世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
トップページ 放送内容 撮影日記 全国放送時間表 本ホームページについて
トップページ > 撮影日記ページ
撮影日記1

タンザニアはこれまでにも行ったことがあるのでイメージが湧くけど、「ザンビア」はその位置すらよくわからず。でも「タンザン鉄道」という名前は知っているから、おそらく隣同士なのだろう…とまあ、そんなあやふやな知識で始まった今回のロケ。ただ、ヴィクトリア・フォールズは昔から見てみたいと思っていた。世界の三大瀑布と言われるなかで、一番格好がよいというか。あの細長いまっすぐな大地の割れ目に落ちていく感じがそそるのかも。

でもアフリカを旅するとなれば、基本的に覚悟しておかなくてはならないことは幾つかある。まず、電気があてにならない。バッテリーの充電ができないと撮影が終わってしまう。発電機を持って歩くにしても列車内で回すわけにもいかないし、目の届かないところに置いておけば、盗まれてしまうだろう。列車内も真っ暗になる可能性は十分にあるので懐中電灯、できればヘッドランプなど用意しないとトイレに行くだけでも一苦労。

列車はトラブルが予想されるのでダイヤは当てにならず、道路事情は悪いので車でのサポートも諦めなくてはならない。ホテルの部屋では、まず蚊のチェック。ロケ中にマラリアとか、絶対に避けたい事態。蚊取線香、蚊屋、防虫スプレー、予防薬。シャワーではお湯は期待できないし、水さえも水圧が低くて出てこないことも多い。エアコンなんて夢のまた夢。とまあ、不満を言い出せばきりがないけど、それを補って余りある素晴らしいことがたくさんある。と言っても今回は残念ながらキリマンジャロには行けないけど…アルーシャへは線路はあるけど列車が走っていないのだ。でも野生動物と出会う機会はありそう。アフリカで最も広い野生動物保護区、セルーをタンザン鉄道は通る。キゴマからはゴンベ国立公園にも足を伸ばす予定。かのジェーン・グドールがチンパンジーを研究した地というだけでわくわくする。もちろん、どこへ行っても楽しいのは人との出会い、珍しい食べ物、見たことのない風景、そして番組の主役である列車そのもの。

今回、最初に乗るのは蒸気機関車で、1924年製、クラス10の4-8-2。考えてみると蒸気機関車って僕が生まれたころはまだ普通に現役で走っていたわけで、思えば年をとったもの…などという考えが頭をかすめる中、今回も激しい揺れに関節をガタガタにしながら、ぐっと踏ん張り体を支えつつ、久しぶりのアフリカを満喫しに出発。
 
ディレクター 中村博郎
ヴィクトリア・フォールズ
セルー野生動物保護区のキリン
リビングストンの蒸気機関車
撮影日記2

ザンビアの鉄道って、いったいどんな列車なのだろうかと想像もつかないまま、いよいよ乗車の日を迎える。何でも数年前までは日本の寝台車両など使われていたらしいが、現在では南アフリカの車両で、むき出しの金属の背もたれが辛い長旅を予感させる。
民営化の結果のようだが、まあ、その前は着々と赤字を累積させていたらしいので、仕方がないのだろう。でも、電灯が点かない車両があったり、ガラスが割れてなくなったままの窓があったりするのもコストダウンの結果なのかしら。
それにしても、世界的に鉄道を民営化して、線路の会社、貨物の会社、客車の会社、駅の会社、などとなっていく傾向があるようだが、それっていいことのかなあ。

