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特別企画 『本当の がばいばあちゃん』
今月の文庫本売り上げランキングでは、心温まるシリーズ本がベスト10内に3冊もランク入りしています。その本とは「佐賀のがばいばあちゃん」。「がばい」とは、佐賀弁で「すごい」という意味です。シリーズ4作で、なんと累計300万部を突破!いまや日本中に“がばい旋風”が吹き荒れているのです。原作本の著者は、1970年代に沸き起こった漫才ブームでB&Bとして一世を風靡した島田洋七さん。この本は、島田洋七こと昭広少年が、佐賀の祖母と暮らした8年間を描いた自伝小説なのです。貧乏でしたが刺激に満ちた8年間に、少年・昭広は、そのすごいおばあちゃんから言葉の数々を贈られました。そして、そのどれもが、かけがえのない教訓として、洋七さんの今に生きているのです。というわけで今夜は、心に響く、がばいばあちゃんの数々の言葉を厳選。ドラマでも描かれなかった、がばいばあちゃんの真の姿に迫ります!

がばいばあちゃん、本名・徳永サノさんは、1900年、明治33年に佐賀・鍋島藩にて裕福な家庭の子女として生まれました。そして24歳のときに13歳年上の自転車店を営んでいたじいちゃんと結婚。じいちゃんとの間には洋七さんの母も含め、7人の子供をもうけたのです。しかし、がばいばあちゃんが42歳のとき、じいちゃんは他界してしまいました。55歳でした。突然、ばあちゃんは、女手ひとつで7人の子供を育てなくてはならなくなってしまったのです。しかも、当時の日本は第2次世界大戦の真っ只中。戦況が悪化するにつれ、日本国民の生活もどんどん貧しいものとなっていました。食べるものも少なく、空き地を耕して作った菜園でなんとか飢えをしのぐ日々。がばいばあちゃんの仕事は、学校の掃除婦でした。毎朝4時からというきつい仕事を78歳までの35年間、1日も休まず続けたのです。ぎりぎりの生活ながらも、決して笑顔を絶やさず、がばいばあちゃんは7人の子供たちを立派に育て上げたのでした。そんなばあちゃんと、幼い頃の洋七さんが一緒に住み始め、究極の貧乏生活の中で数々の前向きに生きるポジティブシンキングを教わりました。そんながばいばあちゃんの「人生に生きる数々」の言葉を、ドラマの中でも紹介されなかった言葉も含めて紹介していきましょう!



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ばあちゃんの家の横には小さな川が流れていました。そこで、がばいばあちゃんが実践していた究極の節約術とは、なんと川の水面すれすれに一本の棒をかけ、そこに引っかかるいろいろな野菜を拾って食べていたのです。実はこの川の上流に市場があり、売り物にならない形の悪い野菜を川に捨てていたのです。

ばあちゃん
「2又の大根も切って煮込めば一緒。曲がったキュウリも刻んで塩で揉んだら同じこと。夏にはトマトが冷えて流れてくる。川は、自然のスーパーマーケットや!」
洋七さん
「棒に何もかかってないと『今日はスーパー休みか』って。配達もしてくれるし、勘定も払わなくてもいい。ただひとつの欠点はその日に食べたいものが手に入らない・・・」



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自然のスーパーマーケットにはいろんなものが引っかかりました。ある時は真新しい下駄が流れてきました。片方だけあっても仕方がないので、昭広少年が捨てようとすると・・・

ばあちゃん
「もう2〜3日待ちんしゃい。もう片方も流れてくるよ。」


そして3日後、なんと、ばあちゃんの言ったとおりにもう片方が流れてきたのです。ばあちゃんは得意げな顔でこう言いました。

ばあちゃん
「片方をなくしてしまったら、しばらくは諦めきれないだろうけど、2〜3日経ったら、諦めてもう片方も捨てる。うちの前で一足が揃うようになってると。拾うもんはあっても、捨てるものはないと!」



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ある日、学校で昭広少年に、思いも寄らぬ出来事が起きました。偶然、同級生が自分の悪口を言ってるところを聞いてしまったのです。ショックを受けた昭広少年は、家に帰るとそのことをばあちゃんに相談しました。すると、ばあちゃんは涼しい顔でこう言い放ったのです。

ばあちゃん 「気にせんでよか。2〜3人に嫌われても、反対向けば1億人おるから」


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貧乏なばあちゃんの家では、毎日の晩ごはんは代わり映えのしないものでした。安くて栄養価もあるということで、もっとも多かったおかずは、イワシ。イワシには飽き飽きしていた昭広少年は、「たまにはタイやマグロを食べてみたいなぁ」とつぶやきました。すると、ばあちゃんはこうたしなめたのです。

