
野球部の特待生として、広島の名門・広陵高校に入学した昭広少年。甲子園、そしてプロの選手を目指し、朝から晩まで練習に励んでいた昭広少年に悲劇が…。デッドボールを肘に受け、手が思うように動かなくなってしまったのです。それはプロ野球選手という夢をあきらめなくてはならないほどの大怪我でした。野球が人生の全てだった昭宏少年にとって、これほど残酷な仕打ちはありませんでした。「もう、俺の人生は終わりだ」。失意の昭宏少年は、泣きながら佐賀のばあちゃんに電話したのです。するとばあちゃんは実にあっけなくこう言いました。
ばあちゃん
「仕事の種類は1万くらいある。他の夢ば見つけんしゃい!」

高校卒業後、定職にもつかず、ブラブラしていた昭広さんは、ひとりの女性と出会いました。彼女の名は、副島律子さん。この「りっちゃん」と恋に落ちた昭広さんは、彼女と結婚し、上京することを決意します。しかし、厳格だった彼女の父親は「定職にもついてない奴に娘はやれん!」と、当然のごとく大反対。花嫁の父のみならず、親戚中から反対されたふたりに残された道は、もはや駆け落ちしかありませんでした。旅立ちの時、昭宏さんはりっちゃんを連れ、ばあちゃんの元を訪れました。
昭宏さん
「ばあちゃん、俺、この人と都会へ行こうと思う」
当然、ばあちゃんからも反対されるかと思ったそうですが、返ってきたのは意外な言葉でした。
ばあちゃん
「人生は好きに生きないとダメ。自分の人生だから。昭宏、東へ行け。東は日当が高い」
驚くふたりにばあちゃんはさらにこんな言葉を…。
ばあちゃん
「結婚はね、ひとつのトランクをふたりで引っ張っていくようなもの。その中に、幸せとか、苦労とか、いっぱい入ってる。だから絶対、最後までふたりで運ばんといかんよ。ひとりが手を離したら、重くて運ばれん」。)」

1970年、大阪の「なんば花月」へと向かったふたりが見たものは、当時、吉本興業の顔となっていた笑福亭仁鶴の落語や、やすしきよし、カウス・ボタンの漫才などでした。「こんなに笑ったのは生まれて初めて」と思えるほどの面白さだったそうです。さらに公演後、昭広さんは衝撃の光景を目の当たりにします。先ほどまで舞台に立っていた笑福亭仁鶴師匠が、大勢のファンに囲まれる中、真っ黒のロールスロイスに乗り込んだのです。この瞬間、昭広さんは漫才師になることを決意しました。
その後、吉本興業の門を叩いた昭広さん。しかし、漫才師としてすぐに売れるはずもなく、 頼りはりっちゃんが繊維問屋で稼いでくる月4万円のお給料だけ。生活は貧乏を極めました。いつも月末の冷蔵庫はマヨネーズだけでしたが、昭広さんは明るくこう言い放ったそうです。
昭広さん
「貧乏ごっこしてると思ったら、いいやん。」
こんな貧乏生活でも昭広さんと律子さんの間には笑顔が絶えることがありませんでした。それは、昔、ばあちゃんからこんな言葉を贈られていたからだったのです。
ばあちゃん
「貧乏人が一番やれることは笑顔だ。笑っておけば周りも楽しそうになる。笑顔はきっと宝になる」

1972年、桂三枝師匠に紹介された相方とコンビを組み、B&Bとして舞台を中心に活動をはじめた昭広さんでしたが、軌道に乗り始めたかと思った矢先に、相方が失踪。2人目の相方は上方よしおさんでした。新コンビはすぐに軌道に乗り、悲願のレギュラー番組も獲得します。今度こそ順調に…と思った矢先、またしても、突然コンビを解消してしまうことに…。
昭広さん
「よしおは『東京には吉本ないやろ』って。でも、僕は東京で勝負したかったんですよ。大阪のテレビ番組に出ても、佐賀では映ってないからね。やっぱり、ばあちゃんに見てもらいたかったし…」。
しかし24歳になっていた昭広さんは、失意のドン底にいました。昭広さんはばあちゃんに電話をかけ、思いのたけをぶつけました。少年時代、母親に会えなかった寂しさ、人生の全てをかけた野球での挫折、そしていま、同じように漫才でも挫折を味わっている…と泣きながら話す昭宏さん。ところが、ばあちゃんから返ってきた言葉は・・・
ばあちゃん
「お前の気持ちはもう分かったから、よかと。電話代がもったいないから切るよ」。
なんと、ばあちゃんは一方的に電話を切ってしまったのです。昭広さんは悲しみに打ち震えました。しかし、後日、ばあちゃんから一通の手紙が届きました。そこにはこんな言葉が書かれていたのです。
ばあちゃん
「野球は怪我をしてしまったから仕方ないけど、漫才はまだまだこれからです。お前に人生をかけた律子さんのためにも頑張ってください。人間には偉い人なんかいません。けれど、努力すればすごい人にはなれます。今は辛くても、頂上に着けば、きっと真っ青な海が見られるよ!」。
それを読んだ昭宏さんは、あふれ出る涙を抑えることが出来なかったそうです。