さて、ザンビアの鉄道について、もうひとつ警戒が必要なことは脱線が多いらしいこと。実は、乗車の数日前に一度走っている雄姿を撮影すべく線路脇で待ち構えていたのだが、ついに現われないまま、あえなく日没。後で聞いてみると脱線事故で5時間遅れたのだという。「まあ、そういうこともあるよね」と思っていたが、これだけでは済まなかった。リビングストン駅で列車に乗車して、さあ出発を待つばかりとなったころ、丁度通りかかったトレイン・マネージャーという肩書きの人に「少し前に貨物列車が脱線して、今その処理をしているから出発は少し遅れると思う」と告げられてしまった。「少しって、どのくらいですか」「多分2時間くらいかな」ここでリビングストンでガイドをしてくれたスタッフが「脱線事故の処理だったら2時間じゃ済まないんじゃないの?」と口を挟む。「いや、そうかもしれないな、はっはっは」おいおい、こちとら「はっはっは」じゃ済まないのだが。まあ結果から言うと出発の予定時間は夜8時だったが、実際に出発したのは翌朝になってからだった。座席に座り、いつでも撮影できるようにとカメラを抱えたまま、直角な背もたれの椅子で一夜を明かすのはなかなか虚しい。

が、私たち外国人はともかく。ザンビアの乗客たちは、これでいいのか?「何時間遅れる」とか「急ぐならバスを使え」とか、そういう情報提供もないというのに…。と、不思議に思っていたのだが、さすがに夜が明けたころには全員怒りが爆発したみたいで、駅の事務所に押しかけて行った。暴動でそれこそ運行中止となり、我々の撮影もお終いかと危惧したが、まるで謀ったように、その瞬間出発の警笛が鳴り響く。
あわわっ、出発だ!
 
ディレクター 中村博郎
ザンビア鉄道の車内
リビングストン駅に停車中の列車
夜が更けても車内で出発を待ち続ける人々
撮影日記3

さて列車の旅と言えば、駅弁とか車内で売りに来る土地の名産品などが愉しみを膨らませてくれるわけだが、ここでは駅で待ち受ける物売りの人たちが、その役を担うことになる。とは言っても、正直なところ大したものがあるわけではなく。どこの駅でもほぼ同じ商品ラインナップ。第一の主役はトウモロコシ。茹でたもの、焼いたもの。飲み物の原材料にも使われる。ふむ。考えてみるとトウモロコシは新大陸の食べ物だから、アフリカに渡ったのは16世紀以降なのだろうと思うと妙に感慨深い。次点はマンゴー。マンゴーは本当にたくさんあるみたいで、というのもマンゴーの木というものをあちこちで見かけるのだが、結構どれも大木に育っていて果実がたわわに実っている。マンゴーはアジア原産と云われる。インド洋の交易はかなり古い歴史を持っているはず。

一方で、駅に集う子どもたちから逆にねだられるものもある。例えば空になったペットボトル。再利用するのかしら。売れるのかも。昔、ウガンダでペットボトル頭の部分を切って逆さまにし、漏斗代わりに使ってガソリンをタンクに入れているのを見たことがあるし。カンボジアでは道ばたで、これまた多分ガソリンをペットボトルなどに詰めて売っているところをよく見かけた。液体を入れる軽くて丈夫な容器って、とても重宝するのだろう。水道がないので、水汲みという大切な毎日の作業もあるし。そうそう、ソフトドリンクを飲んだりするときも、ビンの回収はとっても厳しい。中身よりもビンの方が貴重品。そりゃそうか。いや、しかし他人事でなく私たちにとっても結構こういうものは貴重品になってくる。郷に入っては郷に従えじゃないけれど、他には例えばビニール袋とか、とにかくその手の「物資」は入手困難なので、日本にいるときのように気軽に捨てるわけにはいかない。常に再利用を念頭に何でもキープ。

列車は大きな問題なく走っている。でも、例えば停車時間を短縮して遅れを取り戻すというようなことはない。30分とか1時間というような停車時間が何故必要なのかな。燃料の補給は必要になるかと思うが、途中一度満タンにすれば足りるのではないかしら。運転士組合の規定とかかも。
気が急くのは理由がある。カフエの南に1906年に建設されたという長さ400m以上の鉄橋がある。コーディネーターの山田さんが警備の兵士を説得して撮影許可を取ったのだが、このままでは日没に間に合わない。
 
