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SmaSTATION特別企画『永遠のハリウッドスター ジェームス・ディーン』
1955年10月8日、インディアナ州フェアマウントのフレンド教会において、大規模な葬儀が行われました。それは、わずか3本の映画に主演しただけの若手俳優の葬儀でした。弱冠24歳で交通事故で亡くなってしまった彼の名は、ジャームス・バイロン・ディーン。後に続く俳優たちに多大な影響を与えたとされるジェームス・ディーンとは、どんな俳優だったのでしょう? その劇的な半生に迫ります!
幼少の頃から開花した演技の才能と、恵まれなかった生い立ち
ジェームス・バイロン・ディーン、通称ジミーは、1931年2月8日、アメリカ・インディアナ州で生まれました。歯科技師をしていた無口な父・ウィルトンと、若く優しい母・ミルドレッドの長男として生まれたジミーは、幼い頃から近所で評判の「美男子」でした。両親の愛情を一身に受け、明るく愛らしい少年に育っていきますが、5歳の時、母が癌で亡くなると、仕事に追われる父親とも離れ離れに暮らすようになります。祖父母に引き取られたジミーは、その寂しさを紛らわすかのように小学校や教会で大物コメディアンのモノマネを披露したりして、人前に立つ快感を覚えるように。やがて、地元のハイスクールに進学すると、そこでも次第に才能を発揮し始めます。
校内演劇や朗読会などで、学生とは思えない演技を見せるジミー。その才能は、演劇教師が、「全米高校弁論大会」への出場をすすめるほどでした。「弁論大会」に出場すると、結果は、見事、州大会優勝。小さな田舎町にもたらされたこの快挙は、地元紙の大見出しを飾り、「ジェームス・ディーン」の名前は一躍知られることになりました。そして、それは彼が「役者」という人生の目標を見つけた瞬間でもあったのです。その後もジミーが演じる校内演劇には、地元の観客が押し寄せ、3階席まである講堂はいつも満席に。彼の役者としての才能は、早くから人々の心を捉えていたのです。演劇のとりこになる一方、彼は熱心にスポーツにも取り組みました。バスケットでは得点王になり、野球では優秀選手、陸上の棒高跳びではチャンピオンにもなっているのです。様々な分野でその才能を発揮した彼は、後に「僕にどんな才能があったにせよ、それはハイスクール時代に明確になった。その頃、僕は自分自身に証明しようとしていたんだ。やればできるってことを」と述べています。そして1949年、18歳になったジミーは本格的に演劇を学ぶためにカリフォルニア州立大学へ進学。しかし、プロの俳優を目指すために進んだこの大学で、ジミーははじめての屈辱を味わうことになるのです。いくつかの演劇に出演した彼への評価は、「インディアナなまりの田舎者」という散々なもの。
しかしジミーは、これに臆することなく演劇の勉強を続けました。そんなジミーが初めてギャラを手にした仕事が、飲料水のCMでした。このCMの出演で手にしたギャラは、たった10ドルとランチボックスでした。その後、テレビドラマのエキストラの仕事をしながらも、悶々とした学生生活を送ったジミーは、20歳のときにニューヨーク行きを決意するのです。当時のニューヨークはテレビ業界の中心であり、演劇の聖地ブロードウェイはまさに全盛期。ジミーのような無名の役者にとっては、数多くのチャンスがもたらされる、まさに夢の都だったのです。オーディションを受けニューヨークで初めて手にしたのは、エキストラ同然のベルボーイの役。しかし、ここで早くもその天性の才能の一端を示すこととなります。ジミーの役にセリフは設定されていなかったものの、1時間の生放送だったこのドラマで、何とジミーはアドリブで台詞を発したのです。共演者も驚かせた彼の突然の演技でしたが、これが怒られるどころか関係者に高く評価されたのです。そしてその後、ジミーは役者を目指すものにとって最高の学び舎である「アクターズスタジオ」の門をたたきます。