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スマステーション特別企画『山田洋次監督・藤沢周平3部作 “本物”の時代劇とは』
山田洋次監督がメガホンをとった「武士の一分」は藤沢周平原作時代劇、三部作の完結編となる作品です。1作目は、幕末に生きた名もない下級武士と家族との絆を描いた「たそがれ清兵衛」。日本国内での興行収入は12億円を記録し、「七人の侍」を超えた、とも評価されました。この作品は日本アカデミー賞で全部門制覇。アメリカのアカデミー賞でも、外国語作品賞にノミネートされました。2作目は、身分の違う男女のかなわぬ恋を描いた「隠し剣 鬼の爪」。永瀬正敏、松たか子が出演したこの作品は、ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品されるなど世界各国の映画祭で上映され、高い評価を受けています。そして3作目は、時代劇映画初挑戦となる木村拓哉が主演を務め、ささやかな幸せを踏みにじられた下級武士の復讐と誇りを描く「武士の一分」です。これら3作品で描かれたのは天下を狙う大名でも、無敵のヒーローでもなく、江戸時代ならどこにでもいた下級武士。しかしそこには、これまでの時代劇にはなかった「本物」へのこだわりがありました。
人気役者の登場・勧善懲悪物語の全盛期へ

時代劇の歴史――それはまさに日本映画の歴史でもあります。初めてスクリーンに時代劇が登場したのは1908年。日本映画の第1作目は、日本映画の父、牧野省三監督による「本能寺合戦」という時代劇でした。この頃の時代劇は、まるで歌舞伎のような殺陣が特徴。つまり、本物の斬り合いではなく、あくまでも立ち回りの美しさが求められたのです。
1930年ころから、嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)、片岡千恵蔵(かたおかちえぞう)、長谷川一夫(はせがわかずお)、市川右太衛門(いちかわうたえもん)、大河内傳次郎(おおこうちでんじろう)、月形龍之介(つきがたりゅうのすけ)という、七剣聖(ななけんせい)とも呼ばれる人気役者が登場。それに伴って、悪者をどんどんやっつけていく、といったヒーローものの時代劇が人気を集めるようになりました。当時の観衆が求めたのは、勧善懲悪の世界。ヒーローが大立ち回りの活躍をし、絶体絶命のピンチを切り抜けて必ず勝つ――そんな派手で、かつダイナミックな殺陣を売り物とする作品が主でした。
こうした娯楽性を追及した時代劇が全盛を迎えていた中、革命的な変化をもたらしたのが巨匠、黒澤明です。黒澤が目指したもの・・・それは、迫力ある殺陣の演出でした。『蜘蛛巣城(くものすじょう)』では、本物の弓矢を使用し臨場感を高め、『用心棒』では、鶏肉を刺して斬殺音を再現。そして、『七人の侍』では、盛りがついたオス馬にメス馬を近づけ、発情させることで荒々しい馬のいななきを収録、戦闘シーンに大きな効果をもたらしました。以来、黒澤の作品が時代劇のお手本のような存在となったのです。とはいえ、リアリティーを求めた黒澤時代劇も、「用心棒」のようにひとりで多数を相手にするなど、娯楽性を持たせていました。

初めての時代劇に挑んだ山田洋次のこだわりとは?

そんな中、国民的人気映画、寅さんシリーズで一躍名を馳せた山田洋次監督が、自身77作目にして初めて本格時代劇に挑みました。

<山田監督>
「いい時代劇もありますけども大部分の時代劇は、『時代劇だから』と言う特別な枠の中で撮られてるというか、日常的な生活のディテールとか、あるいは殺陣における本当の生身の剣を使うときの怖さとか、そういうリアリティーをもうちょっと時代劇に持たせて撮れないものかなって前々からあったことはあったんですね。それが藤沢周平さんの小説に巡り合って、こういう世界なら僕にも撮れるかな、と思ったことで始めたんですね」


こうして山田監督が藤沢周平3部作の1作目に選んだのが真田広之、宮沢りえ出演の「たそがれ清兵衛」。舞台は江戸末期、主人公はこれまでの英雄や豪傑ではなく、貧しい下級武士で、現代に置き換えるなら、いわば市民派サラリーマン。妻を亡くしてからは、城での勤務終了後の「たそがれ」時には早々と娘と痴呆の老母が待つ家に帰ってしまう…そんな、清兵衛が、藩命によって謀反人との決闘に挑む、という物語です。
原作者の藤沢周平は、山形県出身の時代小説作家。時代考証を綿密に行い、当時の生活風景を作品の随所に織り込みました。中でも藤沢のふるさと、山形の庄内藩をモデルとした架空の藩、海坂藩(うなさかはん)を舞台にした作品は、つつましく生きる平侍や市井(しせい)の町人達を描き、人気を博しました。そんな中、山田監督がこの作品でこだわったのは「本物」であること。

<山田監督>
「清兵衛や豊太郎、余吾は剣を極めているだろ。その人たちが対決するわけだから、きっちりと道理にあった剣の形、剣術を踏まえてやらなければならないね。おざなりに流れだけの殺陣じゃ駄目だよ。いままでに無い本格的な立ち回りをしなければならないよ」