ディレクター 中村博郎
列車到着にあわせ駅に人が集まりだす
こちらはトウモロコシが原材料の飲み物
大きな駅ほど物売りの人も品数も多い
撮影日記4

ロケ中に時間が微妙に空いてしまい、そうは言っても特に撮るものがない場合に「じゃあ、ちょっとお茶でもしますか」という事態が発生する。ザンビア・タンザニアではこれが案外難しい。喫茶店というものが見つからない。コーヒーの産地だし、そんなはずはないと思うのだが、まあ、生活にそんな余裕がないということか。お茶ごときにお金を払って、おしゃべりするとか、本を読むとか、そんなヒマがあったら何かお金を稼げることをやったほうが百倍マシなのだろう。
こういう「現実的」「実際的」というような感覚は鉄道でも同じで、列車に乗っている人たちに旅情とか、車窓を流れる風景に身を任せるとか、自分探しとか、遠い記憶に思いを馳せるとか、その手の感覚はどうやら存在していない。子どもたちは、まだ純粋に楽しんでいるところがあるけど。大人は辛い旅を耐えることと、着いた先での商売のことなどで手一杯。

そんなわけで車内の雰囲気は、ひと言で言うと「不機嫌」だ。貧困の問題とか、政治の問題とか、水道もガスも電気もない不便さとか、50歳に届かない平均寿命とか、そういうものを抱えて日々生きている人々。そこに現われた外国人の撮影クルーに対する感情は単純ではないことは、想像できる。

びっくりするのは、英語を達者に話す人が多いことで、教育水準は低くないと感じる。一方で、そういう教育を受けていてもそれを生かす仕事がないことも判る。話しかけられる内容は「ザンビアの鉄道の問題は何だと思うか」という類のことが多く、正直なところ、こうした問いに対する返事は持ち合わせていない。「こんなに遅れていいと思うか?」「よくはないと思いますが…」「ザンビアの列車は汚いだろう?」「ええ、まあ…」「日本の鉄道は電気で走るけど、ザンビアは違う。それが問題だと思うか?」「必ずしも動力の問題ではないのではないかと…」「ザンビアの鉄道も将来は日本のようになれると思うか?」「うーん、どうでしょうねえ…でも日本も僕が子どもだったころの鉄道はけっこうボロかったですし…」などと歯切れの悪い解答をする私。

こんなに混んでいるのに本数が減っているのは変だし、客車をもう2、3両増やせないことも不思議とは思う。でも日本では昔から頻繁に脱線はしていなかったのではないかとも思うし。「でもトウキョウの朝の混み方は、これよりもっとスゴイですよ」と教えてあげることはできるけど。
 
ディレクター 中村博郎
忙しい空気に満ちたルサカの街並
カフエ近郊にある古い橋
ザンビア鉄道の乗客たち
撮影日記5

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという有名なSF作家が、幼少のころ南アフリカのケープタウンからコンゴのルブンバシ辺りまで鉄道で旅している。この旅行記は「ジャングルの国のアリス」という本になっていて、1920年代の話。鉄道のあとは、船でルアプラ川を下り、今のブルンジ、ルワンダ、ウガンダを通ってケニヤのモンバサまで。いやいや「アフリカ旅行は今でも大変」だなんて思っていたけど、80年以上も前に小さな子どもが平然と旅をしていたわけで、こちとら面目丸潰れ。なぜ彼らはこんな冒険旅行に挑んだかというと、アメリカ自然史博物館に飾るゴリラなどの剥製標本を作るためのハンティングが目的だった。バンバンと野生動物を撃ちながら「こうした自然を守っていくことが大切だ」と大まじめに語っているところが時代を感じさせる。

今回旅をするザンビア・タンザニアの地域が初めて白人によって探検されたのは、ティプトリーたちの旅行より僅か数十年前の19世紀半ばのことで、本当に近年まで「暗黒大陸」だったわけ。探検したのはデビッド・リビングストンというイギリス人。当時は、様々な王様や酋長がそれぞれの国や部族を治めていたというのだから、実にあっという間に植民地にされてしまったわけで、恐るべし帝国主義。皮肉なのは、リビングストンの本業が宣教師で東アフリカの奴隷貿易を憎んでおり、その廃止を願っていたこと。そりゃ植民地と奴隷は違うのだろうが、リビングストンさん、その後の歴史はよかったんでしょうか?

