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SmaSTATION-5特別企画『歌舞伎俳優・九代目松本幸四郎 感動させられずして、歌舞伎にあらず!』
スマステーションではこれまで、日本の伝統芸能「歌舞伎」を数回にわたり特集。ゲストに中村勘太郎さん、中村七之助さん、中村獅童さん、そして十八代目中村勘三郎さんをお迎えしました。そんな中、遂にあの人が登場しました。名門中の名門に生まれ、3歳で初舞台を踏んでから60年。祖父・父から受け継いだ「勧進帳」弁慶は先日800回公演を迎えた歌舞伎俳優・九代目松本幸四郎さんです。歌舞伎だけに止まらず、映画・演劇・ミュージカル・テレビドラマと活躍。ニューヨーク・ブロードウェイやロンドン・ウェストエンドでの公演は大絶賛されミュージカル主演は2000回を突破…そんな松本幸四郎さんが香取編集長とトークで激突します。
歌舞伎俳優・九代目松本幸四郎の生い立ち

歌舞伎俳優九代目松本幸四郎・・・本名・藤間昭暁(ふじまてるあき)。父は人間国宝、初代・松本白鸚(八代目幸四郎)。その兄に十一代市川團十郎、弟に二代目尾上松緑。

この3兄弟の父、つまり幸四郎の祖父が七代目松本幸四郎。そして母方の祖父が初代・中村吉右衛門という、まさに歌舞伎界の名門中の名門に生を受けたのが、九代目松本幸四郎です。屋号は高麗屋。

そんな幸四郎が生まれて間もなく日本は終戦を迎え、歌舞伎は受難の時代に突入しました。「忠誠心」「主従関係」など、歌舞伎の演目に根付く封建的な考えがGHQの目に引っ掛かり、全面的に上演禁止という事態に追い込まれたのです。だが、歌舞伎はあるひとりのアメリカ人によって存続の危機を脱することが出来ました。その人物が、フォービアン・バワーズです。元マッカーサーの副官だったバワーズは、戦前より歌舞伎に魅了され、戦後その復興に尽力し、禁止令を解除させたのです。

ひとりのアメリカ人によって復活した日本の伝統文化・歌舞伎。幸四郎は昭和21年、松本金太郎を名乗り3歳にして初舞台を踏むことになりました(番組では、初舞台直後の金太郎とバワーズ、そして父・八代目幸四郎の貴重なショットも紹介)。7歳で六代目市川染五郎を襲名・・・小学生に上がったばかりの染五郎の歌舞伎役者修行が本格的に始まりました。学校から稽古場に直行する毎日。舞台がある日は学校を早退しました。そんな生活で友達ができるはずもありませんでした。「何でこんな家に生まれたのか・・・」そう思ったことも一度や二度ではなかったそうです。暁星中学へ進学した染五郎はラジオドラマや映画への出演も多くなりました。歌舞伎界のプリンスを芸能界は放っておかなかったのです。映画デビュー作「たけくらべ」では美空ひばりと共演。染五郎は金貸しの息子、正太郎(しょうたろう)を熱演しました。歌舞伎役者でありながら歌舞伎以外の演劇に出演するのはいまでは当たり前ですが、初めて歌舞伎以外の演劇に挑んだのは、幸四郎の祖父、七代目幸四郎でした。

