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いまから3カ月前、ある新聞記事が出ました。それは「香取慎吾、NHK大河ドラマ主演決定!「新選組」近藤 勇役」というもの。しかし、新選組に関しては「何をした人たちなのか、全然しらない」と、ほとんど知識がなかった香取編集長。そもそも新選組とは何なんでしょうか。そこで今回は、香取編集長が新選組ゆかりの地を訪ねて、京都に向かいました。 |
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新選組の最盛期は、江戸時代末期の1863年から65年のたった2年ほどのことです。当時の14代将軍、徳川家持が京都に行く際、その警備のために江戸の名うての剣豪が集められました。この中で、京都に居残った13名の男達が『新選組』です。その中心メンバーは、香取編集長が演じる近藤勇をはじめ、沖田総司、土方歳三、そして芹沢鴨など。彼らは江戸幕府警護の使命を帯びた幕府サイドの人間として、当時頭角を現し始めていた倒幕派、反幕府派と闘うことになります。
反幕府派とは、尊王攘夷という旗印の下、倒幕に力を注いだ長州藩などのこと。長州藩はいわば新選組のライバルであり、高杉晋作や桂小五郎といった面々が有名です。新選組と倒幕派との主だった戦いとしては、新選組の名を後世に語り継がれるきっかけとなった「池田屋事件」。そして、「蛤御門の変」など。新選組は、これらの闘いにことごとく勝利を収めていきます。しかし、その後、長州藩と薩摩藩の連合軍、薩長同盟が成立。軍備を近代化し、新選組を追い込んでゆくのです。そして、東へ東へと追いやられた新選組は、1869年、北海道で土方歳三の戦死を最期に消滅してしまいました。このように激動の時代を疾風のごとく駆け抜けた新選組――。香取編集長は、彼らのゆかりの地・京都に降り立ちました。 |
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新選組を知るため、京都を観光タクシーで回る事になった香取編集長。ここ京都には新選組ゆかりの地が数多く存在し、彼らを知るには最適の場所です。今回はその京都の中でも、新選組ベーシックコースを案内してもらうことになりました。香取編集長がまず最初に訪れたのが「壬生寺」。新選組発祥の地・壬生は、当時の京都では西の街外れに位置していました。江戸から来た素性のわからない者達を、中心に住まわせるわけにいけないという幕府の配慮から、この町外れの地に彼らは住まわされたのです。その中で有名だったのがこの壬生寺。ここは、新選組を語る上でなくてはならない場所なのです。ここで香取編集長は、新選組局長・近藤勇の像と初対面しました。近藤の像に手を合わせる香取編集長。何を祈ったのですか?
今回、香取君が演じる近藤勇とはどんな人物なのでしょうか。幕末最強の剣客集団と言われた新選組の局長を勤めたのが、この近藤勇です。天然理心流という剣術を幼い頃から取得し、土方歳三、沖田総司らとともに、変革に揺れる徳川幕府の身辺警護を担い、いわゆる幕府側の特別警察隊として活躍したのです。しかし、近藤は35歳という若くして短い生涯を終えています。その性格は豪胆かつ温厚だったとか。しかし、そんな波瀾に富んだ生涯を送り、歴史にその名を刻んだ新選組は数々の逸話を残し、後世、映画やドラマの題材として取り上げられ、香取編集長演じる近藤勇もさまざまな人によって演じられてきました。嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、三船敏郎、松方弘樹、渡哲也…と、大物俳優がそれぞれの近藤勇像を個性豊かに表現してきました。
「近藤勇さんは大きかったのかな?」と壬生寺貫主の松浦さんに尋ねた香取編集長。近藤勇の身長は、残されている稽古着やはかまから推測すると、168cmくらいではないかと言われています。当時にしては大柄で名刀虎徹を腰にさして歩く様は人の目を引いたとか。
新選組で名をはせた近藤の銅像はここだけではなく、彼のゆかりの地とされる8カ所に存在します。それだけ多くの人に慕われていたという事なのでしょうか。
続いて香取君が向かったのは壬生寺の目と鼻の先にある「新徳寺」。14代将軍・徳川家茂が京都に向かう際の警護を担当するために集められた総勢約240名の浪士組が、京都において最初に集結したのがここ新徳寺です。映画にも登場する新徳寺は、会合や宴会などに使用されていたようです。
近藤勇の写真というと、腕組をしているものと、ふところに手を入れているものの、二種類が有名で。すしかし、なぜかどちらとも手の先を見せていません。これは「写真を撮ると魂を抜き取られる」という当時の迷信を気にしていたのではないかと言われているのです。 |
