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SmaSTATOIN特別企画『世界の黒澤 第3弾 完結編』映画と共に・・・
スマステーションではこれまで二度にわたり、黒澤明監督の映画に対する凄まじいまでのこだわりの数々を紹介してきました。1985年、「TIME」誌は「The Magic of Kurosawa」のタイトルで黒澤を大特集。その中で、「マッドマックス」のジョージ・ミラー監督も「直接的にしろ間接的にしろ、どんな監督も黒澤の影響を受けている」と語っていました。しかし、世界中の映画人の憧れとなった黒澤にも、実は様々な試練、苦悩があったことをご存知でしょうか。黒澤組関係者に取材を敢行し、黒澤の映画に対する情熱と人間黒澤明に迫る完結編です。
日本映画の衰退と三船敏郎との決別
「羅生門」でベネチア国際映画祭グランプリを受賞した黒澤は、1954年、日本映画最大のヒット作となった「七人の侍」以降ほぼ1年に1本のペースで次々と映画を作り上げていきました。1957年公開、シェイクスピアのマクベスを原作とした「蜘蛛巣城」は、能の要素を取り入れた作品で、イギリス国立映画劇場のこけら落としで招待上映。1958年には、ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」に多大な影響を与えた「隠し砦の三悪人」が公開。この年のベルリン国際映画祭にて、銀熊賞、監督賞を受賞しました。こうした話題もあって、1958年は年間の映画館入場者数が史上最高11億3000万人を記録。日本映画は絶頂期を迎えたのです。
1960年には汚職と復讐をテーマにした異色作「悪い奴ほどよく眠る」を製作。国家権力の闇を鋭く追及し、多くの批評家達に絶賛されました。そして翌61年 黒澤監督と三船敏郎が生み出した最高のキャラクターとも言われる三十郎が登場した「用心棒」が公開。斬新な娯楽時代劇として日本でも大ヒットとなり、ベネチア国際映画祭では三船敏郎が主演男優賞を受賞しました。1962年にはその続編となる「椿三十郎」が公開。メインとなる椿屋敷は実物の木に2万個の造花を10日がかりで結び、重量感ある映像を誕生させました。本読み・リハーサルの段階から衣装を着、本身…つまり本物の日本刀を腰に差していたというエピソードは前回紹介しましたが、黒澤のこだわり振りはそれだけではありませんでした。なんと、台詞の録音・アフレコの時にも、役者には衣装と刀を身に付けさせていたというのです。「椿三十郎」を語る上で決してはずせないのが、ラストの決闘シーン。台本には「筆ではとても書けない」と書かれていました。仲代さん演じる室戸の胸から噴きあがる血しぶきに、当時の映画館は水を打ったように静まり返ったといいます。そして1963年、この年の興行収入でNo1を記録した「天国と地獄」が公開。前回お伝えした、急行列車を丸ごと一台借り切っての撮影、民家の屋根を撮影のためだけに破壊、壁を全部鏡張りにすることでエキストラの数を倍に見せるなどなど、随所に黒澤監督のこだわりが溢れている作品です。
黒澤自身、自らの集大成と語った作品が1965年公開「赤ひげ」。赤いあごひげを荒々しく生やした街医者が見せる人間味あふれる感動巨編です。セットの診療所の隅々にまでこだわったこの作品は、光と影の協奏曲とまでうたわれました。築百年の家からわざわざ柱だけをもってきて古びた感じを出し、重々しいタッチを出すために、スタッフ総出で1週間かけて磨きあげました。更に、たった20秒の雪のシーンに使用したのは麩3000本と発泡スチロール250キロにものぼったそうです。見事なひげを蓄えた三船は、モノクロ映画にもかかわらずリアリティーを出すためにわざわざ伸ばしたひげを脱色し、赤く染め上げたそうです。ここまで黒澤をこだわらせたのは、当時の日本映画界の衰退が影響していたと言われています。最盛期に比べ、この年映画館に足を運んだ人は3割にまで減少し、日本映画の危機がささやかれていたのです。黒澤自身、撮影前にこう語っていました。