七代目幸四郎は当時流行していたオペレッタに着目し、日本初の創作オペラ「露営の夢」(ろえいのゆめ)を上演。その後、翻訳劇の上演を試みるなど革新的な歌舞伎役者でした。そして父、白鸚も文学座「明智光秀」に客演するなど積極的に歌舞伎の枠を超えて芝居に挑んだのです。その後、染五郎は祖父、父から受け継いだ当り役、「勧進帳」の弁慶役を16歳で初演。更に「双蝶々曲輪日記」(ふたつちょうちょうくるわにっき)の放駒長吉(はなれごまちょうきち)役など歌舞伎演目で重要な役がつくようになりました。そんな歌舞伎俳優・市川染五郎は、22歳にして、ひとつの転機を迎えます。生涯を通して挑み続けることになるミュージカルとの出会いです。それが「王様と私(KING AND I)」。この作品は1951年に初演されたブロードウェイミュージカルで、19世紀のシャム、現在のタイを舞台に、西欧化を図ろうとしながら旧態依然とした概念から抜け出せない王様と、王子たちの家庭教師として招かれたイギリス人アンナとの対立とその果ての和解までを綴った名作。ブロードウェイでこの作品を演じたユル・ブリンナーは一躍スターの座を手にし、その後「荒野の七人」に主演するなど不動の地位を獲得しました。元タカラジェンヌ・越路吹雪と共演したこの「王様と私」は大成功を収めました。その後「心を繋ぐ6ペンス」、森繁久弥主演の「屋根の上のバイオリン弾き」などミュージカル、現代劇を縫うようにがむしゃらに芝居を続けた染五郎は、早稲田大学を中退し、生涯役者一筋で生きる決心をしたといいます。そして27歳のとき、いまも演じ続けている幸四郎ミュージカルの代表作「ラ・マンチャの男」に出会いました。「ラ・マンチャの男」とは、中世のスペインを舞台に、カトリック教会を冒涜したという疑いで投獄された劇作家セルバンテスが、身ぐるみをはがそうとする牢獄の囚人達から自らの脚本を守るため、「ドン・キホーテ」の物語を牢獄内で演じ、囚人たちを即興劇に巻き込んでいくというストーリー。「ミュージカル場面は素晴らしい。めまぐるしいほどの迫力で、染五郎のうまさは1級品である」。当時の劇評は染五郎を絶賛しました。

上條恒彦さん
「印象?怖かったなあ。面白い人なのに、楽屋とか舞台では非常に神経集中させて、非常に真剣に取り組んでいらっしゃいますからね。近寄りがたいって言っちゃうと、ちょっとよそよそしいけれど、それに似たような緊迫感がありましてね。だから、まあ、怖かったかな。稀有な俳優かなって思いますね。」

染五郎に更なる朗報が届いたのは数ヵ月後。芸術座で三島由紀夫原作「春の雪」に出演中のことでした。「ラ・マンチャの男」ブロードウェイ公演の主演に染五郎の名前が挙がったのです。世界でこの作品を主演している俳優を招いて「国際ドン・キホーテフェスティバル」を開催するという話でした。が、染五郎は大いに悩みました。本場ブロードウェイでの公演ともなれば、当然台詞は英語。懸念は染五郎の英語力、そして日本のミュージカルの水準です。もし失敗すれば染五郎だけでなく、日本のミュージカル自体も世界の舞台で恥をかくことになるのです。そんな染五郎の背中を押したのがドン・ポムズでした。オフブロードウェイの俳優だったポムズ氏と松本家の関係は、実に意外なものでした。父、白鸚は、その4年前、IASTA(Institute for Advanced Studies in Theater Arts)演劇進学学校の招きで、ブロードウェイの俳優たちに歌舞伎を教えるため渡米しています。その時、父と自分の当り役である「勧進帳」の弁慶を教え演じたのがドン・ポムズ氏なのです。

ポムズ氏
「染五郎さんは当時ミュージカルをやっていて、私に助言を求めました。「出演すべきかどうか」と。そこで私はお父さんから歌舞伎を学んだ義理を果たすため、彼の手伝いをすることにしたのです。私は彼に出演者全員の台詞を勉強させました。いかなる状況にも対応できるように。 「演技するな! 考えよ!」 いつも彼にそういい続けました。」

アメリカの俳優でさえブロードウェイは夢の舞台。染五郎は日本人として初めて全編英語の台詞でブロードウェイの舞台に立つ事を決意したのです。
1969年12月に結婚した染五郎は年があけた1月末、妻・紀子(のりこ)とたったふたりでブロードウェイに向かって旅立ちました。小さなアパートを借りて舞台稽古に通い、舞台俳優専門に英語の発音を教える教師について舞台英語の特訓の日々。当時ふたりが借りていたウエスト55丁目にあるアパートは、現在はホテルになっています。そして夫妻が足しげく通ったというのがレストラン「ニッポン」。オーナーの倉岡さんは疲れきった染五郎のためにアパートまで夜食を運んだこともあったそうです。

倉岡氏
「お運びしたことは何度もありますよ。当然ですしね。当時はほとんど日本の人もいませんし。まあ、僕等にできることはその程度のことですけれどもね。野菜の煮物であったり、おむすびであったり、海苔巻であったり…。」

渡米して1ヵ月あまり、いよいよ初日を迎えました。舞台は大成功。『ブラボー!』という歓声と拍手の中で幕は下りました。それから10週間、公演は続きました。

シェークスピア作品、テレビドラマへの挑戦

1972年、染五郎30歳にして待望の長男が誕生します。後の七代目染五郎です。そして役者として充実期を迎えた染五郎が取り組んだのがシェークスピア作品。蜷川幸雄演出による「ロミオとジュリエット」(74年)をはじめ、「ハムレット」(72年)、「リア王」(75年)、「オセロー」(94年)、「マクベス」(96年)と4大悲劇完結へ向けひた走ったのです。

