トップ
トップニュース
トクベツキカク
シツモンメール
スマメール
スマデータ
ゲストトーク
シンゴ5
オオシタアナ
ヘンシュウコウキ
スマギャラリー
バックナンバー

スマデータ投票
モバイルサイト
メールマガジン
ケイジバン
番組へのご意見
最新号のTOP

トクベツキカク
BackNumber
SmaSTATION!!秘められた伝説シリーズ「田宮二郎 演技に生きた波乱の人生」
知的で甘いマスクと迫真の演技で、世の女性を魅了した田宮二郎さんは、1978年、突如としてこの世を去りました。田宮さんが最後に演じたのは「白い巨塔」の主人公である財前五郎。その完璧な役作りと圧巻の演技力で野心に満ちた医師を演じきり‘究極の財前五郎’とも評されたのです。しかし…。「白い巨塔」最終回の放送を目前に控えた12月28日、日本列島に衝撃のニュースが駆け巡ります。田宮さんが散弾銃の引き金を足で引き、自ら命を絶ったのです。その不可解な死にはさまざまな憶測が飛び交いましたが、真相は今も明らかになっていません。演じることに全身全霊を捧げた田宮二郎さんとは、一体、どんな人物だったのでしょうか?知られざるその素顔に迫ります!

1935年8月25日。この世に生を受けた田宮二郎(本名・柴田吾郎)さん。誕生して4日目に父親が亡くなり、母子3人で祖父の家に引き取られました。6歳の時に、第二次世界大戦が開戦。そして、戦後まもなく今度は母親が急死。一気に財産を亡くし、つつましい生活を余儀なくされる中、幼い頃からアメリカ進駐軍の英語を身近に感じ、自然と英語が堪能になっていた田宮少年は、将来外交官になる事を夢見ていました。そんな彼に人生の転機となる出来事が訪れます。1955年、学習院大学に入学した田宮さん。敗戦による荒廃や混乱が落ち着き、日本経済が飛躍的な成長を見せ始めたこの時代は、映画全盛の時代でもありました。その丹精なルックスゆえ、周りの人々から「俳優に向いている」とよく言われ、外交官を目指していた彼の目も、いつしか芸能界へと向かっていったのです。その頃の田宮さんにいち早く注目していた人物が各界の著名人、文豪達がこぞって足を運んだ銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』で活躍していた美輪明宏さんです。

美輪明宏さん
「私が銀座7丁目のシャンソンのライブハウスの銀巴里に出ておりましてね。そこが文化人の集まるクラブでしたし、そして六大学の学生さんの巣でもあったんですよ。そこへね、学習院の学生さんでね。『孤独の人』という小説を書いた藤島泰輔(ふじしまたいすけ)さん、この方がね、常連だったんですね。で、「今度ね、うちの学習院にね一年生で君好みのすごいの入ったから連れて来るよ」って仰ってたの。それで「ああ、そう。じゃあ楽しみにしてるわ」って言ったら、もうその翌日に連れてみえたの。いやあ、あの頃の日本人て、背の高い方がいらっしゃらなかったんですよ。(石原)裕次郎さんがまだね日活へ出るか出ないか、そこいらへんでしたからね。本当に上背のある方っていませんでしたからね。本当にびっくりしましたね。1メートル84か5ありましたからね。」


田宮さんは、スポーツ新聞社主催のミスター・ニッポンコンテストに自ら応募し、優勝。 これをきっかけに大映映画社が新人俳優を養成する「演技研究所」の第十期生として入所しました。外交官を夢見ていた田宮さんが、映画俳優への第一歩を踏み出した瞬間でした。

鬼沢慶一さん
「最初から何と言うかな…インパクトがあったな。存在感っていうのかな。話ししてても歯切れがいいしねえ。映画界っていうのは美男美女が揃うんだけど、中でも彼の印象っていうのは、やっぱり強烈だったなぁ。僕がすげえなあと思ったのは、やっぱり裕次郎と彼ぐらいしかいないもんな。最初の出会いでね。」


そして、研究所を卒業し、晴れて大映映画社に所属する俳優となった田宮さんにデビューの瞬間が訪れます。初出演となったその作品は・・・1957年公開の映画「九時間の恐怖」。当時21歳だった田宮さんは期待に胸を膨らませて撮影に臨みましたが、与えられたのは端役。名前も本名の柴田吾郎のままでの出演でした。その後、数本の映画に出演するも、どれも目立たない端役ばかり。というのも、当時は、映画全盛期で、石原裕次郎さん、勝新太郎さん、市川雷蔵さんといった不動の名優たちが銀幕を彩っていた時代。新人が入り込む余地など残されていなかったのです。そこで彼は、売れる為に必死に動き出しました。その伝説的なエピソードをご紹介しましょう。