撮影前のこの一言で、出演者は本格的な剣術に取り組むこととなったのです。実際に、殺陣シーンでは、武家作法の研究者でもある殺陣師が綿密な指導を行ったそうです。これまで数多くの時代劇に出演してきた真田広之でさえ、本物の剣術の先生から教えを受けたのは初めてだったといいます。
しかも、通常であればカメラから見えないアングルで、実際には相手に刀が触れないよう、切りつけます。しかし、この映画では、居所を斬る――つまり本当に切りつけ、そして本当にかわしているのです。

<山田監督>
「あまりにも嘘が多いというか。ひとりで十人も二十人も相手にしてね、パッパパッパ斬って捨てちゃったりしたりとか、本当にそんなこと可能なのかな。良く見てると後ろから斬ろうと思ってなかなか斬らない。自分が斬られるまで待ってる、みたいなことがあるわけでしょ?もっと、本当は怖かったんじゃないかな、と。どんな剣の名手でもね。真剣で抜いたら怖かったんじゃないかとかね」


「本物」へのこだわりは殺陣だけではありませんでした。「侍は歯を磨いたのか」「トイレでは紙を使うのか」「履物はどこにしまうのか」「髪の手入れは」。こうした時代考証だけで、なんと1年もの時間を費やしたのです。そして完成した、「たそがれ清兵衛」。「本物」を追求したこだわりが、殺陣だけに目がいきがちな時代劇において、登場人物の感情の機微を際立たせることに成功したのです。「本物」にこだわり続け、日本映画の歴史の中で新しい時代劇を生み出した山田監督。人々の心を打ったのは、日本的な派手な殺陣シーンではなく、山田がこだわり続けてきた、「寅さん」シリーズにもつながる人間模様…つまり古き良き美しき「日本人像」でした。
こうした山田のこだわりはもちろん2作目にも貫かれています。永瀬正敏、松たか子の共演で、2004年に公開された「隠し剣鬼の爪」。この2作目で特にこだわりを見せたのが、鉄砲、大砲などの武器類です。銃器は、当時最も普及していたと言われるエンフィールド銃、シャープス銃を再現。大砲は当時主流だった「フランス式四斤山砲(よんきんさんぽう)」。砲口から装薬や砲弾をつめる動き、発射の反動で2〜3メートル後退する現象など、細部にこだわりを見せました。また、隊列などの歩き方では、江戸時代まで、主流だった右手右足、左手左足を同時に出す「なんば歩き」から、オランダ語の号令に従って、西洋式の歩き方の訓練する人々を活き活きと描いたのです。さらに食事にもこだわりました。藤沢の世界を再現しようと、庄内に古くから伝わる郷土料理をいくつか登場させたのです。「隠し剣鬼の爪」に登場する「弁慶(べんけい)めし」や、地元で取れる寒鱈(かんだら)をふんだんに使った「どんがら汁」はいまも山形に残っています。
そして、いよいよ集大成となる3作目――それが、「武士の一分」です。藩主の毒見役として務めていた三村新之丞(みむらしんのじょう)は、不運にも失明してしまいます。絶望して自害しようとする新之丞を妻である加世は必死に思い止まらせます。夫を助けようと番頭(ばんがしら)の島田藤弥に頼み込む加世でしたが、その思いは最悪の結果に。そして、すべてを知った新之丞は復讐を誓うことに・・・。この作品で山田監督がこだわったもの、それは藤沢周平小説の特徴でもある描写の美しさでした。

<山田監督>
「朝な夕なの景色、微妙な変化、季節の、春夏秋冬の変わりかた、その描写がとても美しくてね。雨や霧や風をどうやって映画に表現できるかっていうことをとても考えたのは事実ですね。つまり昔の人たちは、江戸であれ庄内地方であれ、とにかく静かだったんだな、と。大きな音なんかしなかったんだな、と。その分だけ町で物売りの声とか鳥の鳴き声とか、虫の鳴き声とかね、川のせせらぎとかがよく聞こえたんじゃないのかなと」


原作は短編小説「隠し剣 秋風抄(あきふうしょう)」の中のひとつ【盲目剣こだま返し】。1作目の「たそがれ清兵衛」では【たそがれ清兵衛】と【竹光(たけみつ)始末】、【祝い人(ほいと)助八】の3作品を、2作目の「隠し剣 鬼の爪」では【隠し剣鬼ノ爪】と【雪明かり】の2作品を組み合わせた山田監督。なぜ今回、監督はひとつの原作で製作したのでしょうか。

<山田監督>
「短編小説の名手だし、短編というのは一口で語れる話で、しかも切り口をパッと見せるというのかな。だからひとつの映画にするのになかなか構成的に弱いと言うか…。ただね、3番目の『武士の一分』だけはちょっと他の短編とは違うんですね。短編では短編でも1本だけで十分にひとつの映画が作れるだけの構成、コンストラクションが非常にしっかりしてるというか、物語が深い。剣を抜かざるを得ない、人を斬らざるを得ないというのは封建制故に起きた非常に不条理な事件だということになりますね。現代だったらあり得ない。それが1作目、2作目は、いずれも藩主の命令、藩の命令で斬らなきゃいけない、という不条理の中で苦しむわけですけども、3番目の「武士の一分」はね、 藩命じゃないんですね。これはある上役にひどい目に会うという話なんですね。そういう深い絶望というのは前2作には無かったものです。そういう深い絶望の中で闘い、そしてその中からどうやって彼は再生できるか、というのがこの作品の面白いところなんです」


山田監督による藤沢周平時代劇三部作の完結編「武士の一分」、公開は12月1日です。


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