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続いて訪れたのは新選組の屯所「八木邸」。当初の新選組は近藤を含め13名がこの場所を寝床とし、寝食をともにしながら京都の治安を守っていたのです。ちなみに現在、和菓子屋の店先となっている場所にかつては離れがあり、近藤、土方らはここに泊まっていたと言います。香取編集長も興味深そうに見ていた書面は、「野辺帖」と呼ばれるもの。当時、八木家でお葬式が行われた際、居候の身である新選組も、式を手伝い弔問しました。その時の台帳がこの「野辺帖」で、これを書いたのは、受付係をしていた芹沢鴨の直筆という説もあります。
新選組を語る上で忘れてならないのが芹沢鴨という男です。結成時、近藤とともに中心的な役割を果たすも、その横暴で身勝手な性格と酒癖の悪さは、さまざまな場所で問題を引き起こし、新選組の地位までが危ぶまれる程だったといいます。そこで近藤は、土方、沖田らと共にクーデターを起こし、身内ながら彼を暗殺したのです。いまでいうと、口ばかりで何もしない上司を部下がその上の上司に密告し、クビにしたといった感じでしょうか…。 |
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八木邸を後にして、タクシーが向かったのは「島原」。島原とは当時、いわゆる花街、遊郭で、料亭が立ち並び、太夫や舞妓がねり歩く華やかな街でした。壬生から近い事もあり、新選組の面々も良く通ったといわれています。中には島原の女性と恋に落ちるものもいたとか。中でも新選組のいきつけといわれているのが、料亭の「角屋」と置屋の「輪違屋」。これらは映画のシーンなどにも登場し、当時の彼らの遊びっぷりが伺えます。
では当時、新選組は京都の女性の間でどのように思われていたのでしょうか。実は、結構もてていたようなのです。東から来た荒くれどもも、京都の女性にはかっこよく見えたのでしょうか、とりわけ美男子として名高い土方などは、知人へ送った手紙の中でこんなことを書いています。「婦人慕い候こと筆紙に尽くし難く、まず島原にて花君太夫、天神、一元。祇園にてはいわゆる芸妓三人ほどこれあり。北の新地にては沢山にて、筆にては尽くし難し」。つまり、「自分はモテてモテて仕方がない、その数は数え切れないほどだ。例えば、島原では・・」と、女性遍歴を自慢していたくらいなのです。 |
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続いて訪れたのは「蛤御門」。1864年、当時京都において権力を失っていた長州藩が兵をあげて京都に侵入し、幕府側と激しい戦いを繰り広げたのがここ蛤御門です。大砲や小銃が往来する激しさの中、新選組も幕府側として戦い、勝利に貢献。門にはいまもその時の鉄砲跡が残っています。そして、タクシーはコースの最終目的地となる「池田屋」へ。
東海道五十三次の西の起点でもある三条大橋付近には、当時、行商などで往来する人々のために、多くの旅館、旅籠などがありました。池田屋は、間口はおよそ7メートル、敷地も80坪程度、客室は60畳ほどで、かなり小さめな旅館だったようです。しかし、長州藩御用達の旅館として知られ、様々な会合や宴会が開かれていたといいます。新選組の強さを語る上で欠かすことの出来ないエピソードの舞台となった、ここ池田屋は数多い新選組の映画でも名シーンとして登場。近藤、沖田らたった10人で繰り広げた戦闘は、その場にいた長州藩士ら7人が死亡、23人を逮捕し、新選組の損害はほとんどなかったといわれています。さあ、果たして、池田屋はいまどうなっているのでしょうか。
実は、池田屋があった場所は、いまパチンコ店になっており、当時の面影はまったくありません。香取編集長もこれにはがっかり…。ちなみに事件後、池田屋は7カ月の営業停止を命じられて廃業。建物自体は残され、別の旅館として営業していましたが、これも昭和30年代には取り壊されてしまいます。
こうして、京都新選組ゆかりの地を堪能した香取編集長。勉強になりましたか?では最後に、あの人からメッセージが届きました。大河ドラマ「新選組!」の脚本を手がける三谷幸喜さんです。「勉強してますか? ボクもいま、一生懸命やってます。幕末という複雑な時代に、自分を信じてひたむきに生きていた近藤勇。そのひたむきさは、香取くんが持っているものとも通じるものがあると思います。ふたりで、新しい近藤勇像を作っていきましょう」。
日本が大きく変わった幕末、その激動の時代に信念を貫き通し最後まで戦い続けた近藤勇率いる新選組。一体彼らはどこに進もうとしていたのでしょうか。香取編集長、素敵な近藤勇を期待しています! |