150名の入学希望者のうち受かったのは15名。ジミーは、1回目の挑戦で合格する人間はほとんどいないと言われる狭き門に、21歳という最年少で合格したのです。名優ダスティン・ホフマンでも7回の挑戦でようやく合格したのですから、ジミーの才能がいかに非凡だったかがわかります。この勲章を手にしたジミーの元には、数多くのテレビドラマの仕事が舞い込んできました。1953年の1年間に出演したテレビドラマはおよそ15本。些末な役も多かったものの、彼の演技を一度目にした者は、みなその存在感に目を奪われたそうです。
アドリブを多様し、監督・共演者からも非難された「メソッド演技法」
ジミーは、それまでの多くの役者とは根本的に異なる演じ方をしたと言われています。当時、模範的といわれた演技手法は「台本に忠実に表現すること」でしたが、ジミーはある意味、その全く逆の手法を取っていたのです。その手法とは「メソッド演技法」といわれるもの。外見の動きやセリフの抑揚などで役柄を表現するのではなく、演じている俳優が、自らをその役柄に投影し精神的な衝動で演技していく技法なのです。「アクターズ・スタジオ」創設者である、リー・ストラスバーグらの手によって広められ、現在では、ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノ、ブラッド・ピットなどが実践し、今やハリウッドの主流演技法となっているものです。ジミーは、ある役柄を演じる際自らがその役に同化するほど感情移入し、ありきたりの固定観念や台本に一切とらわれる事なく、アドリブを多用し、感情の機微を表現したのです。しかし、ジミーのその演技は新しい演技であると同時に、それまでの「古き良き俳優像」を打ち壊すものでもありました。実際、多くの批判受け、拒絶されたこともあったのです。しかも、時に横柄で周りの事を気にもかけないようなジミーの性格が、それに拍車をかけ、彼は役者仲間から「異端児」と呼ばれるようになります。そんなジミーにブロードウェイから声がかかったのが、1954年。同性愛を描いた作品「背徳者」に主役級の役で舞台に立つことになります。
この大役を得たジミーは、他の共演者を圧倒する迫真の演技を見せ、観客、そしてメディアから嵐のような賞賛を得ることに。そして、この舞台を見ていたある映画関係者が、ワーナー映画の大作「エデンの東」の主役に、ジミーを推薦したのです。ジョン・スタインベック原作の「エデンの東」は、カリフォルニアの農場を舞台に、両親からの愛情に飢えた一人の青年・キャルが、父親や周囲に反発し、葛藤する姿を描いた作品。幼いころ母親を病で失い、祖父母の家で育ったジミーにはまさに適役だったのです。実際、監督を務めたエリア・カザンは、初めてこの無愛想な新人俳優と出会った時、「この役を演じられるのは彼だけだ」と直感したそうです。カザンはジミーの才能だけでなく、その奥深くに潜んでいる「もろさ」や「葛藤」といった、複雑な感情を即座に見抜いたのです。撮影が始まったのは1954年5月。案の定、ジミーの演技スタイルは、他の共演者に困惑をもたらしました。特に、激しく衝突したのはキャルの父親役を演じたレイモンド・マッセイでした。マッセイは昔ながらの厳格で伝統を重んじるタイプの役者であり、リハーサルもろくにせず、アドリブを多用するジミーの破天荒な演技手法に強い憤りを感じたそうです。しかし、「エデンの東」は公開されるやいなや、世界各国で大反響。世界中のメディアが「新しいスターの誕生」と絶賛し、世界中の女性はジミーの憂いのある笑顔の虜となったのです。初主演作で、一挙にトップスターへの階段を駆け上ったジミーのもとにはすぐに第2作の話がもたらされます。ニコラス・レイ監督の「理由なき反抗」です。50年代の若者が持っていた、大人や社会への不満、苛立ちを描いたこの作品でジミーは、両親に反抗し、喧嘩を繰り返す若者を熱演。実は、当初この作品は映画会社も大きな期待をかけていたわけではなく、モノクロ映画として撮影を開始。