蜷川氏
「ちょっとカルチャーショックだった。その当時僕はアングラだったからさ。伝統芸能に対して反発心があるわけだ。何で歌舞伎だけが優遇されていくんだ、冗談じゃねーよって思いながらアングラやってるわけじゃない。で、商業演劇に行ったと。で、相手は歌舞伎の御曹司だ。その人を演出するってなったときに、やってみたら、すごかったんだよ。もう僕が想像するよりはるかに優れてて、驚いたのね。それで、ああ、古典芸能バカに出来ないな、って。清潔感があってね。凛々としてるんだよ。で、スケールがでかいってことかな。終わったら、稽古場がわーって拍手したの。そのくらい俳優としての幸四郎さんは素晴らしかったですよ。これが歌舞伎俳優かと。こんな斬新な演技をするって言うのが最初の印象でしたね。」

そんな歌舞伎俳優・松本幸四郎は染五郎時代に1度だけレコードを出しています。重度の角膜炎症で入院中、暫くぶりに眼を開けたときに視界に入った病室の庭に咲いていた花を見てその場で作詞作曲したというこの「野バラ咲く路」はその後、フォークソングの世界的グループ「ブラザース・フォー」がカバーしています。そして1978年、NHK大河ドラマ「黄金の日日」主演。安土桃山時代に実在した大阪堺の貿易商・呂宋助座衛門の生涯を描いたこのドラマは、栗原小巻、鶴田浩二、丹波哲郎、緒方拳らトップスターとの共演も話題になり、夏目雅子、竹下景子、鹿賀丈史らがこの作品をきっかけに羽ばたいていきました。最終回には父8代目・幸四郎、そして息子金太郎とも共演。近年にない高視聴率をあげ、35歳の染五郎の名は全国に知れ渡りました。そして、このドラマを見て、その後の人生を変えるほど影響を受けたという男が脚本家・三谷幸喜。当時、高校一年生だった三谷は「いずれこの人の為の本を書くんだ」と誓ったそうです。

三谷氏
「本当に松本幸四郎さん・・その頃は市川染五郎さんとおっしゃってましたけど…市川染五郎という役者を見ているというよりは、呂宋助左衛門を見てるって感じだった。その後ですね、1年間、その助左衛門と共に暮らし…。で、大学に入って、「ラ・マンチャ」を見て、「アマデウス」を見たときに、こんなにすごい俳優さんがいるんだっていうところで、自分も書く仕事を始めてましたから、いつかこの人と仕事をしたい、この人のために本を書きたいなっていう風に思いましたね。ある意味、僕にとっては恩人ですよね。幸四郎さんとのそういう出会い…僕は観客としてですけど…がなかったら、いまの仕事を僕はしてなかったかもしれないですからね。」

トークセッション1

香取:さあ まだまだ始まったばかりなんですが、たくさん感動しましたボクは。歌舞伎の方で歌舞伎以外のことを初めてやったおじいさま…おじいさまはどういうお方だったんですか?

松本:外国が好きだったんじゃないでしょうかね。祖父の楽屋に行ってお弟子とか若い方を集めて、外国の話をするんです。「パリの街角は…」とか「ロンドンは…」「ニューヨークはね…」ってね。祖父はとうとう生涯一度も外国へ行くことはなかったんですよ。

香取:行ったことないんですか?

松本:どうしてそんな見てきたような話をするのかなと思って、あるときお弟子さんが祖父の鏡台の横の引き出しをそっと開けたら、外国の絵葉書がたくさん出てきたの。ロンドンの街並みとかパリのガス灯の写真が出てきたんです。だからね祖父は本当はブロードウェイへ行って、英語でブロードウェイの俳優さんと芝居がしたかったんじゃないでしょうかねその隔世遺伝が孫であるここへ来ちゃった。

香取:隔世遺伝でブロードウェイ、の前に、初めてミュージカルをやったときの気持ちはいかがでしたか?

