フランス皇室からの注文を受けるなど、フランス随一の職人にまで上り詰めます。そして1854年、33才にして独立。当時高級ブティックが建ち並んでいたパリ・カプシーヌ通りに店を構えたのです。世界で初めて、トランクを専門に扱うこの店こそ、後に世界一のブランドにまで発展する「ルイ・ヴィトン」誕生の瞬間でした。
当時ルイが作っていたのは、馬車旅行のためのトランク。馬車の後ろに積んだとき、雨が垂れるよう、蓋が丸みを帯びた、当時としてはごくごく普通のデザインでした。この頃はまだパリにいくつもあるトランク屋の一つにすぎなかったのです。そんなルイ・ヴィトンがブレイクするきっかけとなったのが、蓋が平らなトランク。時代の先を見ることにたけていたルイ・ヴィトンは、交通機関の発達に注目。これからは船や機関車での移動が増えると読み、それまでの「蓋の丸いトランク」から、室内で積み上げることができる「平らなトランク」を考え出したのです。素材も、革より軽い無地のコットンを使用。更にそれに防水加工を施した「グリ・トリアノン・キャンバス」を開発しました。当時の一般的なトランクに比べ、ルイ・ヴィトンのトランクは軽くて丈夫。さらには、トレーや仕切りまで設置され、使いやすさをとことん追求したものだったのです。こうして「ルイ・ヴィトンのトランク」が誕生すると、当時のセレブたちの間で一躍評判になったのです。
「ジャポニズム」との出会い
そんな中、1878年、フランス・パリで、ルイ・ヴィトンにとって運命の出会いともいえるイベントが行われました。それは――万国博覧会。世界中の国々、そして5万以上の企業が出展したこの博覧会の中で、最も注目を浴びたパピリオンが実は日本館。ここでヨーロッパに初めて紹介された、日本庭園や盆栽、版画そして陶磁器の数々…。初めて目にした日本文化の美しさに、フランス人はもとより、ヨーロッパの人々はすっかり虜になってしまったのです。もちろんルイや息子のジョルジュ・ヴィトンもその例外ではありませんでした。こうして始まったのが日本ブーム…いわゆる「ジャポニズム」です。
実はこのジャポニズム、フランス文化に与えた影響は大きく、芝居やバレエはもちろんのこと、当時活躍していた画家ゴッホ、セザンヌ、ルノワール、モネなどはみな浮世絵などの日本文化の影響を強く受けたのです。
一方、この頃日本といえば、近藤勇の死からちょうど10年が経った明治11年。伊藤博文や大隈重信が新しい日本の確立を目指して活躍していた時代でした。海の向こうの遠い国では、日本人の知らない間に日本文化が大ブームとなっていたのです。
フランスでジャポニズムがかなりの盛り上がりを見せていた当時、2代目を継いだ、ジョルジュ・ヴィトンは新作を発表します。それが「モノグラム」。ルイ・ヴィトンのデザインを代表するといっても過言ではない、このモノグラムは、様々な文化の中でも、特に日本のある文化の影響を強く受けていると言われています。それは「家紋」です。実は、当時ルイ・ヴィトンを悩ませていひとつの問題がありました。「模倣品」いわゆるニセモノ品の横行です。ルイ・ヴィトンの活躍を妬む同業者によるニセモノに対して、ルイは次々と新しいデザインを生み出すことで対抗したのです。そして次に生まれたのが、日本の市松模様の影響を受けたとも言われる「トアル・ダミエ」。しかし、一向になくならないニセモノに、もっと複雑な柄を描かなければ、ということで生まれたのが、ダミエと同じく、日本文化である家紋の影響を受けたと言われるモノグラムだったのです。創業者のルイ・ヴィトンのイニシャル、そして花・星を表すこのモノグラム。実際、ジャポニズムの巻き起こっていたパリではなんと日本の家紋を紹介する本がベストセラーとなっていたという事実もあるのです。
昔はなんと職人によってひとつひとつ描かれていたというモノグラム。工房にはモノグラムに影響を与えたかもしれない、日本の漆塗りの「櫃」がいまも残されています。ちなみにこのモノグラムキャンバスを使って初めて作られたソフトバッグがスティーマーバッグと言われています。いまでも定番商品として人気のこのかばん、当時はスティーマー…蒸気船での旅行中、洗濯物をためておく入れ物として考案されたもので、もち手をドアのノブにかけて使われていました。自らロゴをデザインし、製品に配する…いまではどのブランドもやっていることですが、これを初めて行ったのがルイ・ヴィトンだったのです。
