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SmaSTATION-4特別企画「ニッポンが生んだ天才バスケットプレイヤー田臥勇太伝説」
2004年11月3日――ニッポン人では絶対に辿りつく事が不可能といわれたアメリカプロバスケットボール・NBAのコートに立った身長173センチの日本人・田臥勇太。彼が歩んできたバスケットボールヒストリーを完全公開!
天才少年の誕生
田臥勇太――1980年10月5日 神奈川県横浜市生まれ。お祭り好きの父親、直人さんが、太く勇ましい男になって欲しいと勇太と命名。驚くことに、勇太は生まれてわずか3ヶ月で歩き始めたそうです。子供の頃から野球・水泳など何をやってもスポーツ万能だった勇太少年。そんな彼がバスケットを始めたのは小学校2年生のとき。母親の節子さんや姉の志保さんがバスケットをやっていたのがきっかけでした。更に、勇太少年がバスケットボールに引き込まれていったのには、NBA好きの父、直人さんの影響も。父が録画していたNBAのビデオで本場のスーパープレイに夢中になった彼は、そのテープを何度も繰り返し見続けました。あまりにも熱中しすぎたため、ビデオデッキが壊れそうになったのも一度や二度ではなかったそうです。
NBAの虜になった勇太少年は、小学校のバスケット部に入部。瞬く間にチームの中心選手となり、全国大会に3度出場。早くもその才能の片鱗を見せ始めました。1993年 地元の大道中学に進学し、部活の練習はもちろん、下校後も自宅近くの公園でひとり黙々と練習に励んでいた田臥。更に、家に帰ってからもNBAのビデオをチェック…と、まさにバスケ漬けの日々を送っていました。中学3年の時には、主将としてチームを引っ張り大道中学校の男子バスケット部創設以来初めての全国大会ベスト4入りを果たします。この頃すでに「田臥勇太」という名は、地元横浜は勿論、全国に轟いていました。
運命を決定付けたCM出演
そんな中学時代、思いもかけない話が田臥のもとに舞い込みました。CM出演です。撮影場所はニューヨーク。しかも当時のNBAの大スター、パトリック・ユーイングとの競演。
この話が舞い込んだ時の田臥の様子を、中学時代のバスケ部顧問・伊藤先生は「最初はテレビというので恥ずかしがっていたのに、アメリカで、しかもユーイングと聞いて態度がころっと変わりましてね」と語っています。この撮影のためにNYを訪れた田臥は、初めてある場所にも足を運んでいます。それは・・・バスケットボールの聖地・マディソンスクエア・ガーデン。ここでNBAのプレーを初めて生で目にした田臥は、本場のプレーにいちファンとしてただただ興奮するばかりだったそうです。そして高校進学。田臥は、故郷横浜を離れ、バスケットの名門・秋田県能代工業への進学を決意します。ここは数多くの日本代表選手を輩出し、全国大会での優勝も40回以上を数えるなど、高校バスケットボール界の頂点に君臨する学校でした。超名門高校を選び、自らを厳しい環境に追い込んだ田臥でしたが、ここでも彼は常に周囲を驚愕させるプレーを見せ続け、一年生の時から勿論、レギュラーの座を確保し、時には上級生を引っ張っていきました。そして田臥率いる能代高校は前代未聞の偉業を達成することとなります。インターハイ・国体・選抜大会の3大大会を3年連続で完全制覇――高校9冠を達成したのです。能代市もこの偉業に沸きかえり、観光ポスターに田臥を起用すると、盗難事件が続出。いまでは実に2万円の値が付いているといいます。
留学を決意した理由とは…
そんな彼は高校3年生の時、日本男子バスケットボール史上、初となる快挙を成し遂げます。それは、高校生での日本代表入り。抜群の運動能力と変幻自在のパスセンスに目をつけた当時の日本代表・小浜監督が田臥を招集したのです。そんな田臥のもとには、国内の大学から数多くのオファーが寄せられていました。しかし彼はそれらを全て断り、本場アメリカへの留学を決意します。そして田臥が進学を決めたのが、ハワイオアフ島北部にあるブリンガムヤング大学。決して名門とは言えないこの大学を選んだ理由は英語。当時からNBA入りを目指していた田臥は、まずは英語力を身に付けることが大切と考え、英語の授業プログラムがしっかりしているこの大学を選んだのです。勿論、バスケット部に入部しましたが、中々バスケットの練習に参加できない日々が続きました。実はNCAA、全米学校体育協会では留学生の場合、英語である程度の成績を残さなければ正式な部員として認められなかったのです。必死に英語の勉強に明け暮れ、バスケットが出来ないフラストレーションをウエイトトレーニングで発散。体格で勝る相手に負けない体力をつけようと連日ジムで汗を流したそうです。
