◇第1回◇ クロアチアサッカーの歴史 |
ワールドカップ予選出場3回。ワールドカップ本大会出場3回。ワールドカップを100%の確率で出場している国はクロアチアとブラジルだけだ。もちろんサッカー大国ブラジルと比較するのはおこがましいとはいえ、クロアチアが人口450万人ほどの小国であることを考えればこの数字は奇跡的といえよう。 |
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クロアチア代表の最初の公式戦は独立の気運が高まった1990年10月に首都ザグレブで行われた。対戦相手はアメリカ。 |
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「あれは歴史的な試合であり、今でも美しい記憶として残っている」 |
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ズラトコ・クラニチャル監督 |
当時のキャプテン、現クロアチア代表監督のズラトコ・クラニチャルは試合を振り返る。当時のクロアチアはユーゴスラビア社会主義連邦の一共和国だった。自らの国歌が流れ、自らの国旗が翻るこの試合を機にしてクロアチア人は自らの代表チームを持つ意義を知り、独立意識が更に高まっていった。1991年6月、クロアチア共和国は独立を宣言。まもなくしてクロアチア国内では独立に反対した少数派のセルビア人と彼らの後ろ盾になったユーゴ連邦軍との戦争が1995年まで続くことになる。
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1992年にFIFAに加盟したものの、タイミングが遅れて1994年のワールドカップ・アメリカ大会の予選出場は逃してしまう。しかし、1994年3月にバレンシアで行われたスペインとの親善試合で2-0の勝利。この試合から代表を指揮したのがミロスラフ・ブラジェヴィッチ。ナショナリズムをモチベーションづけにするのが得意な監督だ。当時のクロアチア代表はキラ星のごとくスター選手が顔を並べた。スーケル、ボバン、ボクシッチ、プロシネツキ、アサノビッチ、ヤルニ、スタニッチ、ビリッチ、シュティマッツ…..。戦前のユーゴスラビアは1987年のワールドユース・チリ大会で優勝し、タレントに満ち溢れた時代だった。もし戦争がなければユーゴスラビアが90年代に欧州もしくは世界の頂点になれたという声はいまだに途絶えることはない。 |
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初めての国際大会となる1996年の欧州選手権予選ではイタリアを押えて首位で予選グループを突破。イングランドで行われた本大会では準々決勝でドイツに敗れるものの、クロアチアの攻撃的サッカーは欧州を魅了した。それが花開いたのは1998年のワールドカップ・フランス大会だ。同グループの日本は酷暑のナントでクロアチアを苦しめたものの、最後はスーケルの一発に沈められた。巧みなカウンターも身につけていたクロアチアは決勝トーナメントでルーマニア、ドイツと倒して準決勝に進出。開催国のフランスに敗れはしたが、3位決定戦でオランダを倒して国家的な成功を収めることができた。 |
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ただしその後は、小国の成功がゆえに世代交代を上手く進められなかった。2000年の欧州選手権予選では戦争当事国の新ユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)の後塵を拝して本大会に出場できず。2002年の日韓ワールドカップは予選グループ首位で本大会に出場したものの、格下と思われたメキシコとエクアドルに足元をすくわれてグループリーグを敗退。2004年の欧州選手権ポルトガル大会でもベテランを重視したバリッチ監督のもとでチームが空中分解し、グループリーグでフランスとイングランドに叩きのめされた。かつては攻撃的なサッカーが魅力だったクロアチアはかつての面影を失ってしまった。 |
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しかし、ワールドカップ・ドイツ大会では攻撃的サッカーを標榜する新たな人物がクロアチアを指揮する。初代キャプテンを務めたズラトコ・クラニチャルだ。選手に絶対的な信用を与える彼は自らのカリスマ性も相まって戦う集団を作り上げ、ブルガリア、スウェーデンが同居したグループリーグを1位で通過した。クロアチア国民はクラニチャル率いる代表が1998年の成功を再現することを心から願っている。 |