名前を覚えさせる

携帯電話の無いこの当時。まずは、自分の名前を関係者に覚えてもらおうと考えた田宮さん。そこで自身が所属する大映の撮影所に電話をかけまくり、「あの…柴田吾郎さんお願いします」「柴田吾郎さんいらっしゃいますでしょうか?」と呼び出しを頼んだのです。すると撮影所全体に聞こえるスピーカーで呼び出しの放送がかかります。

美輪明宏さん
「よくテレフォン吾郎って言われたぐらいに、テレゴロって言われたぐらいにね。もうそこいらへんに、片っ端から電話するんですよ。」


そう、彼は撮影所に限らず、名前を売るためさまざまな場所に電話をかけまくっていました。付いたあだ名が「テレフォン吾郎」。

他人の会見に乱入

それから間もなくのこと。田宮さんは『薔薇の木にバラの花咲く』という映画に出演しましたが、大映としてはその作品で、新人女優の浜田ゆう子さんを売り出す方針を立てていました。すると、田宮さんは会見場に現れ、「僕もついでに売ってくれませんか?」と切り出したのです。そして記者会見中、強引に割り込み、なんと取材陣の前で勝手に自己PRを始めてしまったのです。

鬼澤慶一さん
「その会場に、「やぁ!」なんつって声をかけてね。知ってる記者がいるからって入ってくるのは、ある意味では失礼なのかもしれないし、でもあいつの場合は嫌味じゃなかったね。」


地道な活動が徐々に実を結び、チョイ役ながらも、出演本数が増え始めていきました。そんな中、田宮さんの胸中に「芝居は深い」という思いが…。たとえちっぽけな役でも、その人物には性格があり、その裏には人生がある――様々な役を経験する事で「芝居」の魅力にどんどん取り付かれていったのです。

鬼沢慶一さん
「食事するんだって、かなり意識して食事するからね。「お前くたびれねえか」ってな話をしたことあるんだけど。箸ひとつ動かすにしても、彼はきちんともう、何て言うのかな、「俺は俳優なんだ、みんなから見られてるんだ」っていう意識は持ってたね。」


【映画初主演】

こうして徐々に名前を知られていくのと同時に、芝居の懐が広くなっていった田宮さんは、ついに映画初主演の座を掴みました。その作品が、1959年23歳の時に出演した「私の選んだ人」。父と娘の心温まる愛情を描いた作品で、娘の結婚相手である青年を演じ、脚光を浴びたのです。その後、山崎豊子原作の映画「女の勲章」では、早くも、自身初となる当たり役をつかみました。ファッション界を舞台に、女性を踏み台にしてのし上がっていく男・銀四郎を好演し高い評価を得たのです。この時、田宮さんの役者としての才能にいち早く注目したのが、戦後の日本で数々の名作に提言を残してきた映画評論家・淀川長治さん。「この女たちを次々に食っていく銀四郎を田宮二郎は早い関西弁で、見事に肉付けした。努力賞を呈したい日本映画の名調子である」。

そして、この映画で田宮さんは、中村玉緒さんと初共演を果たしています。

中村玉緒さん
「とにかく、主人とは違った形のこうなる(のめりこむ)人ですね。一本の映画にこうなる方です。普通ね。俳優さんは2つあるわけなんですよね。ずーっと同じ俳優さんと、普段三枚目の俳優さんがガラっと2枚目に変わる…。田宮さんて言うのは、いつでも同じでしたね。どっから芝居が始まって、どっから俳優さんになるのか。「おはようございます」って言う時から「田宮二郎」さんでしたね。」


これが自他共に認める田宮さんの出世作となり、以降、彼は山崎豊子作品に深く傾倒するようになっていきました。そんな田宮さんがさらに飛躍するきっかけとなったのが、勝新太郎さんとの共演で人気となった「悪名シリーズ」。主人公である、任侠道を守り抜こうとする着流し姿のヤクザ・朝吉を演ずるのは勝新太郎さん。田宮さんが演じたのは、それとは対照的な、しゃれた洋服で俊敏な身のこなしのチンピラ・モートルの貞。ふたりの関係は、役柄の立場と同様、勝さんの方が格上。しかし田宮さんは抜群の演技力で、勝さんの芝居を食ってしまう事もしばしばありました。中でも、珠玉の名シーンと語りつがれているのが、2作目の「続・悪名」でモートルの貞がチンピラに刺され絶命するシーン。