さて、歴史話が続くが、僕が生まれたころザンビアという国はまだなく「北ローデシア」という地名で呼ばれていた。ローデシアの名前の由来はローズという人物。南アフリカでダイヤモンドを採掘して億万長者になった実業家で、ティプトリーたちが利用した鉄道を建設したのはこの男。当時は、ケープタウンとエジプトのカイロを結ぶアフリカ縦断鉄道という構想まであったと知って「3C政策」という歴史の授業の遠い記憶が甦る。

さてさて。ザンビアは豊富な銅を産出するが、生憎と内陸国。銅を輸出するには、鉄道で南アフリカの港からと行きたいところだが、これまた生憎と当時はアパルトヘイト政策のために仲は悪いし、世界中から経済制裁も迫っている。と、まあそのような事情が、ザンビアと外洋を結ぶ第2のルート、タンザン鉄道が建設された背景にあったわけ。
今回のロケの山場を迎えつつある。
 
ディレクター 中村博郎
100年以上の歴史があるザンビア鉄道
線路わきで遊ぶタンザニアの子供たち
カピリ・ムポシ近郊を走るタンザン鉄道
撮影日記6

ザンビア鉄道は脱線と遅延で撮影を混乱させてくれたわけだが、タンザン鉄道もやっぱりやってくれた。カピリ・ムポシに到着する列車の姿を撮影しようと出かけたところ、20時間(!)遅れるという離れ業。事前に時間を確認したから荒野で20時間待つ状況は免れたものの、こういうことが続くのだろうか。

さて、いよいよタンザン鉄道。先ず不思議に思うのは、どうしてザンビア鉄道のカピリ・ムポシ駅に乗り入れなかったのかということ。それどころかリビングストンやルサカから直通でダルエスサラームまで列車を走らせてもいいだろう。ザンビア鉄道とタンザン鉄道の駅はかなり離れていて、乗り換えるには不便。別会社だから相容れないのか。
両者の駅は、雰囲気も全く違う。ザンビア鉄道の駅には屋根すらないが、タンザン鉄道の駅は巨大な建造物。もっともフロアがあるわけではなく、天井が虚しく高いだけ。出発前になると、大げさな音楽が鳴り響く。ちょっとロシア風な雰囲気の“祖国ウラル山脈旅立ち交響曲”とでも名づけたくなる曲だ。
この鉄道は1970年代に中国の援助によって建設されたもの。近ごろ中国がアフリカをはじめ世界中の資源を買っているというニュースをよく目にするが、70年代から既に着手していたという見方もできるわけで、先見の明があったのか。枕木や客車も中国製のようで、漢字の表記がある。

走り出すと、今度は揺れの酷さにびっくり。左右の揺れは予想の範囲だが、つんのめるような激しい前後の揺れ。機関車が減速する度に、後続の車両はそれに追突しているような衝撃を受ける。寝台から落ちそうになるほどのGがかかるので、夜もあまり眠れない。
でもまあ、あんまりぐっすりというのも危険かも。夜中は列車強盗が出ることもあるという噂がある。夜中に扉をノックされても安易に開けてはいけないらしい。私たちは外国人で、しかもキラキラと光るアルミのケースをたくさん携えているので標的になる資格は十分。
結果的には幸い盗難には遭わなかったが、出発と同時にすごい勢いで酒を飲み始める人々がいて、泥酔状態でコンパートメントに闖入してきて絡むことはあった。怒らせないように気をつけつつ毅然と向き合う時の感覚は、世の東西同じなのかも。
 
ディレクター 中村博郎
巨大なタンザン鉄道 ニュー・カピリ・ムポシ駅
タンザン鉄道の車内
国境を越えて旅するボーイスカウトの少年達
撮影日記7

ザンビアからタンザニアへ入る直前、最後の駅ナコンデに到着。ここでマイクとはお別れだ。荷物の見張り番としてリビングストンから同行してきたマイクは、英語⇔ザンビア語(と一口に言っても種々の言葉がある)の通訳としても大活躍。本職は大工さん。この日はもうバスが無いので、1泊して明日ルサカへ帰る。ありがとう。お疲れさま。