1914年、ルイヴィトン本店は手狭になったスクリーブ通りの店舗から、パリの中心シャンゼリゼ通りへと移転。店舗の広さは4フロアで500平方メートル――当時としては世界一大きな旅行かばん専門店でした。顧客リストには当時を代表するセレブたちの名前がありました。グレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒ、そして、「キング・オブ・ハリウッド」早川雪州。1921年には日本の皇族も、初めてこの店を訪れています。それが、、当時の裕仁皇太子…昭和天皇です。お忍びでシャンゼリゼを散策された皇太子殿下は、殿下のフランス訪問を歓迎して、鳥居が飾られたルイヴィトンのショウケースの前で足を止め、いくつかのトランクをご覧になったのです。その場では買い物はなさらなかったものの、後日お付の人がトランクを買い求めにやってきたのです。
日本上陸
ルイ・ヴィトンが日本に本格的に入ってきたのは、モノグラム誕生からおよそ80が経過した1978年。ルイ・ヴィトンの日本支店が設立されたのです。戦前、ロンドンとアメリカに店舗を持つも、戦後、ルイ・ヴィトンの直営店舗はフランスのパリとニース、2店だけとなっていました。しかしある理由からルイ・ヴィトンは日本進出を決意。そして実際、日本は世界再進出の第1号拠点となったのです。ルイ・ヴィトンに日本進出を決意させたその理由とは――パリの店舗前にできた行列でした。海外旅行が自由化されてからおよそ10年、1970年代前半になってようやく航空券の値段も下がり、日本では空前の海外旅行ブームが巻き起こりました。それに加えて、デザイナーのケンゾーや、イッセイ・ミヤケ、モデルの山口小夜子らがパリで大活躍をした時代。さらに、彼らの活躍を取り上げたファッション誌の登場も手伝って、日本では一部のセレブの間でしか知られていなかったルイ・ヴィトンという世界の一流ブランドが、多くの日本人の知るところとなったのです。そして日本の3分の1以下で買うことができた海外のルイ・ヴィトン店舗には、観光客のみならず、並行輸入業者が列をなす結果となったのです。
そんな並行輸入業者に対抗するためにルイ・ヴィトンがうった手段が、「ルイヴィトン・ジャパン」の設立。フランスにより近い値段で、一流のサービスとこだわりを提供したのです。そして非公式な数字ながらも、わずか10年余り後にはルイ・ヴィトン全体の売上の実に半分までを日本人が占めるように・・・。現在では20代女性の94,3%がルイ・ヴィトンの製品を、49,1%がルイ・ヴィトンのバッグを持っているという統計もあるのです!
そして2003年、ルイ・ヴィトンは日本と再び深いかかわりをもつようになります。それが、村上隆とのコラボレーションシリーズの発表でした。そしてことし、ニューヨーク5番街にオープンしたルイ・ヴィトンのビルを設計したのが青木淳。ニューヨークのブルックリン美術館の改修設計などを手がけてきた青木は、古いビルの正面を白いガラスが覆うというデザインを発表し、世界中で大きな話題を呼びました。名古屋店・表参道店、そして昨日リニューアルオープンしたばかりの銀座・並木通り店などのデザインを手がけたのも青木氏なのです。世界の一流ブランド「ルイ・ヴィトン」。そこにはニッポンの文化が大きく影響を与えていたのです。
ルイ・ヴィトンの顧客リストとこだわり
「ルイ・ヴィトン顧客リスト」には、ある日本人の名前があります。後藤象二郎――土佐藩士として坂本竜馬と共に活躍し、大政奉還実現の一翼を担った人物で、あの近藤勇とも親交があったことが知られてる人物です。そんな後藤が、(日本に鹿鳴館の建設された)1883年、板垣退助と共にフランスに渡り、パリのルイ・ヴィトンで総革張り・110センチの大型トランクを買い求めたことが記録に残されているのです。そしてもうひとりは、明治維新後伊藤博文らとともに活躍し、内閣総理大臣を務めた、西園寺公望。1886年、彼もまた、ルイ・ヴィトンで4つのトランクを買ったことが記録に残っています。