中村玉緒さん
「「朝吉・貞」って言う関係は撮影が終わってからもそうだったんです。もう、朝から晩まで家でずーっと主人のそばにいらっしゃいました。あんな俳優さんはいるの?だって、撮影終わったら帰って寝たいし、食事も自分でしたいし、または暇な時は掃除も自分でしたいし、ゴロッとしたいのに…。これはもう、主人も田宮さんがいてこそ、悪名というものができたと思うんですね。」


その後、この名コンビは再び田宮さんが貞の弟・清次という役でシリーズに復帰し、全16作品も作られた人気シリーズとなりました。こうして芝居の手ごたえを感じ、役者人生が軌道に乗り始めた頃、田宮さんは人生を大きく変える、ある作品と出会うこととなります。1966年に製作された映画版「白い巨塔」。傾倒する山崎豊子原作の作品でした。そう、田宮さんは、ドラマが始まる12年前に財前五郎を一度演じていたのです。
実はこの映画の撮影当時、前・後編からなる原作は完結しておらず、主人公である財前教授が癌に侵され死亡するところまでは描かれていませんでしたが、田宮さんはこの作品に惚れ込み、見事に難役を演じきりました。 しかし、財前教授の作品上の年齢は43歳。当時の田宮さんは31歳。髭などをたくわえて演じたものの、どうしても納得がいくものとはならなかったのです。

美輪明宏さん
「やっぱり最初の頃は堅いし。やっぱり無理あるし。やっぱり演じよう演じようとしてましたからね。だから、私は「芝居をしなさんな」って言ったんですよ。「一切芝居をする必要は無い」と。「その主人公がそこにいればそれでいい」って言ったんですよ。「その本人自身だから嘘が無い」って言ったんですよ。ところが役を演じよう演じようとすると、どんなに上手いことやってもしゃらくさいしね、鼻に付くって言ったんですよ。技巧ばかり目に付く。そんなのはもう舞台ではいいけども映画とかそういうものでは一切ダメよって。」


そして12年後…再び彼は運命に導かれたかの様に「白い巨塔」を演じる事になるのです。勝新太郎さんと共演し人気となった「悪名シリーズ」と同時期、「黒の試走車(テストカー)」「黒の凶器」等、いわゆる「黒シリーズ」と呼ばれる作品にも出演。そこで共演した人気女優・藤由紀子さんと結婚し、ふたりの子をもうけました。そんな彼の人気を不動のものとした作品が…犬シリーズ。1964年公開の「宿無し犬」を皮切りに田宮さんの代表作として全9作品の大ヒットシリーズとなったのです。ルックスは二枚目なのに、お調子者。熱血漢で人情に弱い。そんな風来坊・鴨井大介(かもい だいすけ)を好演。田宮二郎さん演じる鴨井大介のポップなファッションは、当時の若者のトレンドとなり、時代を牽引するファッションリーダーとしても人気を獲得していきました。こうして、公私共に順風満帆に見えた田宮さんに、思わぬ転機が訪れます。
そのきっかけとなった作品が「不信のとき」。若尾文子さん、加賀まりこさん、岸田今日子さんといった女優陣が並ぶ中、出演者の配列で田宮さんの名前は5番手でした。これを不服とした田宮さんは、大映社長・永田雅一さんに猛抗議。だが、これが永田さんの逆鱗に触れ、ついには専属契約を破棄され、フリーの身に。さらに大映映画を追放されただけでなく、当時の有力な映画会社が結んでいた、いわゆる「五社協定」によって、映画俳優の仕事を一切封じ込まれてしまったのです。

鬼沢慶一
「田宮くんもやっぱり「分かりました」っていうことで、それを立派に受けてたちましたからね。でも、それからの田宮くんの苦労ってのは、そら大変でしたよ。」


柴田光太郎さん
「僕が3,4,5歳ぐらいの時だと思いますけど、その時はやっぱり家は一番楽しかったですね。父親の記憶というと僕の中では、そこの3年ぐらいが一番いい形で残っているんですよ。なんでパパ仕事行かないのって、そんなにあまり考えた事もなくて、家にいる人なんだなと思って、いつも遊んでくれる人なんだなと思って…。」


田宮さんは諦めませんでした。いつか映画俳優としてカムバックする為、夫人を社長に個人プロダクションを設立。だが、舞い込んできた仕事は慣れない地方回り。キャバレーでの営業や舞台の司会…。田宮さんは弱音を吐かず、何でもこなしました。