驚いたことには、ほとんどの乗客がナコンデで降りてしまった。国際列車だが、利用者は国内移動だけが目的だったのか。それにしては、国境の町へ来る意図は何なのか。商売の機会は多いだろうけど。だとしたら列車を降りて道路で国境を超えるのか。だけど「ダルエスサラームで中古車を買いつけて、乗って帰ってザンビアで売る」と話していたビジネスマンたちもいなくなっていたし。どういうことなのか確かめる機会もなく…というのは、私たちはナコンデの駅で警察に呼び止められてしまったから。撮影・取材に関する許可は、もちろん政府からも鉄道からも取得してあるのだが「この駅を仕切っている俺を撮るには、俺の許可が要るだろう?」というようなことで、15分ほど説教を食らっている間に列車はがらんどうになってしまった。ここで事を荒立てると、その場で撮影が終了しないとも限らないので、ひとつひとつ噛んで含めるように説明するわけだが、さすがアフリカが長いコーディネーターの山田さん、巧みさに感心させられた。

さて、国境を挟んでタンザニアの最初の駅はトゥンドゥマ。タンザニアのコーディネーター、アレックス&森田さんと合流する。トゥンドゥマは国境の町らしく、がさがさとした雰囲気だが活気がある。“お互いどうせ流れ者同士”の感覚がもたらす、ある種の都会的な気さくさか。
この停車は長い。入国手続きのため、というわけでもないようだ…列車で国境を越える乗客は少ないし。比較的順調なペースで走ってきたタンザン鉄道だが、いきなり大きく遅れることになる。乗り込んでくる乗客も少なく、寂しい出発。車内ではナコンデからずっと掃除が続けられている。
国境を越えても、何が変るわけでもないと思っていたのだが、そうでもなかった。ザンビアは基本的に風景は平坦で同じようなブッシュが続いていたが、タンザニアに入ると起伏のある地形に変わり、畑が多く、鋤や鍬を振るう人の姿を度々目にする。人々の装いを見ると、こちらの方が一回り経済的に豊かな印象を受ける。
 
ディレクター 中村博郎
タンザニア最初の駅 トゥンドゥマ
トゥンドゥマの街には沢山の人が行き交う
タンザニアの車窓に見える畑と山
撮影日記8

列車はムベヤに到着。カピリ・ムポシ駅と似た大きな建物。ダルエスサラームを除けば、ここが沿線でもっとも大きな町なのだが、意外とこじんまりとした雰囲気だ。特に個性というものも感じられない。何でも80年ほど前に、この近くで金が発見されたことから誕生した町だということだ。標高が高いので、うっかり走るとちょっと息切れする。
ムベヤに限らず、これまで大体どこの町に行っても印象に大きな差はなかった。建築はほとんどがブロックとコンクリート製のぱっとしない小さな四角いビルや店舗、町外れに行けば土やレンガの壁の小さな家屋。道路は一部のメインストリートを除いて舗装されておらず、走っている車は殆どが20年ほど前の日本車。人々も、かつてはそれぞれの部族ごとに装束や髪型が違ったのかもしれないが、今はそんなこともない。男なら、Tシャツにズボンというのが普通の出で立ちだ。そして、どの町へ行っても、大々的に広告されているのは携帯電話。至るところにSIMカードを売るスタンドがある。インターネットカフェも何軒かあるみたいだし、まあそういう面では世界規模で、ある種の共通化が進んでいるような気もする。
電化製品の店も多いが、問題は多分電気そのもの。電気がなければテレビも冷蔵庫も存在している意味がない。携帯電話の充電はどうしているのかという疑問が湧くが、多分外出先などで少額のお金を渡してチャージさせてもらうのかな。タンザン鉄道のバーにはコンセントがあって、バーテンはそれで内職をしているようだった。