「日本映画の危機が叫ばれているが、それを救うものは 映画を創る人々の情熱と誠意以外にはない・・・。」

こうして2年の歳月をかけて撮り上げた「赤ひげ」は興行的にも成功し、モスクワ映画祭映画労働組合賞など数々の賞も受賞しました。しかし、この成功は黒澤に、図らずもある転機を呼び込むこととなりました。主演の三船は、「用心棒」に続き2度目のベネチア映画祭最優秀男優賞を獲得。それにより海外からの出演依頼も殺到し、「グラン・プリ」「太平洋の地獄」とハリウッドへ進出したのです。「酔いどれ天使」以降15作品も続いていた黒澤・三船コンビも、三船の独り立ちによって終焉を迎えることになってしまったのです。三船はその後、アラン・ドロンやチャールズ・ブロンソンと共演した「レッド・サン」などで世界の三船としての確固たる地位を獲得。また独立プロ・三船プロダクションを設立し、石原裕次郎、勝新太郎らと「待ち伏せ」などを制作。黒澤の次の世代を担うべく日本映画に貢献しようと身を粉にしましたが、社員の不祥事により多額の負債を抱えるなど、徐々に勢いを失っていくのです。
「赤ひげ」の成功は改めて世界のクロサワを印象付けましたが、本人はその試写会後こう語っていたといいます。「赤ひげなんて『ベンハー』のワンカットにも及ばないよ」。当時のハリウッド映画の代表作チャールトン・へストン主演の「ベンハー」は、製作費54億円(1500万ドル)、現在の価値にして540億円という巨額を投じ古代ローマを見事に再現。全世界で8000万ドルという興行収入をあげハリウッドの力を存分に見せ付けた映画でした。黒澤はこの映画を見て、日本での映画制作の限界を強く感じたといいます。テレビの普及により映画は斜陽の時代に突入し、いい脚本が出来上がっても、予算を調達することが困難な時代となっていました。
ハリウッド進出失敗の原因は…
そんな中、1966年、ハリウッドから黒澤演出による日米合作映画の依頼が舞い込みました。日本映画の行く末を危惧していた黒澤は、即座にこの依頼を受け、脚本の執筆に取り掛かったのです。その矢先、黒澤の元にハリウッドから1人の脚本家が送りこまれ、黒澤が書き上げた原稿に注文を付け始めたのです。当時からハリウッドでは、脚本家と監督は別の人がやることが常識であり、それぞれがプロデューサーの意思に基づいて担当する分業制が確立されていたのです。ハリウッド側からすれば当然の行動も、完全主義者の黒澤にとって、自分の構想が100%反映されない脚本を監督することなど考えられないことでした。結局双方の意見がまとまらず、黒澤はこの監督を降りてしまったのです。
しかし翌1967年、再びハリウッドから誘いの声がかかります。「史上最大の作戦」などの超大作を作り上げていた20世紀FOXからの依頼は真珠湾攻撃を日米の両側から描くというもので、その総監督として黒澤に白羽の矢が立ったのです。総製作費は現在の価値にして900億円。2年の準備期間を経て、一隻25億円もする空母や戦艦が発注され、1968年12月、超大作『トラトラトラ』の撮影は東映京都撮影所でクランクインしました。意気揚々と作品作りにのめり込んでいく黒澤でしたが、ここでも屈辱を味わうことになりました。東京世田谷の東宝撮影所で育ち、いわゆる「黒澤組」と呼ばれるスタッフの中で完全主義を貫いてきた黒澤。しかしこの作品では、撮影・録音・美術デザイナー・チーフ助監督以外は全て東映京都のスタッフ。当然撮影方法も違ったのです。

大澤豊 助監督
「やっぱり京都っていうのは、古い活動屋さんがたくさんいましたからね、巨匠といわれる人たちとやってきてますから、『黒澤明がなんだ』『何が天皇だ』と、なんかそういう反発みたいなものはあったって雰囲気がありましたね。『あんまりいばりくさってると、危ない目にあいますよ』っていう。だから例えば、照明部さんが、2階からパッと落として、『あ、すいまへん!』みたいなこともね。もちろん実際に当たるようなことはありませんけれど、黒澤さんは非常に神経質になって、『おれはこれから全部ヘルメットを被る』なんてね。トイレ行くのでも、自分の部屋に行くのでも全部ガードマンつけろって言って、両脇にガードマンを従えて移動してましたね。」