【テレビの世界へ】

そんな中、時代は大きく変わり始めていました。日本映画界が斜陽化し、テレビ全盛の時代へと突入していったのです。すると、田宮さんにある仕事が舞い込みました。「クイズ・タイムショック」の司会者です。田宮さんは、最高視聴率29%を記録した、この番組の初代司会者を約9年間務めました。

美輪明宏さん
「テレビに出るっていうことは3流・4流で、映画界で使い物にならなかった連中が出るものでね。ちゃんとした大俳優がテレビなんか出ちゃいけない、みたいな風潮が最初あったんですよ。それでやっぱり切り替えて、テレビの方に行くっていうのは、よほどの性根が座ってないとできませんでしたしね。いまみたいにDVDであるとかビデオとかね発達しておりませんでしたから生がほとんどだったんです。そうすると生で通用するっていうのは、やっぱりウィットに富んでて回転が良くてね、機知に富んでないと。もし穴が開いたらそれを埋めるっていうのが大変な仕事ですから。ですから、吾郎ちゃんは、田宮さんはよく本読んでましたからね。語彙が豊富なんですよ。ものすごいインテリでしたからね。」


こうして田宮さんはテレビ界で甦りました。だが、田宮さんがやりたかったのは、やはり映画俳優。その情熱が消えることはなかったのです。その後、自らのプロダクションで制作した映画「3000キロの罠」で映画界に見事カムバックを果たします。そしてその頃、田宮さんが傾倒する山崎豊子原作の「華麗なる一族」が映画化されるという話が持ち上がっていました。原作を読み、その生き様に共感した万俵鉄平役を何としてでも演じたいと切望し、原作者である山崎豊子さんに直談判まで行った田宮さん。だが、その思いも空しく別の配役が与えられる事となりました。

鬼澤慶一さん
「突然電話かかってきて「今日クランク・インだ」って。とにかく部屋へ来てくれっていうんで行きました。部屋行ってばっと座るなり、いきなりぽろぽろぽろって涙こぼして、「山本薩夫監督を俺は恨むし、憎むし、許せねえ」って怒鳴るんですよ。「主人公は財界の御曹司で、鉄平と言ってね。猟銃が大好きな男なんだよ。最後にその男は猟銃を胸に当てて足の親指で引き金を引いて死んでいくんだよ。あれは俺の役だよ!」って怒鳴ってましたね。ありゃあもう、異常なほどだった。これだけは俺の役だ、つって泣いてたね。」


実は、田宮さんの祖父は貧農の出ながら住友系旧財閥の大番頭まで出世した人物で、関西の財界では名の知れた実力者と言われていました。そして彼自身は大のガンマニア。まさに自分といっていい程、「万俵鉄平」の役柄とリンクしていたのです。

【運命の瞬間】

テレビドラマが全盛を迎えるこの当時、田宮さんはTBSと専属契約を結び、「白い影」や「白い荒野」など…いわゆる白シリーズと呼ばれるドラマに出演していました。しかしこの人気絶頂の裏で、多忙を極めた田宮さんの心は、軽度の躁鬱病に蝕まれていたのです。その治療に専念する為、2年間の休養を考えていた矢先、今度はフジテレビから専属契約の話が舞い込んできたのです。そして遂に、あの物語と運命の再会を果たします。

小林俊一さん
「まず田宮が言い出したんですよ。白いシリーズにこだわってると。「白い滑走路」とか、白いなんとかっていうのがあって。じゃ、「白い巨塔」をやろうじゃないか、って。」




「白い巨塔」といえば、田宮さんが傾倒していた山崎豊子作品。当時、田宮さんの年齢は42歳。劇中の財前五郎は43歳。これ以上のタイミングは考えられませんでした。こうして、山崎豊子さんの許諾を得て、ドラマ化が決定されました。しかも原作は完結しており、財前五朗の最後まで描かれる完全な「白い巨塔」。田宮さんはこのドラマに役者人生の全てを捧げました。

〈カエルを解剖〉

田宮さんの演じる財前五郎は、卓越した腕を持つ外科医。それを完璧に演じるために、行っていたのはカエルの解剖。メスを持つ手にリアリティをもたせる為、幾度と無く繰り返したといいます。

3日間絶食

そして、財前が癌で倒れるシーンに臨む際、田宮さんは撮影3日前から、一切の食事を摂りませんでした。スタッフが声をかけると「癌患者が元気ではいけません」と答えたそうです。