ムベヤ近郊には、見どころが多い。例えばムボジ隕石。かなり大きなもので、今は石の台座の上に鎮座している。そして、温泉。これは、細々とお湯が沸き出しているだけだったが、日によっては、もっと湯量が多いのだそうだ。キトゥロ国立公園もある。標高3千メートル近い高原で、高山植物が咲き乱れる様はこの上なく美しい。だが、花が咲くのは雨季なので、道はぬかるんで移動は大変。ま、何もかも都合よくはいかないものだ。驚いたのはキトゥロの園長のリッチなこと。ノースフェースの高価な上下に身を包み、デスクの上には最新型のスマートフォンが2台。外に停めてあったピカピカの4WDも彼のものなのだろう。アフリカ=貧乏ではないんだな。
そういえば私たちは何処へ行くにもトレッキングブーツなどだが、コーディネーターの森田さんは、サンダルでスタスタと気軽に踏破していく。さすがアフリカン化が進んでいると心の中で舌を巻いた。
 
ディレクター 中村博郎
こちらがムボジ隕石
湯量が少ないながらも湧いている温泉
ムベヤ近郊の山からの景色
撮影日記9

タンザン鉄道で何と言っても楽しみなのは、終点ダルエスサラームの数時間前に通るセルー野生動物保護区!イェイ!とは言いつつ、ここは心配の種でもある。動物モノというのは…動物番組をやったことがある人なら全員が同意してくれると思うが、アブナイ。加えて、列車は動物保護区の端っこを掠めるように走るだけで、そう都合よく動物が線路の近くにいるとは限らないし。車窓に、ただの疎林が虚しく流れる映像を見ながら「ここは、タンザニアでも屈指の野生動物の宝庫です」などと石丸さんに語ってもらうのでは気マズすぎる。そうでなくても今回の撮影は危なっかしいことだらけだが。天気は当たり前だけど、列車のダイヤ、鉄道での入出国、治安、充電、健康、航空機と不安要素のリストは長い。

さて「セルー野生動物保護区」と訳しているが、英語名はSelous Game Reserve。Gameとは“狩猟の獲物になる動物”の意味(日本だったらイノシシ、クマ、キジなんかが該当するのかしら)。事実セルーには《動物を愛おしく観察するためのエリア》の他に《動物をハンティングするためのエリア》も設定されている。狩る動物の種類と頭数に応じた金額を何十万、何百万円とか払って、猟銃でズドンとやるわけだ。もちろん費用はそれ以外に、車やガイド、撃った動物を処理(多分剥製にするとか)する人員も必要だから、本当にお金持ちのための(悪趣味な)遊技と言える。そうした理由があってか、ここの動物たちはかなり警戒心が強い。セレンゲティやンゴロンゴロに比べて、近寄らせてくれない。
セルーに来る観光客は、一般的にはダルエスサラームから飛行機で乗り入れる。少し大型のセスナで40分くらい。タンザン鉄道で来る人もいる。ダルエスサラームから約4時間半のキサキ駅で降りると、最寄りのロッジまで車で15分程度。
園内の観光には普通、ロッジの車でガイドやレンジャーと同行することになるが、この車が庇だけの仕様となっていたりする。もちろん眺望はよいし開放感もあって気持ちよいのだが、如何せん今は雨季。雹が降ることもある。そうなると全員ズブ濡れ。でもそれすらも楽しい旅の一部になるだろう。

結局、車窓の動物についての心配は杞憂に過ぎず、ゾウ、キリン、インパラ、シマウマ、ヌーなどが姿を見せてくれた。よかった。

 
ディレクター 中村博郎
車窓から見えたゾウ
保護区内では様々な動物と遭遇
動物を待ち構える撮影クルー
撮影日記10

ダルエスサラームは蒸し暑くベタっとした空気がまとわりつく、リビングストン以来の不快指数。でも、さすがは都会。ビルが建ち並び人も車も多い。渋滞するので移動に時間がかかる。嬉しいのは食べ物で、和食・中華・韓国料理に久方ぶりにありつく。ホテルの朝食ではカマンベールチーズを発見したり、パンケーキをその場で焼いてくれたり。街角食堂の地元料理さえもひと味違う美味さ。つまらないことのようだが、旅先で日々肉体労働に従事する我々にとって食べ物は心身の支えなので生き返る心地。