松本:22歳のときでしたね。そのときに僕は、歌舞伎の役者がミュージカルをやることはないと思ったんですね。役者っていうのは何でもやる必要はないと思うんですよ。僕のようにミュージカルやったりシュークスピア劇やったり、アマデウスやったり翻訳劇をやったり、というように何でもやる必要はないけれども、プロの役者だったら何でもできなくちゃいけないんじゃないかな、とは思っています。それがね役者の原点だと思ってたから。22歳のとき初めて「王様と私」というミュージカルに出て、これでもう歌舞伎には戻るまいと思ったんです。中途半端なことをするんだったら辞めたほうがいいと。22歳のときにキングの役をやります、って言っちゃった以上は、失敗したら歌舞伎へ戻れるとは思ってなかったです。それぐらい覚悟をきめてやったんですね。

香取:ブロードウェイの決断をするときに、止めようという思いもあったんですか?

松本:もちろん周りの方はできないだろうと…。2時間半近くのミュージカルをブロードウェイで英語で…。

香取:英語力はどうだったんですか?

松本:まったくダメでしたね。

香取:どこか英語の学校に通った経験があるとか?

松本:僕はね小学校から暁星ってとこなんですよ。フランス語なんですよ、暁星ってところは第一外国語が。だから早稲田受けたときもフランス語で受けた。それくらいですから、自慢じゃないですけどまったく英語はダメだったんです。

香取:じゃあ本当にゼロの状態から…。

松本:そうです。それでドンさんに付いて…。「春の雪」って芝居が終わった10時過ぎから翌朝の夜中の2時、3時まで毎日やりました。そのとき思ったんだけれども、僕は3つのとき初めて歌舞伎の舞台を踏んで、俳優としての訓練を受けてきたわけですよね。それは理論じゃなくて、ドンが“Think”っていいましたね。それから“Act”って言いましたね。そのドンさんの言葉に一致するんだけれども、あんまり考えずにやってきたんですね。体で全部、台詞も動きも踊りも叩き込まれるというのかな。だからドンさんの言う「完璧な台詞をどうしたらしゃべれるか」っていう一心でしゃべってたんですよね。

香取:相手の台詞も全部覚えて…。

松本:そう もちろん。このブロードウェイでやったときはね、確か初日開く前にひと月ぐらい稽古期間があって、舞台で稽古をして帰ってきますね。そのときにチャイナタウンでもって、おいしいんだけど安い中華料理を食べて、家内とふたりで寝ますね。するとひょっと目が覚めるんですよ。何時かなと思って枕元の時計を見ると、辺りは薄暗いし4時なんですよね。まだ明け方の4時かと思ったら、翌日の午後4時なのね。前の晩から翌日の午後4時まで一度も目が覚めない。こんな経験は僕は初めてしました。

香取:心身ともにぐったり、だったんですね。

松本:そしてねえ、いつごろだったかなあ。「ドン・キホーテ」の最後で思い出すシーンがあるんですよ。一番前に座っていらした、アメリカのご婦人が僕の英語の台詞を聞きながらハンドバッグをパチンと開けられて、真っ白なハンカチを出されて目頭をぬぐい始めて…。そうしたら、英語の台詞を言いながら、これまでの英語の台詞の辛かったこと、苦しかったことを思い出して、涙と汗が一緒になって…。そのご婦人の胸元にある白いハンカチが白い光の玉に見えたのね、薄暗い客席で。そしたら僕 英語の台詞言いながら、本当に吸い込まれていってしまったんですよ、彼女のその白い光の玉の中に。そのとき僕はね、「ああ僕はこのためにブロードウェイに来たんだ」「この気持ち1つだけ味わうために来たんだ」と。日本人が27歳で英語でミュージカルの主役をやるとか、歌舞伎役者がミュージカルやるとかそんなの関係ないって思えたんですよ。当時27で親父とお袋がまだ生きていて、手紙が来たんですよ。お袋は例によって細々といろんなこと…風邪引くなとか体は大丈夫かとかそんなことばっかりいっぱい書いてあるんです。便箋に何枚も何枚も。でも最後の1枚を見たら、おにぎりみたいな大きな字で「俺はお前を信じてる 父」って書いてあったんです。それ見てたらね そこにポタポタ涙がこぼれてきちゃって…。
「歌舞伎だからすごい、歌舞伎だから偉大だ」とか、「伝統だ、古典だ」とかみんな言うけれども、本当は「すばらしいから歌舞伎」なんですよ。