中村玉緒さん
「すごかったです。私は訴える役ですから、そんな時は別行動で…。ただ法廷の時も、いま考えると、割りにすっと座ってらした様な気もするし。それは役に入ってらしたのか、もっと悩みがあったのか。その辺は私、わかりませんね。圧巻でしたから、本当に。法廷の時は。」


(臨終を観察)

財前五郎が絶命するクライマックスシーンでは、事前に病院へ赴き、臨終する患者を観察。さらに体重を落とし、ベッドに寝た時に頬がこけて見える様に苦心したといいます。

小林俊一さん
「田宮は俺に言ったよ。「食事してないし大丈夫?」って言ったら「大丈夫、大丈夫、いつものことだから」ってさ、あいつね。やっぱりさ、あの芸にかける魂ってのは凄かったね。普通の人間よりも自分に厳しかったんじゃないかね。」


中村玉緒さん
「主人が「悪名」の時は何も言わなかったんだけど。その財前五郎って言うのが死ぬ時に「あの演技はすごい、と。あの田宮は恐ろしい。 玉緒あの演技はすごいよ」初めて田宮さんを褒めたんです。」


美輪明宏さん
「俳優としてはねえ、まあやっぱりあの『白い巨塔』が極め付けでね。まぁ、失礼な言い方だけど、語弊があるかもしれませんけど、その後何度かいろんな方で「白い巨塔」も再演されましたでしょ、リメイクされたけれども、比べ物にならないですよね。」


かくして田宮さんは‘究極の財前五郎’を作り上げました。誰もが驚嘆する最高の出来栄えでした。しかし…ドラマ「白い巨塔」の撮影が終了して、放送も最終回まであと2回という時、衝撃のニュースが列島を駆け巡りました。田宮さんが自ら命を絶ち、この世を去ったのです。43歳という若さでした。

美輪明宏さん
「ビックリしちゃった。(死の数ヵ月前)急に電話かかってきた。真夜中の一時ごろに。 一時ごろに電話かかってきて、昔語りして。で、色んな生き方の話をして、「そういう生き方もあるのよ」って言ったらね。「そうだね、そういう素朴な生き方もあったんだよね、。でももう遅いよ」って言うんですよ。「遅いって事はないわよ、」って。「人生なんて70、80、90.100になっても一生勉強なんだから。いつだって巻き返しできるのよ」って言ってたんですよ。で、それで、それから1ヵ月後くらいに電話かかってきて、ちょっとおかしな事言ってたんでね。私がとっても怒って、お説教をして。それから半年くらいでしたかしらね。そしたらあんな事件になって。」


小林俊一さん
「当時、山崎先生はハワイ大学の客員教授で行ってたんで、「田宮が自殺しました」って言ったったら「猟銃でしょう」ってスパッと言ったんだ。」


散弾銃を自らの胸に当てて引き金を引く――それは生前、田宮さんが演じることを切望していた「華麗なる一族」の万俵鉄平の自殺そのものでした。

柴田光太郎さん
「けっこう僕、平然とはしてました。あまり皆さんが思うほどショックでは無かったです。というのは、もう覚悟を決めていたんです、僕。「この人死んじゃうかもしれないな」って。亡くなる1年・2年前を振り返った中で、色んな事がありまして。そうした時に、この人は自分で命を絶つかもしれない。もしくは、そうなった時にどうしなきゃいけないか、っていうふうに自分の中で僕は覚悟を決めてたんで。父親からは「死ぬ」とかそんな言葉は聞いたことないんですけど、「お前は家族を大切にしなきゃダメだぞ、長男だから。母親の世話と弟の世話をしっかりしろ」っていうような事は常に言われてたんです。だから、気持ちはそっちの方にありましたね。父親が亡くなった、じゃあ自分はどうすればいいか、って。ただやっぱり「父親が自殺して亡くなった」という事と、実際対面して「ああ、本当に居ないんだな」っていうふうに感じた事とは、また別問題なんで。それはやっぱりショックでしたけど。」


田宮の死には様々な憶測が飛び交いました。「膨大な借金を抱えていた」「国際的な詐欺の一味に引っかかっていた」。しかし、真実はいまも明らかになっていません。

鬼沢慶一さん
「やっぱり役者ばかだったですよ。うん。もう役者以外のことは何も考えないで、もう何かにつけて物事があれば全部、それは芝居にあるいは演技に結び付けていきましたからね。」


田宮二郎という魂の役者がいた記憶は闇に消えることなく、人々の心の中に今も鮮明に刻み込まれているのです。


Copyright(C)2007
tv-asahi
All Rights Reserved.