2度目のコンビ解消を経験した翌年の1975年、ばあちゃんの言っていた通り、再びチャンスが巡ってきました。舞台に出ることもできず、花月をふらふらしていた昭広さんに救いの手を伸ばしたのは、あの桂三枝師匠でした。「あの男はどうや!」。三枝師匠が指したのは、進行係の男でした。三枝師匠の言葉を信じて、昭広さんはその進行係とコンビを結成。ここに新生B&Bが誕生しました!
新生B&Bはすぐさま軌道に乗りました。1977年、コンビ結成2年目にして「上方お笑い大賞 銀賞」を受賞。関西ではかなり知られる存在となりました。そして、B&Bはついに念願の東京進出を果たします。「花王名人劇場」というゴールデンタイムの1時間番組にやすしきよし、セントルイスという東西の超売れっ子コンビと肩を並べて出演したのです。ゴールデンタイムでの放送だけあって、その反響は凄まじいものでした。翌日から街を歩けばサイン攻め。★さらに、初のCMの出演オファーも舞い込んできたのです。嬉しさのあまり、昭広さんは、ばあちゃんに電話をかけました。
昭広さん「ばあちゃん、昨日のテレビ見てくれた?」
ばあちゃん「いいや」
昭広さん「何で?佐賀でも映ったやろ?」
ばあちゃん「映ってたけど、ウケなかったら大変だから、ずっと仏壇で拝んどったと」。

1980年。世に言う漫才ブームが到来しました。『お笑いスター誕生』で10週勝ち抜きを達成し、B&Bは初代グランドチャンピオンに!飛ぶ鳥を落とす勢いのB&Bはレギュラー番組も増え続け、全盛期には一週間で15本にも達しました!もちろん昭広さんさんの収入も飛躍的に増え、毎月の給料はデパートの紙袋に札束がぎっしり詰まるほどの量だったそうです。しかし、そんなある日、妻の律子さんからこんな言葉が…。
律子さん
「なんで、こんなにテレビに出てるのに給料が少ないん?」
昭広さん「あんなに渡してるのに、あれで少ないんか!?」
よくよく話してみると、律子さんはデパートの紙袋に入っているのはファンレターだと思い込み、封筒に入れられた端数分だけを給料だと勘違いしていたのです。昭広さんが、慌てて押入れを調べてみると、 デパートの紙袋が4つ、手をつけないまま置かれていました。その額、なんと、合計3億4千万円!
しかし、漫才ブームも長くは続きませんでした。そして、多忙な生活を送ってきた昭広さんも、ストレスから体を壊してしまいました。「このままでは、B&Bがダメになってしまう」。悩んだ昭広さんは、佐賀のばあちゃんのもとを訪れました。そこでばあちゃんからもらったアドバイスは意外なものでした。
ばあちゃん
「5年頑張ったんだから、5年遊べ!」
さらに、ばあちゃんはこう続けました。
ばあちゃん
「山あり、谷ありって言葉の本当の意味を知ってるか?頂上で記念写真撮ったら、降りてきなさい。山はずっといるところじゃない。家も川もみんな谷にある。冷たい水飲んで、体洗って、もう一度、山に挑戦しんしゃい!」
昭広さんは、この言葉でB&Bの解散を決意したのです。

B&B解散から8年の月日が経った1991年。がばいばあちゃんは91歳でこの世を去りました。仕事中に電話でその悲報を聞いた昭広さんは、その場で泣き崩れました。がばいばあちゃんの葬式は賑やかな大宴会となりました。これは、生前がばいばあちゃんがこんな言葉を残していたためでした。
ばあちゃん
「葬式は悲しむな。丁度よかった、潮時だ」
昭広さん
「今でも佐賀に親戚一同が集まると、必ずばあちゃんの話で盛り上がり、ばあちゃんの笑顔は、なくなった今もみんなの心に燦然と輝いている。ばあちゃんのような人生を『いい人生』と言うのだと思う」。
実はがばいばあちゃんは、亡くなる数年前、昭広さんに一冊のノートを預けていました。そこには、沢山のがばいばあちゃんの言葉が 書き記されていたそうです。がばいばあちゃんから送られた言葉の数々…。そのどれもが、かけがえのない教訓として、昭広さん=洋七さんの今に生きているのです。
がばいばあちゃんを題材にした島田洋七さんの講演会は日本各地で開かれ、すでにその回数は3091回にもなるそうです。そして、ことし1月4日にはフジテレビでドラマ化!ロケ地となった佐賀県武雄市では、あまりのブームに遂に「がばいばあちゃん課」を設立。その「がばいばあちゃん課」が300件の家に電話調査を実施したところ、佐賀県の視聴率は88.3%という驚異的な数字だったそうです。
このブームは海外にも飛び火しています。台湾では、出版記念サイン会も行われ、「がばいばあちゃん」は昨年台湾で最も売れた本となりました。映画「がばいばあちゃん」も大ヒットし、実は日本以上のがばいばあちゃんブームとなっているのです。更に、がばいばあちゃんの里『佐賀』を巡るツアーを企画したところ台湾や中国からのツアー参加希望者は現在のところ、一万人にも上るといいます。止まることをしらない「がばいばあちゃん」ブーム。洋七さんが自ら監督する映画第2弾の撮影も始まることになっています。かつて洋七さんが漫才師を諦めかけた時、がばいばあちゃんから送られてきた手紙の最後はこんな言葉で締めくくられていました。
「コツコツやってもなあと思う前にコツコツやれ!!コツコツの先に成功がある」
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