イギリスを熱狂させた「王様と私」

1980年11月、高麗屋三代襲名披露。父・八代目幸四郎は松本白鸚と改名し、染五郎は九代目松本幸四郎に、息子金太郎を七代目市川染五郎とする高麗屋三代襲名披露が行われました。そしてその年、幸四郎はまたも新たな戯曲に取り組みました。「アマデウス」。天才モーツアルトに嫉妬する宮廷音楽家サリエーリの物語でした。「ラ・マンチャの男」と共に幸四郎の代表作となるこの「アマデウス」は、再演が重ねられ、その後、モーツアルト役を息子染五郎が演じ、芸術祭賞など受賞。幸四郎だけでなく親子の新しい財産となりました。幸四郎はミュージカルに、そして現代劇に勿論歌舞伎にも、これまで以上に貪欲に取り組んだのです。
歌舞伎における九代目松本幸四郎の当り役は数多くあります。歌舞伎十八番といわれる、七代目市川團十郎が、市川家代々の芸の中から、選定した十八種類の演目。「暫(しばらく)」の鎌倉権吾郎役(かまくら ごんごろう)、「助六」の花川戸助六(はなかわどすけろく)、中でも当り役とされるのは、祖父7代目幸四郎から受け継がれている「勧進帳」の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)などです。襲名に際し、父・白鸚からこんなことを言われました。「襲名の名という字は命という字なんだよ。名を継ぐのではなく命をつぐんだよ」。幸四郎の初舞台から、ブロードウェイでの「ラ・マンチャの男」、シェークスピア作品、「アマデウス」・・・全てを観劇しているかのフォービアン・バワーズ氏は、父白鸚の死後、舞台の幸四郎を観て母・正子に「ジュンちゃん(八代目)はあそこにいるよ。八代目の魂は九代目の中に・・・」と言ったそうです。

1984年には大河ドラマ初の現代劇「山河燃ゆ」に出演。大河2度目の今作では三船敏郎らと共演しました。48歳となった1990年、幸四郎は単身イギリスに渡り、22歳で初主演したあの「王様と私」を演じています。イギリスの演劇プロデューサー、ロナルド・S・リーによる熱烈な要請で、幸四郎以外は全員イギリスの俳優たちでした。しかし、当時の幸四郎は、「王様と私」を演じたことのないイギリスの役者たちの中で、孤独感に苛まれていました。そんな幸四郎を支えたひと言があります。

20数年前に日本で演じた「王様と私」。実はその後、配役を降ろされ落ち込んでいた幸四郎は、ブロードウェイにユル・ブリンナーを訪ねていました。日本食レストランで会食を共にしたブリンナーは「Next King is you.」.とイギリスではまったく無名の幸四郎の演技に観客は先入観なしに反応し泣き笑いました。半年間に渡りイギリス各地で巡演された「王様と私」は各都市で賞賛され、「KING from KABUKI」などと地元メディアは幸四郎をトップで扱ったのです。そして1995年、フジテレビ「王様のレストラン」に出演。落ちぶれたフランス料理店を建てなおすため、現場復帰した幸四郎演じる元ギャルソンが店のスタッフと衝突しながら店を改革していく物語。この役に幸四郎を熱望したのが三谷幸喜氏です。

三谷氏
「まあ、ちょっと当たって砕けろ的なところもあって、僕とプロデューサーの方と一緒に、国立劇場に会いに行きましてね。僕としてはもう、雲の上の方っていうイメージだったんですけれども、実際お会いすると、かなり気さくなというか、僕が思ってたのと全然違う、もっと凄くフレンドリー。逆にフレンドリーすぎて恐いぐらいな感じの、そこまでフレンドリーな感じの方でビックリしました。」

その後、演劇企画集団「シアターナインス」を設立し、三谷作品「バイマイセルフ」「マトリョーシカ」など発表。また、歌舞伎の新しい可能性を求めて、歌舞伎企画集団「梨苑座」を立ち上げるなど、幸四郎の芝居にかける情熱は尽きることがありません。2002年、「ラ・マンチャの男」公演1000回を迎え、ミュージカル主演は通算2000回を超えました。そして先月、祖父から受け継いだ「勧進帳」は800回を迎えたのです。が、7代目は「勧進帳」を1600回も演じています。