ばあちゃん
「イワシを食べているからって貧乏じゃない!昔の人がイワシを見て、タイと名づけていたら、タイはイワシばい!」



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また、がばいばあちゃんは料理に金をかけないことでも天才的でした。

昭広少年「ばあちゃん、これ何?」
ばあちゃん「卵かけご飯の卵抜きや」


不満そうな昭広少年に、ばあちゃんは…

ばあちゃん
「昭広、高いものは美味いから高いと違う。品数が少ないから高いんや。その時、一番食べたいものが、一番の高級品」



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夏祭りに金魚すくいで、金魚を持って帰ったときの事。金魚を入れるための水槽をねだった昭広少年のためにがばいばあちゃんが用意したのは、どんぶりでした。「あ〜あ、なんでうちにはこんなにお金がないんだろ?」と、愚痴をこぼした昭広少年に向かって、ばあちゃんはこう言いました。

ばあちゃん
「金、金というんじゃなか!1億円あったって、金魚一匹、作れんばい!」



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毎日、朝から夜まで働きっぱなしのばあちゃんを気遣い、昭広少年はこんなことを言ったことがありました。「ばあちゃん、うちは貧乏だけど、いつか金持ちになったらいいね!」。しかし、がばいばあちゃんの答えは意外なものでした。

ばあちゃん
「なに言うとるの?貧乏には2通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか!それも最近貧乏になったのと違うから心配せんでもよか。自信を持ちなさい。うちは先祖代々貧乏だから」



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毎年、運動会になると、昭広少年は、ひとり教室で弁当を食べていました。それは、ばあちゃんの作ったご飯と梅干だけのお弁当が恥ずかしかったからです。そこに担任の先生が来て、昭広少年にこう切り出しました。「先生ちょっとお腹壊してな。お前の弁当と交換してくれんか?」。昭広少年の弁当には梅干しが入っているため、お腹に優しいというのです。昭広少年は、先生の弁当を見て驚きました。そこには今まで見たこともないようなごちそうが入っていたのです。しかし、「なぜ毎年、運動会の日に限って先生は腹が痛くなるのだろう?」。不思議に思った昭弘少年は、そのことをばあちゃんに話しました。すると、ばあちゃんは初めて涙ぐんだ表情を見せ…。

ばあちゃん
「それは先生がわざとしてくれたとよ。昭広のために弁当持ってきたって言ったら、お前もばあちゃんも気ぃ使うやろ?人に気づかれないでするのが、本当の優しさ」



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昭広少年が好きだった女の子が、何も言わず急に転校してしまったことがありました。そのことをばあちゃんに話すと、ばあちゃんは…。

ばあちゃん
「悲しい話は夜するな。つらい話も昼にすれば、何ということもない」



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中学に上がった昭広少年にとって、試験勉強は最も苦痛な時間でした。「苦手な英語はどうすればいいか?」と聞かれたばあちゃんはこう切り返しました。

ばあちゃん「じゃあ、答案用紙に『私は日本人です』って書いとけ!」
昭広少年「でも、ばあちゃん。俺、漢字も苦手で・・・」
ばあちゃん「『僕はひらがなとカタカナで生きてます』って書いとけ!」
昭広少年「ばあちゃん、俺、歴史も嫌いでな・・・」
ばあちゃん「答案用紙に『過去にはこだわりません』って書いとけ!」


最後にばあちゃんはこう締めくくりました。

ばあちゃん
「頭がいい人も、頭が悪い人も、金持ちも貧乏も、50年経てば、みんな50歳になる」



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勉強が苦手だった昭広少年の通信簿は、得意の体育が5という以外は1と2ばかりでした。申しわけなさそうに、通信簿をばあちゃんに見せると…。

ばあちゃん「大丈夫、大丈夫。足したら5になる。人生は総合力!」


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野球が得意だった昭広少年は、甲子園常連の広島・広陵高校へ推薦で行けることが決まりました。野球選手になるのが夢だった昭広少年にとってこれ以上ない話でしたが、唯一の気がかりはばあちゃんのことでした。ばあちゃんのために、地元の佐賀商業への進学も考えていた昭広少年を、ばあちゃんはこう諭しました。

ばあちゃん
「昭広。広島へ帰りんしゃい。人間は死ぬまで夢を持て!その夢が叶わなくても、所詮、夢だから・・・」


そしてついに、広島の高校に行くことを決めた昭広少年に、がばいばあちゃんとの別れの時がやってきます。その後、昭広少年は広島の高校に進学し、プロ野球選手を目指すも、怪我で断念。しかし、お笑いという新たな夢を見つけ、ついに頂点をつかみました。人生の岐路に立たされた時、いつも心の支えとなったのが、がばいばあちゃんの言葉でした。


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