しかし、「エデンの東」の大ヒットやジミーへの注目度もあり急遽カラー作品に変更されたそうです。この変更により、それまで黒革のジャケットで撮影に挑んでいたジミーの衣装も、カラフルなものへと変更されました。Tシャツに赤いジャケット、そしてくわえタバコ。後のジェームス・ディーンイメージはこうして作り出されたのです。さらに、「理由なき反抗」が世界中の若者に影響を及ぼしたのが、ジーンズです。それまで、丈夫な作業着として捉えられていたジーンズでしたが、この映画でジーンズをはくジミーの姿が世界各国に知れると「ジェームス・ディーン=若者の象徴=ジーンズ」、というイメージが広まり、アメリカだけでなく、ヨーロッパやアジアなどでも若者向けのジーンズが、大量に生産されるようになったのです。
俳優業の合間に熱中したカーレースが引き起こした壮絶な死。そして…。
そんなジミーは、この頃から趣味として「カーレース」に没頭しはじめます。もともとバイクが好きで、「スピードマニア」と噂されていたジミーは、1955年2月、白のポルシェ356スピードスターを購入し、憧れの「カーレース」に初参戦します。そして、いきなり2位に入り、続く第2戦ではクラス別で優勝。撮影スケジュールの合間を見つけては、レースの世界へと傾倒していきます。スクリーンデビューとともに、その才能が世に認められ、トップスターに上り詰めている時期だけに、「何故カーレースを?」と、ジミーの熱中振りを訝しがる人も多かったそうです。しかし、彼を良く知る友人達は、「まるで、見えない何かから逃げるようだった」と感じたそうです。一方、役者としての生活は順風そのもので、「理由なき反抗」の撮影が終わるとすぐに次回作の出演依頼がきました。ジョージ・スティーブンス監督の「ジャイアンツ」です。テキサスの大牧場を舞台に、代々伝わる名門牧場の経営者と、石油で一攫千金を獲得し成り上がっていく一人の若者の、30年にわたる人生模様を描いた超大作です。主役の牧場長役にはロック・ハドソン、その妻役にエリザベス・テイラー、と、当時のハリウッドを代表する看板スターが集まったこの作品。ジミーは、彼らの元で働きながら、やがて石油長者へと成り上がっていく野心あふれる若者役を演じました。大スターのロック・ハドソンを引き立てる役に過ぎなかったジミーでしたが、撮影が始まると、またしてもその圧倒的な存在感を誰もが認めないわけにはいかなくなります。ハドソンの無難でありきたりな演技とジミーの感情をむき出しにした演技は、誰の目から見ても別次元のものだったのです。
この撮影現場でも、ジミーは出演者や監督と衝突を繰り返しました。主演のハドソンからは「礼儀知らずの若者」と敵視され、監督のジョージ・スティーブンスは、毎回アドリブを繰り返すジミーに激怒。撮影終了後、「あいつとは2度と仕事をしない」と苦々しく述べたと言います。しかし一方で、ジミーが手にした投げ縄をいじりながら、何気なく結び目を作るシーンでは、ジミーはアドリブで演じているにもかかわらず、実はジミー以外誰にも出来ず、撮影後、主役のハドソンは大変くやしがっていたというエピソードも。
本物のカウボーイならば出来て当たり前のこの仕草が、ジミーだけに出来たのには大きな理由があったのです。ハドソンやテイラーなど、トップスター達は、長い撮影期間にもかかわらず、常に関係者らとばかり接し、地元の人々と触れ合う事は全くなかったといいます。そんな中、嫌な顔一つせず街の人々と触れあい、気軽にサインに応えていたのは、意外にもジミー1人だったのです。そんなふれあいの中で、ジミーはテキサスで暮らす人々の心を理解し、投げ縄のテクニックを習得したのです。 1955年9月、「ジャイアンツ」の撮影がクランクアップし、久しぶりの休暇が取れるようになったジミーは、再びカーレースの世界へとのめりこんでいきます。最新鋭のポルシェスパイダー550を購入し、大喜びで友人達を乗せて回る姿は、まるで大好きなおもちゃを手に入れた子供のようだったそうです。
