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Dearジャパニーズウーマン特別編ニッポンのマーメイドを支えたシンクロの父
華麗かつ厳しい勝負の世界にも人々を魅了してやまないジャパニーズウーマンたちががいます。
来週14日から、横浜を舞台に開かれる、「第11回2006 FINA シンクロワールドカップ」に参加する日本代表の11人のマーメイドたちです。
日本シンクロは、オリンピック、W杯とメダルを獲得し続けている世界で唯一の存在なのです。今でこそ世界の強豪国となった日本シンクロ。しかし、ジャパニーズウーマンたちの飛躍の影には、自らの財産をなげうち、シンクロのためにあらゆる努力を惜しまなかったひとりの男性がいたのです。その男性とは?
特別編でお届けします。

シンクロナイズドスイミングがはじめて行われたのは1934年アメリカ。シカゴで開かれた、世界貿易博覧会で水中バレエ団が演技してみせたのが始まりといわれています。しかし、それよりおよそ10年も前の19 25年。日本ではすでにシンクロにとてもよく似た競技が行われていたのが、それが、「楽水」。大阪・堺市に創設された、浜寺水練学校で行われていたもので、日本独自の古式泳法を組み合わせて、集団演技をしてみせていたのです。時には宝塚歌劇団の曲などに合わせることもあり、まさに、現在のシンクロそのもの。当時、新しいエンタテインメントショーとして、人気を博し、チケットが入手困難なことから、ダフ屋まで出るほどだったといいます。その「楽水」の指導に当たっていたのが、高橋清彦氏。高橋氏の本業は大阪大学病院の医師。しかし、子供時代に通った水練学校を無くしたくない、古式泳法をいかした、楽水の伝統を守りたい、と指導者として参加していたのです。振り付けも担当していた高橋氏は、ほかの国に、参考になるような競技はないかと探していました。そんな時出会ったのが、当時アメリカで盛んだった、シンクロナイズドスイミングでした。
1954年、在日アメリカ軍慰問のため来日した、全米選手権優勝チームによる公開演技が東京・神宮プールで行われました。この公開演技は当時の新聞にも大きく取り上げられ、「水に踊る美しい肢体」と絶賛されるほど。高橋氏はここで、文献でしか見たことのなかったシンクロを初めて目の当たりにし、衝撃を受けたと言います。しかし、このとき高橋氏は、手足の長いアメリカチームのダイナミックな演技に圧倒されると同時に、「これなら日本も勝てる」と自信も持ったといいます。日本には古式泳法の伝統があったからです。甲冑を着て泳ぎ、時には水上で書道までも披露する古式泳法。ここで使われる立ち泳ぎはまさにシンクロそのもの。ほかにもシンクロの基本技で、足を水面にあげるバレーレッグも同様。そのときの手の動きは、日本泳法の「伝馬」と同じなのです。そしてこのブースアップと呼ばれる、ジャンプ技。これも「敵地を視察するため」にあみだされた、古式泳法の技のひとつだったのです。自信をもった高橋氏は、日本でもシンクロを広め、世界にうって出ようと心に決め、早速動き出します。まずはシンクロについて書かれた資料をアメリカから取り寄せ、ルールや技について猛勉強、日本シンクロのための競技規則作りを始めます。そして、わずか1年で高橋氏は日本水泳連盟のシンクロ競技規則を完成させ、その翌年、1956年には第1回の全国大会を開くまでにこぎつけます。アメリカチームの公演を見てからわずか2年。高橋氏の努力で、日本のシンクロはついに第一歩を踏み出したのです。しかし、時には文献を読むだけではわからないこともあったとか。たとえば、アメリカの本にあった「倒立」の技。実際にやってみると、鼻から水が入りとても長時間は耐えられなかったのです。一体どうしたら逆さになって演技ができるのか。洗濯ばさみ、絆創膏など、高橋氏は試行錯誤を続けますが、どうしてもわからない。ついにはアメリカのシンクロ委員長に直接疑問をぶつけ、「ノーズクリップ」の存在を知ったといいます。「日本人にシンクロは向いている」。高橋氏のその考えは的中、選手たちはめきめきと技術力、そして演技力をつけていきました。しかし、この頃のシンクロは競技人口も、認知度も低く、マイナーな競技のひとつでしかなかったのです。

ロス五輪からシンクロが正式種目になり、日本のシンクロが脚光を浴びる

そんななか、シンクロに大きな転機が訪れます。1984年に開かれた、ロサンゼルス・オリンピックです。この大会から、シンクロのソロとデュエットが正式種目に採用されることが決まったのです。
「いよいよシンクロが脚光を浴びるときが来る。なんとかメダルを獲りたい」。そう考えた高橋氏は、とんでもない決断をします。なんと、自宅にシンクロプールを作ったのです。当時まだ、馴染みの薄かったシンクロは、圧倒的に練習施設が不足していました。そこで1980年、高橋氏は、選手たちが心置きなく練習できるようにと、大阪堺市の自宅に深さ三メートルのシンクロ用室内プールを建設してしまったのです。その「高橋プール」には、「日本で初めて」というある工夫がこらされていました。それが、側面に設けられた大きなガラス窓。高橋氏は水族館にヒントを得て、水面下の動きまでチェックできるようにしたのです。また、水中にスピーカーをとりつけ、もぐっている選手にも指示ができるようにもしました。高橋氏は、現在では当たり前となっている、シンクロ施設の原型を作り上げたのです。ちなみにこのプールの建設費用はなんと、およそ1億円。高橋氏は貯金を切り崩し、借金をしてまで、資金集めに奔走したのです。こうして「高橋プール」は日本シンクロの新たな中心地として、オリンピックでのメダル獲得を目指し、連日厳しい特訓が行われるようになったのです。

そしていよいよ迎えたロサンゼルスオリンピック。「高橋プール」で特訓をつんだ、元好三和子、木村さえ子選手が出場。息のぴったりあった、華麗な演技をみせ、デュエットで見事銅メダルを獲得したのです。オリンピックという大舞台でのメダル獲得。まさに高橋氏の苦労が報われた瞬間でした。こうして日本シンクロの実力を世界に知らしめたロス五輪。日本はその後、世界大会においてメダル常連国となっていきます。ロスからオリンピック種目となったシンクロで、これまで一度もメダルを逃していないのは日本だけという快挙を成し遂げているのです。

強豪国をおさえて、メダル獲得なるか?見逃せない自国開催のワールドカップ

そして迎える今回のワールドカップ。伝統を受け継ぐ日本代表のマーメイド達が更なる飛躍を目指します。注目のソロに世界屈指のスピンをもつ、日本代表キャプテン鈴木絵美子。デュエットには、その鈴木と「努力の人魚姫」原田早穂が出場。そして(4人〜8人で戦う)チーム、(最大10人まで参加できる)フリーコンビネーションでは、デュエットの2人も参加、もちろん狙うのは、金メダルです。そのニッポンチームのライバルとされるのが、情熱的かつダイナミックな演技で独特の世界を創り出す、スペイン、そして、女王奪回を目指す、シンクロ強豪国・アメリカ、そして2005世界水泳でも金メダルを獲得、鍛え抜かれた技術と完成度の高い演技で女王の座に君臨するロシアです。日本に立ちはだかる強敵たち。しかし今大会は1979年のワールドカップ以来、実に27年ぶりとなる日本開催。ホームでの戦いは必ずいい結果をもたらしてくれるに違いありません。

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