更に、完全主義を貫き通す黒澤を激怒させたこんなエピソードも。連合艦隊司令長官・山本五十六役には軍人の威厳を醸し出せる、との理由で、実際の海軍経験者を起用。役者経験の無いこの素人に対しても、撮影現場では最大級の敬意が払われました。だがそんな中、京都の撮影所のスタッフは、中身を読む芝居が無い「見舞い状」の中に時代劇で使った「果たし状」を入れて封筒にふくらみをつけたのです。それを開けて見た黒澤は、「何だこれは!俺はこういう神経の持ち主と映画は作れない!助監督全員殴れ!こいつら全員に正気入れなおせ!」と怒鳴り、挙句の果てに撮影所を出て行ってしまったそうです。
黒澤組では絶対に考えられない出来事…そこはまさにアウエーでした。そんな黒澤を更に悩ませたのが、またしてもハリウッドでした。撮影開始から3週間がたったある日、突如FOX側から一方的に黒澤の監督解任が発表されたのです。その理由は黒澤監督がノイローゼであるため。勿論、当の黒澤はノイローゼでも何でもなく、その根本的な理由はただただ撮影方法の違いだけだったのです。
黒澤の撮影方法はリハーサルやスタンバイに重点を置き、納得いくまでそれを繰り返します。そのため、カメラを回さないで終わることもありました。全てが整ったところで数台のカメラで一気に撮り上げるのです。しかし、ハリウッドでは、毎日どれくらい撮影したかという効率が何よりも重視されるのです。

黒澤久雄さん
「すごく縛られるんだよね。一日に何時間だけ回せとか、フィルムをどれだけ回せとか、いちいち報告を出さなきゃいけない。自分のリズムを作りにくいというか…。極端な事いうと、お酒はこれぐらいしか飲んじゃいけないとか、それぐらい色んなことがあるわけよ、契約書の中に。それが彼にとっては合わなかったんでしょうね。」

結局、黒澤の撮影方法をハリウッド側は理解する事ができず、「ノイローゼ」という偽りの理由で黒澤を降板させたのです。当時の心境を黒澤はこう漏らしています。

「3ヵ月間も熱中していた作品を取り上げられたら、映画監督は殺されたも同然だ。」

しかしこの相次いだ黒澤の監督降板を、マスコミは必要以上に攻め立てました。黒澤がハリウッド進出を夢半ばで絶たれたその間に、日本映画界も衰退の一途をたどりました。高度経済成長の余波で、人々の娯楽は、映画からテレビなど、あらゆるものへ多様化していったのです。「トラトラトラ」降板から1年。1970年 黒澤24作目となる「どですかでん」を公開。貧しくても、誇り高く生きる人々を描いたこの作品は、黒澤自身初のカラー作品であり、絵画を得意とする黒澤によって独特の色彩効果を全面に出し様々な人間像を絶妙に捕らえた作品となりました。しかしこの映画、公開されるや賛否両論で、中には「黒澤の時代は終わった・・・」などの声も囁かれたのです。その後、日本映画界から黒澤への監督依頼は来ず、「僕から映画を引いたらゼロだ」と口癖のように言うほど、どん底の状態に・・・。世界の黒澤は、生活のために、絶対にやらないと言っていたテレビドラマの脚本書きをすることもあったそうです。撮りたい映画が撮れない、資金が集まらない、日本映画の衰退を自分の責任のように書きたてられる――黒澤は果てしなく苦悩していました。

黒澤和子さん
「日本の映画界が下火の時代が長かったじゃないですが。それは大きい映画会社とか配給会社とかスタッフとか俳優さんだとか、いろんな問題がいっぱいあったんだけども、その代表みたいにすごく責められちゃうところがあるわけですよね。ものすごくナイーブな人だったし、謙虚な人だったし、プラス映画がすごく大事だったし、スタッフたちがそういうことで食べられなかったり、バラバラになっちゃったり…映画の色んな職人さんの伝統が途切れてしまうとか悲しいことがたくさんあったのね。」