ここから先はタンザニア鉄道。タンザン鉄道は中国が協力しているが、タンザニア鉄道は植民地時代のドイツが建設し、現在はインドの協力で運営。タンザン鉄道も日本だったら間違いなく苦情の殺到する状態の運行だったが、タンザニア鉄道はさらに数段劣化が進んでいる印象だ。まず、やっぱり遅延。朝7時の到着予定が午後1時に。それに伴って、午後5時の出発が10時に遅れるという。でも1時には着いているんだから5時に出られるのでは?という考え方はここには存在しないらしい。

乗車してみると、中はかなりひどい状態だ。座席のビニールは裂けているし、蛍光灯が2本だったらしい室内灯は薄暗い電球1灯に変っている上、夜中になると消えてしまった。扇風機はただの飾りもの。どうして保守とか修理とか改良ということがこうも不得手なのか。教育なのか文化なのか。ただの貧乏ではないという気がする。このような感想を持ったのは私ばかりではない。例えば他ならぬポール・セルー氏。彼はムワンザ〜ダルエスサラーム〜ムベヤという区間を我々とは逆向きに、2001年頃乗車している。Dark Star Safariというカイロからケープタウンまでアフリカを縦断する旅行記の12・13章。彼の目線は相変わらず鋭く辛辣で正直、ものすごく面白い本だ。中でセローは、自分が60年代にアフリカで英語の教師をしていた頃と比べてちっとも“良く”なっていないことを指摘している。世界の様々な国や団体から多額の援助が何十年も続けられているのに、それって何かがおかしいのではないか。偶然なのだが、ザンビア出身のモヨというエコノミストが最近出した本もこの点を問題にしているらしい。なんてまあ、ちょっと列車に乗っただけで何か判ったつもりはもちろんないけど。アルーシャからンゴロンゴロに向う道路なんかはすごくキレイになったそうだし。

ディレクター 中村博郎
都会的なダルエスサラームの街並み
出発を待つ間に夜が更けていく
タンザニア鉄道内での食事
撮影日記11

首都ドドマに到着。タンザニアでドドマと云えば名物(?)ドドマワインの里だと思い込んでいたのだが、既にブドウ園も醸造所もドドマにはないのだそうだ。
「未完の首都」ドドマへの遷都は、タンザニアの国父ニエレレ初代大統領の置き土産。ウジャマー(「家族愛」というような意味)と呼ばれる社会主義政策を推し進め、国民の平等、経済的自立、教育の充実などを目指し、農地や企業の国営化を行ったニエレレ大統領だが、経済的には成功したとは言えずタンザニアは貧しい。一人当たりGDPは世界204位と最も下の部類。でも、周辺国の多くが部族間の殺戮や、内戦、独裁者の恐怖政治に見舞われるなか、タンザニアは120とも言われる数の部族を抱えながらも比較的平和だった。経済も最近進んでいる民営化の影響なのか活気が出てきているように感じる。

ダルエスサラームからは本当に辛かった。ものすごく暑いのだが「夜間は窓を閉めておけ」と口酸っぱい指導がある。今は帰省シーズンなので列車の利用客が多く、それ目当ての強盗が頻発するらしい。停車中に列車の屋根によじ登り、頃合いを見て窓から飛び込んでくるのだそうだ。かなり命がけのアクロバットという感じで撮影したいくらいだが、ここは我が身の安全を優先する。窓を閉めると言っても留め金は壊れているので、つっかえ棒して閉めるわけだが、密閉されたコンパートメントの暑さは尋常ではない。汗が滝のように流れ眠るどころではない。あちこちを小さなゴキブリが這い回っている。気分が悪いので時々叩いてみたりするが、すぐにまた別なのがチョロチョロなのでキリがない。隣のコンパートメントでは、ゴキブリどころかネズミまで出て、アレックスが乗車前に買い込んだマンゴーを囓られてしまった。