こうして基礎体力と共に徐々に英語力を身に付けていった田臥。しかし、鍛えすぎた背筋に腹筋がついていけず、腰を痛めヘルニアになってしまった彼は、結局ハワイでの2年間は、ほとんどバスケットをプレーせずに過ごすこととなりました。3年目にようやく練習にも参加、レギュラーとして試合に出るもチームのレベル、コーチの方針に満足ができず・・・。また、もっとバスケット漬けの日々を過ごしたいとの思いから、田臥は退学、そして帰国という道を選択することとなりました。
アメリカへ
帰国後、田臥はJBLの強豪トヨタ自動車に入団。日本ではあるがプロとしての第一歩を歩み始めました。入団後すぐに抜きん出た活躍を見せた彼は、全試合出場・通算113得点・63アシストを記録し、その年の新人賞を獲得。オールスターにもファン投票1位で選出されました。しかし、そのシーズンオフ、単身アメリカへと渡り、NBAのゲームを観戦した田臥は、改めて、自らの目指すべき場所を認識しました。そこで、わずか1年でトヨタを退団。2003年7月、単身アメリカへと渡ります。それは、何の保証も無いゼロからの出発でした。
ハワイで世話になった大学のコーチをつてに、NBAダラス・マーヴェリックスのサマーリーグに参加した田臥は、NBA選手と初めての練習をしました。そこでの田臥のセンスに目をつけたのが、「デンバーナゲッツ」。田臥を最終選考もかねたキャンプに呼んだのです。
本場のスピード感が自分のプレースタイルにマッチし、田臥は練習から存分に実力を発揮。チームメイトからも仲間として受け入れられ、彼のクセ毛から「リトルパーマ」というニックネームで呼ばれるようになりました。
初めての挫折と再挑戦
NBA入りを目指し、デンバーナゲッツの練習に参加していた田臥。チームの信頼も得、日本のマスコミも日本人初NBAプレイヤー誕生かと書きたてました。しかし、開幕登録メンバー12人の中に田臥の名前は無かったのです。その理由をナゲッツのバンダウェイ・ゼネラルマネジャーはこう語っています。「勇太を失うようなことは嫌だったが、選手数の関係上仕方なかった。彼のようなプレースタイルが大好きだし、方法があれば残したかった」と。NBA入りを目前にしての解雇…。このニュースに公式HPには、日本のファンからの書き込みが殺到しました。一度目のチャレンジに失敗した田臥でしたが、本場のバスケットを体感するためアメリカに残り、ABA/アメリカ独立リーグのロングビーチ・ジャムと契約を果たします。しかし、そこは待遇の面で、NBAとはかけ離れた世界でした。移動に関して、NBAは専用ジェットなのに対し、独立リーグの場合、陸路で行ける所は全てバス。数十時間バスに揺られて、すぐに試合という強行日程。更に決まった練習場もなく、公共の体育館が主な練習場でした。しかし、周りはNBAを目指すチームメイトも多く、彼らと共に練習をし、試合をすることが田臥にも大きな刺激となったそうです。
日本人初のNBAプレーヤーへ
そして翌シーズン、再び田臥のチャレンジが始まりました。2004年7月、フェニックス・サンズのサマーリーグに参加したのです。そして、2ヵ月のキャンプの後、田臥は見事開幕ロースター12人の中に入り、晴れてNBAプレーヤーとなったのです。日本人初のNBAプレーヤーの誕生――この快挙は全米のメディアでも取り上げられました。
そして2004年11月3日開幕戦。第4クオーター 残り10分のところでついに田臥がコートに立ちました。夢にまで見たNBAデビューを、彼は7得点という最高の記録で終えたのです。
しかし・・・・その後4試合に出場するものの、開幕から1ヵ月で突然の解雇。実はこのとき、チームは開幕から連勝を重ね、田臥と同じポジション、ガードのスティーブ・ナッシュ選手が大活躍。チームはほかのポジションの補強をするため、田臥を解雇することにしたのです。サンズのコランジェロGMも解雇の理由をこう語っています。「より多くの出場機会を得るためと、ユウタの成長を考えてのこと。選手として終りを意味するものではないし、これからも成長をチェックし続ける」。
その後、田臥は前年所属した独立リーグ、ロングビーチ・ジャムに再び入団。ここで目覚しい活躍を見せ、優勝争いの原動力となりました。日本人には未知なる領域だったNBA。その道を、日本人として初めて切り開いた田臥勇太。すべての歴史は、パイオニアの存在があって初めてスタートするのです。再びNBAのコートに立つことを目指し、現在も挑戦を続けている田臥。彼にとってNBAはもはや夢でも何でもないのです。頑張れ田臥!頑張れジャパニーズ!!
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