追い詰められた黒澤を救ったのは…
1971年12月22日、衝撃的なニュースが舞い込みました。「映画監督 黒澤明 自殺未遂」。自宅浴室で、カミソリを使用して自殺を図ったのです。幸い傷も浅く、一命を取り留めましたが、大好きな映画が撮れない苦悩と先の見えない精神的な不安は、黒澤をそこまで追い詰めていたのです。
そんな黒澤を救ったのはソ連でした。日本では不評だった「どですかでん」がモスクワ国際映画祭の招待作品として上映され、その場で「あなたが撮るなら国を挙げて全面協力をする」というオファーが舞い込んだのです。こうして撮影が決まったのが、「デルス・ウザーラ」。自分のやり方でまた映画が撮れる――黒澤は自らの映画人生を賭けてこの製作に取り掛かりました。丸3年の歳月をかけ完成したこの作品は、自らのやり方に異を唱えたハリウッドをも納得させ、1976年のアカデミー外国語映画賞をアジア映画として初めて受賞。映画への熱い思いを取り戻した黒澤は、次々と新しい作品の構想を巡らせました。しかし、日本映画界は当時、映画を作れば赤字が当たり前と言われ、いくら黒澤でも大ヒットは難しいという理由で黒澤作品に出資する会社は一向に現れなかったのです。
そのとき黒澤に手を差し伸べたのが、当時ハリウッドでヒットメーカーとなっていた「ゴッドファーザー」のコッポラと、「スター・ウォーズ」のルーカスでした。黒澤が長年あたため、2000枚に及ぶ絵コンテを作成した「影武者」は、彼らがプロデューサーに名を連ねたことでその製作にGOサインが出たのです。「椿三十郎」から18年ぶりの時代劇スペクタクル大作となったこの作品は、49億円の興行収入を上げ、邦画の新記録を塗り替えました。そして、その年のカンヌ国際映画祭でグランプリにあたるパルムドールを受賞。その他ヨーロッパ各国でも次々と賞を受賞するなど、一気に国際的な復活を成し遂げたのです。そして、1982年のベネチア国際映画祭において、過去50年間のグランプリ作品の中から、最優秀作品を決めるという『獅子の中の獅子』に1950年公開の『羅生門』が選ばれ黒澤第二の黄金時代が到来したのです。この時、黒澤明79歳。すぐさま、次回作『乱』、そして『夢』の脚本執筆に取り掛かり、1985年には『乱』が公開、1989年には『夢』がクランクインしました。

映画人・黒澤明を支えたのはスタッフだけではありません。そこには黒澤監督2作目「一番美しく」で知り合って結婚した元女優の妻、喜代さんの存在があったことは言うまでもありません。

和子さん
「黒澤映画の半分は母が支えたというか…。うちの母が仕事以外のことは考えさせないようにしていたんです。もう本当に、全部やってもらっていた。家庭とか、親戚付き合いとかお金のこととか、考えなくていいですよ、映画だけやっていいよ、っていう、環境にしてもらっていたんです。うちの母がみんなに食べさせたお肉代が、月100万以上になって、税務署の人に『月に100万肉食う家があるか!』って言われて、『それが疑問だったらあなたうちに食べにきなさい』といったこともありました。」

そして1990年 黒澤は、62年の映画人生の中で最大の栄誉を授かりました。史上3人目となるアカデミー特別名誉賞を受賞したのです。この栄えある受賞式の壇上で、黒澤はこんなコメントを残しています。

「ぼくはまだ、映画がよく分かっていない。」

それから8年後の1998年9月6日、黒澤明は世田谷区の自宅にて88年に渡る人生を閉じました。黒澤の最後の作品となった1993年公開「まあだだよ」の中で黒澤は、主人公を通して、全ての映画人にあてたメッセージを残しています。

「本当に好きなもの、自分にとって本当に大切なものを見つけてください。見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。」

映画を誰よりも愛し、その生涯を映画に捧げた黒澤明。その思いは、世界中の映画を愛するものたちによっていまも確実に引き継がれていることでしょう。
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