そんな彼の才能溢れる演技力に対し、当時契約していたワーナーが契約の延長を申し出ます。その内容は以後10本の出演契約で、その出演料は1本10万ドル。これにより、ジミーは、ハリウッド初の100万ドルスターとなったのです。そして運命の1955年9月30日。「ジャイアンツ」の撮影終了からちょうど1週間後の金曜日、ジミーは週末に行われるカーレースに出場するため、自宅を出ました。新車のスパイダーはワゴンで牽引していく予定でしたが、レースに向けてエンジンを温めておきたかったジミーは、自らハンドルを握ったのです。高速道路に入る手前でガソリンを入れ、ロサンゼルスから西へ480キロ離れたサリナスへ向け466号線をひた走りました。その途中、彼はスピード違反で捕まっていました。その違反切符に残した署名が、彼の最後のサインとなってしまいました。しかし、その後もスピードマニアであったジミーは、数キロと続く直線で遅い車を何台も追い越しながら飛ばし続けました。
そして、日も暮れ始めた午後5時59分。ジミーが走っていた466号線と41号線が交差する、そこで、対向車線を走っていたポンティアックと正面衝突。ジミーの車は、14m飛ばされた所で止まり、同乗者は投げ飛ばされ重傷。ジミーは、車に取り残され帰らぬ人になってしまいました。事故を知った関係者らは、その突然の訃報に言葉も出なかったそうです。直前まで、ともに撮影していたエリザベス・テイラーはショックのあまり体調を壊し入院。残りわずかのシーンが残されていた「ジャイアンツ」の撮影は、そこで打ち切りとなったのです。
一方で、ジミーの死を知らされたある友人は、ショックを受けながらも、心のどこかで「ああ、やはり」と納得したと言います。いつも自分に正直で、まっしぐらに生きていたジミーは、常に死を意識していた、と言われています。ジミーはこの頃、「急いで生きないと。死に追いつかれないように」という言葉を残しています。世界中の人々の前に突然現れ、大きな衝撃を与えた天才俳優は、また突然、消え去ってしまったのです。ジミーが亡くなった時点で、一般に公開されていた映画は「エデンの東」だけだったにもかかわらず、葬儀には全米中から数多くの若者達が駆けつけました。彼の死を信じようとしないファンからは、毎週3000通を超える手紙が届けられ、「ジミーは実はまだ生きている」、そんな噂がまことしやかに流れたほどでした。わずか数年のキャリアであったにもかかわらず、後のハリウッドはもちろん、様々な分野で彼の影響を受けていないものはいない、とまで言われるジェームス・ディーン。各界の著名人たちは、彼をこう評しています。

「演じるためだけに生きたような、若く聡明な俳優だった」(ロナルド・レーガン)
「彼は我らが時代の傷ついた美しい心そのものだった」(アンディ・ウォーホール)
「もしも彼がいなければ、ビートルズだって存在しなかっただろう」(ジョン・レノン)
「自分の役割を演じあげたのさ、誰よりも見事に」(サミー・デーヴィス・ジュニア)
「私が共感を覚えるのはJDだけなんだ。ディーンフィーバーの中で育ったからね」(アル・パチーノ)

自らの短い運命を知っていたかのように、自分自身に正直に生き、理想を追い続けた25年間。彼が残した3本の作品はいずれも名作として親しまれ続け、「エデンの東」と「ジャイアンツ」では、アカデミー主演男優賞にノミネートされました。死後2回もノミネートされたのは、ジェームス・ディーンただ1人でした。その後、「理由なき反抗」は「偉大なアメリカ映画100」にも選ばれています。あの事故から50年が経った今でも、彼の墓に花が途絶えることはありません。「良い俳優であることは簡単じゃない。男であることはもっと難しい。僕は死ぬ前にその両方でありたいんだ」(ジェームス・ディーン)
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