トークセッション2

香取:いま半分ですか。

松本:大変な先祖を持っちゃいましたよね、ホントに。でもこのおじいさんという人はですね、80近くまでやってたんですよ。晩年は心臓が悪くて、あげ幕でしばらく心臓を抑えて、うずくまって心臓を整えて楽屋へ入っていった。一緒に出ていてそういう姿を見ていた親父が「おとうさん もうあなたは1600回。幸四郎の弁慶は当たり役だし、お客様は皆さんよくご存知だから、少しは自分の体のことを考えて演じなさいよ」と言ったんですって。そしたらうずくまってた祖父がギョロっと見上げて、「何を言ってるんだ。今日初めて自分の弁慶をご覧になるお客様もいる」って言ったんですって。80近いおじいさんがですよ、よくそういう事言えたと思ってね。(客席に向かって)おもしろいですか、こんな話?
(会場からは「おもしろい!」という声があがる)

松本:そう? なんか…。

香取:いやいや もう本当にいっぱいお話を聞かさせていただいて、ひとつずつ僕の中で「これはスゴイ」てなった瞬間、「うわっ こっちの方がスゴイ」でどんどんなってきて(笑)。スタッフから聞いたんですけどイギリスに行ったときタクシーに乗ったら無料になったという話は?

松本:ああ、あれはね、バーミンガムだったな。「王様」はブロードウェイと違って半年間の公演だったんです。270ステージ。長いせいもあったんだけど、バーミンガムに行ったら何十年ぶりかの大雪で、その日の公演が中止になったんです。中止になったんで、僕は楽屋口でホテルまで帰るタクシーに乗った、運転手さんが(バックミラー越しに)見るのね。で、多少日常会話くらいはできますから話したんですよ。そのとき彼が「君、日本から来た王様役の役者だろ」って言うんですよ。「そうだ」と言ったら、「観たよ、昨日」って言うんです。「とってもよかった、感動したよ」って。そのうち話をしているうちにホテルへ着いて、「いくらですか?」ってメーター見たら、「いい」って…。

香取:かっこいい!

松本:「とても感動したからお金いらないよ」って言って、バタンとドアを閉めてスーッと行っちゃったんですよ。

香取:VTRの中にも出てきた三谷さんが、大河ドラマを見て感動して、いつかご一緒したいと。その三谷さんから夢をかなえたいから大河やらないか、と言われてボク一緒にやらせていただいたんです。

松本:その三谷さんが「舞台やってくれ!」「ミュージカルやってくれ!」と頼んでもあなたはやらないと(笑)。で、番組を見ていたら、「毎日同じことするのは嫌だ」「わからない」って…。

香取:いや、いや、あの(と焦る)。正直なこと言うとそれはちゃんとした理由じゃないです、きっと…。

松本:そしたら1600回も「勧進帳」やってるおじいさんはどうなる?ねえ。確かにそうですよ。同じこと、同じ動き、同じ台詞をやるのは。でもさっきもおじいさんの言葉にもあったけど、毎日違うんですよ お客様は。舞台は常に評価されたり評論されるわけですよね、いいとか悪いとか、上手いとか下手だとか。でも専門家より、本当に切符を買ってぱっと見て「松本幸四郎ってどんな役者かな」って来てくれるお客さんの方が反応が鋭いし本当なの。役者ってのは1日怠けると自分でわかるんですよ。2日怠けると相手役にわかるんですよ。で、3日怠けるとお客様にわかるっていう昔からの言い伝えがあるんだけど、お客様が一番わかるの。「ああ、今日は失敗したな」と思うと手叩かない、歌舞伎でも。歌舞伎でどういう言い方がよい言い方で、ダメな言い方か、どういう動きが良くて、悪い歌舞伎かというのが全然わからなくてもお客様はちゃんとわかるの。

香取:空気なんですね?空気の隙間というか…。

松本:歌舞伎ってのは古いものですよね。でも、古いものが本当にわかる方は新しいものもわかる。そういう人たちが、日本の古いものを今日まで伝えてきてくれたんだと僕はいまでも信じてるんですけどね。

香取:三谷さんとの舞台、ミュージカルを断り続けている香取慎吾ですが…。

松本:そういう気持ちにはなれませんか?毎日お客さまは新しいんだと…。

香取:あの…三谷さんにはそういう理由というか、「毎日同じことなんで僕はできないと思います」と言いましたが…。

松本:今日はね、(香取編集長が)『歌舞伎を観にきてくれること』と『舞台でミュージカルをやってくれること』という、このふたつ約束を条件に今日出たんですよ…。

松本さんにどんどん突っ込まれ、焦る香取編集長…。そして松本さんの熱き想いはまだまだ続く。次週、生放送でお送りするスマステーション5は、家族、関係者が語る人間・松本幸四郎の素顔と、9代目幸四郎の見果てぬ夢に迫ります。Don't miss it!
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