

2009年11月11日
『邪馬台国』は、どこにあったのか______
日本最初の集積国家とされる「邪馬台国」。その女王である卑弥呼の唯一の手がかりである中国の歴史書「魏志倭人伝」には、239年に魏に使いを送ったこと、3世紀半ばに戦の最中に死んだらしいこと、そして一生独身だったことなどが分かるだけだ。邪馬台国をめぐり、江戸時代から始まった論争は、現在まで300年続いている。そして、数ある候補地の中でも最も有力な説が“畿内説”と“九州説”の二つだ。“九州説”は、中国に近いことや、吉野ヶ里遺跡など魏志倭人伝で書かれているような大規模な弥生時代の集落が発見されていることなどが根拠となっている。佐賀県立女子短期大学・高島忠平学長は「卑弥呼が統括した30の国は九州で十分にまかなえる。文献学上の色々な成果も九州説に有利な解釈が多いと思う」と話す。対する“畿内説”の有力な候補地である奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡一帯では、巨大な前方後円墳が点在し、日本各地で作られ運び込まれた土器などが見つかっている。中でも箸墓(はしはか)古墳は、卑弥呼と同じ年代に造られたという研究結果も出ている。しかし、畿内説も九州説も決定的な証拠がなく、これが邪馬台国論争を過熱させる理由だ。
こうした中、11月10日、纒向遺跡で3世紀では国内最大規模の大型建物跡が見つかったと発表された。発掘現場では、直径30センチの太い柱と直径15センチの細い柱が一定間隔で交互に立っているのが分かる。太い柱は、建物本体の主柱、細い柱は高床用の柱だという。南北19.2m×東西12.4m、床面積238.08平方mと、3世紀の建築遺構としては国内最大規模だという。発掘チームが注目したのは、土地区画が測ったように四角に区切られていて、きちんと東西南北を向いている点だ。橿原考古学研究所の菅谷文則所長は「最初から設計図があり、計画都市、計画建築だ。極めて高い政治性、宗教性を表す建物群だ」と話す。区画整備された遺跡からは、3世紀のものと思われる土器も発見された。卑弥呼が存在していたとされる時期に重なる。桜井市教育委員会・文化財課の橋本輝彦主査は、「当時としては、国内で最大の遺跡。ちょうど建てられた時代もそうだし、恐らく3世紀の中頃という年代は、卑弥呼が亡くなる年代が西暦247年か248年。