創業以来の記録がつめられた、このルイヴィトンの顧客リストは、いまでもパリに保管されているのです。このリストにはもうひとつ、あるものが記録されています。それは、鍵番号。2代目ジョルジュ・ヴィトンは模倣品に続き盗難に頭を悩ませていました。そこで彼は防犯性の高い5枚の羽を持つ鍵を発明。これは顧客ひとりひとりに鍵番号が与えられていて、すべてパリの本店で管理されているのです。そのため、トランクをいつ、そしてどこの店でいくつ買っても、すべてひとつの鍵で開けることが可能なのです。トランクをめぐってはもうひとつのこだわりがありました。それは防水性です。当時ヨーロッパとアメリカなど、遠距離の旅行はもちろんすべて船。そこで、ルイヴィトンは、完全防水のトランクを開発、万が一の事故に備えたのです。実際、1912年、あのタイタニック号の事故の際、ルイ・ヴィトンのトランクにつかまり、命が助かった人もいたと言われています。さらに、沈没から数十年後、タイタニック号の船室から遺品が引き上げられたとき、ルイ・ヴィトンのトランクの中身は水にぬれず、当時のままの姿で残っていた、という逸話まで残されているのです。
「ノエ」の使い方とは?
旅の形が多様化したのに伴い、製品のラインアップが増え、様々なバリエーションを備えていくようになります。1924年に誕生したのが、いまでも高い人気を誇るソフトバッグ「キーポル」。これは大型のトランクに折りたたんで収納し、必要なときに使う、という補助バックとして作られました。そのデザインから発展して作られたのが、「スピーディー」。これは当時一般にも浸透しつつあった、自動車の助手席に気軽に置けるよう作られたのです。あのココ・シャネルの依頼によって制作されたのが「アルマ」。翌年26年にはインドのバローダ大王の依頼によって「ティー・ケース」を制作・発表しました。虎狩りの際にお茶の道具を運ぶため発注されたこのトランク。このときのデザインから誕生したのが「エピ」です。そして、数年前に一世を風靡、いまも人気の高い「ノエ」もこの頃発表されました。
ちなみに、現在は町で普通に使われている、このノエですが、実はもともと、シャンパンを運ぶために作られたものなのです。ノエとはシャンパーニュ地方の製造業者がシャンパンを入れるために発注した、いわば巾着袋。ちょうど5本のボトルが入るよう、デザインされているのです。
実はルイヴィトンの真髄はこうした製品ラインアップだけではありません。創業以来の「旅をテーマにした」スタイルを受け継いで、ルイ・ヴィトンではいまでも旅する人のための特別発注・スペシャル・オーダーを大切にしているのです。顧客のプライベートを守るためあまり公表はされていませんが、古くは、中東へ旅行する女性のオーダーで、馬車をそっくり収納できる旅行カバンを作ったり、世界ではじめて大西洋単独横断飛行に成功したリンドバーグはパリからの帰り、お祝いの品で膨れ上がった荷物を入れるための船旅用トランクを作成しています。最近では、テニスラケット用のケース、自転車を収納できるトランク、哺乳瓶を入れるためのバッグなども。さらに、もともと、カバンつくり兼、荷造り職人としてスタートした、ルイ・ヴィトンの伝統はいまも残されています。パリ・そして銀座並木どおりの店舗には現在も「荷造り専門職人」がいるのです。
映画の中のルイ・ヴィトン
世界中で愛されるようになったルイ・ヴィトンは、ステータス・シンボルとして映画の世界でも多く使われていくようになり、スクリーンの中のスターを通じてますます人気は高まっていきました。オードリー・ヘップバーン主演、「昼下がりの情事」にはゲイリー・クーパーがモノグラムトランクをもって登場。「シャレード」でもヘップバーンはルイ・ヴィトンのバックを使っています。そして「仁義」では主演のイヴ・モンタンがワードローブトランクを洋服ダンス代わりに。「007/美しき獲物たち」でもルイ・ヴィトンのトランクが使われているのです。そしてルキノ・ヴィスコンティ監督は大のルイ・ヴィトンファンで、「イノセント」「山猫」「若者の全て」などその作品の多くでルイ・ヴィトンを演出の小道具として使っています。

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