夜中にトイレに行こうとすると、真っ暗な通路を通って暗闇のトイレに向うことになるが、懐中電灯の光に浮び上がるのは通路で寝ている人々。1等の車両であろうが関係なく人々が乗り込んできて乗車口付近に陣取るのだ。どうやら発車直前までホームで待機し、動き出すギリギリに飛び乗るのがコツらしい。タダ乗りなのか3等の切符があるのか、或いは車掌などに幾らか握らせるのかは不明。とにかく人間と巨大な荷物の間を踏み分けながらトイレに向う。日本と違って避けてくれるというようなことはない。もちろん激混み3等車の昇降口付近もこうした人々に占領され、後から乗ってくる人をブロックしているようでもある。まあ、日々が早い者勝ちの生存競争なのだろう。

ディレクター 中村博郎
ドドマのニエレレ大統領像
ダルエスサラーム近郊を走るタンザニア鉄道
満席の車内
撮影日記12

珍しくテレビのあるレストランで食事をしていて、面白そうな番組をやっているもののスワヒリ語なのでまったく理解できず悔しい。隣のテーブルなんて転げそうな勢いで笑っているのに…。デイヴ・シャペルを連想する感じで、タンザニアでもさすがテレビ番組は現代的。ところが続いてニュースが始まったところで、笑っているどころではなくなった。我々が乗る予定だったタンザニア航空という国営会社が運行を停止してしまった。
何でも安全上の問題によって当局から運行停止を命じられたのだという。ムワンザで足止めを食ってはたまらない。他の航空会社の便に切り替えようとするが、当然他の乗客たちも同じことを考えるわけで、結局早い時間の飛行機しか取れず。ムワンザの取材はあまりできないまま。それでも何とか乗れたのはアレックスと野田さんの頑張りのおかげ。感謝。
と、そんなこともありつつ最終目的地キゴマに到着。目の前は大地溝帯の湖タンガニーカ湖。タンザニアを横断して西の端まで。ダルエスサラーム出発の時には網棚から幾つもぶら下がっていた食パンの塊(2泊3日道中の食料)も、いつの間にか食べ尽くされていた。キゴマの駅舎はドイツが建てたもの。なかなか風情のある建物だ。ドイツが遺した建築は、他にバガモヨの旧植民地総督府や税関など、何れもアラブ風なデザイン。そしてどれもが百年も前に建てられたまま、朽ちるに任せられている感じで物悲しい。世界遺産の候補にもなっているのに…。

キゴマからゴンベ国立公園へ。北に16km。その昔、まだ“ナショナル ジオグラフィック”に特別な響きを感じていたころ、グドール博士とチンパンジーのドキュメンタリーに胸ときめかせたものだった。でも、その森は人間によってどんどんと狭められ、52平方キロメートル の小さな国立公園におよそ100匹のチンパンジーが閉じ込められたような状態だ。案内してくれたレンジャーによれば、チンパンジーは3つのグループに分かれているのだそうで、グループ間の抗争などもあるという。それにしても、野生動物だからそう簡単に会えるとは思っていなかったが、ここまで大変だとは…。雨降られながらぬかるんだ急斜面を、チンパンジーの吠え声を頼りに歩き回ること5時間。何度も転んで全身泥まみれ。両手で蔦を握りしめて必死に体を支える。体の節々が痛い。でも苦労は報われて、短い間だったがチンパンジーの姿を目にすることができた。終わりよければ全てよし、かな。

ディレクター 中村博郎
列車の中で出会った少年
タンザニア鉄道 最後に辿り着いたキゴマ駅
悪天候の中姿を見せてくれたチンパンジー
ページの先頭へ
過去の撮影日記
台湾編撮影日記
台湾編の撮影日記が、李ディレクターから届きました!
スペイン編撮影日記
スペイン編の撮影日記が、立川ディレクターから届きました!