メルケル先生
2025年06月01日

 「愚かな質問かもしれませんが」と、僕はアドリブで切り出した。「あなたがもし、西ドイツで育っていたら、政治の道を歩んでいたでしょうか」。
 返事はとても柔らかだった。「いえ、愚かな質問ではありませんよ。西ドイツだったら他の職業の道を進んでいたでしょう。教師になるか、心理学を専攻していたかもしれませんね」。その口調はまさに、教え子を諭す先生のようだった。

 答えの主はアンゲラ・メルケル氏である。ドイツ連邦政府史上初の女性首相。2021年に表舞台を去るまで16年もの長きにわたり、ヨーロッパで最も頼られる首脳として存在感を放った。このほど「自由」と表題を掲げた自伝の日本語訳が出版され、東京を訪れた。わずか24時間の滞在ではあったが、多忙な日程を縫って報道ステーションの単独インタビューに応じてくれたのである。

 彼女は冷戦下の東ドイツに育った。秘密警察(シュタージ)が目を光らせ、自由な言論が許されない灰色の世界だった。そして1989年、東西ドイツを隔てた壁の崩壊とともに、彼女もまた西側へとなだれ込んだ群衆の中にいた。
「自由は私の人生全体を貫いています。子ども時代、私には自由はありませんでした」。
メルケル氏にとって、自由は当たり前の概念ではない。
 
 東ドイツでは物理学者の道を歩んだ。イデオロギーに左右されず、「2+2は4である」という真理が通用する科学の世界が信用できたからだ。だが、東西の壁が崩れ落ち、自由の波が訪れると、本来「人間が好きで、人間に対して好奇心を抱き、人と話すのが好き」というメルケル氏は、ためらうことなく政治の世界に身を投じたという。

 政治家となったメルケル氏を支えた原動力は、意見を自由に戦わせ、合意を形成することの喜びだった。明晰な頭脳と的確な判断力も相まって一気に頭角を現す。CDU(キリスト教民主同盟)党首に就くと、やがて連邦議会選挙で多数派を形成するに至り、第8代のドイツ連邦首相に就任した。東ドイツ出身者として初のことだった。 

 自由と民主主義という価値観を共有するヨーロッパ諸国との絆は、メルケル氏にとって絶対譲れないものだった。だからこそ、EU(ヨーロッパ連合)の何かと煩雑なルールに各国の実情を調和させる努力を怠らなかった。
 そして、シリアをはじめとする難民が大量にヨーロッパに逃れてきたときには、秩序ある難民受け入れのために奔走し、自国民に対しても「Wir schaffen das (わたしたちならできる)」とのかけ声のもと、可能な限りの受け入れと共生を求め、説得に走った。

 その行動は、単に人道的な観点からだけではない。幾多の困難を乗り越えてきたドイツという国家のプライドの表れであると同時に、根底には、グローバルな問題はすぐに国内問題に直結するという強い問題意識があった。彼女は著書の中で、「私はNGOの代表でもなければ、難民支援に携わるボランティアでもない。私は政治家で、ドイツ連邦共和国の首相だ。したがって私は特殊な人道上の危機における決断以上のものが求められる」と記している。

 そんなメルケル氏でも大いに悩まされたのが、今も世界を揺さぶり続けるアメリカのトランプ、ロシアのプーチンという両大統領だった。
 インタビューでメルケル氏はトランプ氏を辛らつに批判した。「彼は不動産業者でした。彼にとっては土地が重要です。そして彼が考えていることは、自分がその土地を手に入れるか、あるいは他の人間が手に入れるかなのであって、常に勝者と敗者しかいないのです。彼はウィン・ウィンの状況を知らないのです」。

 プーチン氏への思いは、もっと複雑だ。少女時代からロシア語の成績に秀でていたメルケル氏と、旧ソ連で諜報員として東ドイツに駐在したプーチン氏、互いの母語を理解し合うふたりは、頻繁に顔を合わせ、極めて長い会話の時間を持った。しかし価値観は真逆だった。「彼にとって20世紀最悪の出来事」とは、ソビエト連邦の崩壊だという。だがメルケル氏にとっては、それこそ、自由を手に入れる最も画期的な人生の転換点だったのだから。

 メルケル氏の政治家としての歩みの中で、決して「なかったようにできない」のが、プーチン大統領にウクライナへの全面侵攻を許したことだ。プーチン氏の心の中に、旧ソ連圏のウクライナとベラルーシが独自の道を歩むことを許しがたいとする感情があったのを、彼女は見抜いていたという。ロシアに追従するベラルーシはともかく、西寄りの姿勢を示すウクライナに対しては、常に侵略の野心がうかがえた。
 だからこそ、フランスと組み、ロシア、ウクライナの両首脳を交えた4者による「ノルマンディー・フォーマット」と呼ばれる対話の枠組みを維持することに腐心した。ウクライナ東部の親ロシア派支配地域に特別な地位を与える「ミンスク合意」の成立(それがウクライナにとって決して本意ではないにせよ)にも奔走した。

 だが、ロシアはしばしば合意を破ったし、「ノルマンディー・フォーマット」の枠組みも、パンデミックによって疎遠になってしまった。結果としてプーチン氏は自らの倒錯した信念のもとに突き進んだ。メルケル氏はこう振り返る。
 「プーチンと直接話す機会がなくなり、ビデオ会議や電話だけになりました。それがプーチンに状況判断を誤らせたのです」。
 メルケル氏が首相を退き、バトンを次に渡したのは2021年12月だった。プーチン氏がウクライナの全面侵攻を開始したのはその2か月余り後のことである。もはやプーチン氏を止める存在はいなかった。メルケル氏の後にメルケル氏はいなかったのである。

 メルケル氏は著書で、前ローマ教皇フランシスコがメルケル氏に語った、「曲げて、曲げて、曲げて、けれど折れないようにすることです」という言葉を、印象的に振り返っている。それは彼女の政治信条そのものに思えた。
 世界のあらゆるところに壁が立ち現れ、人々を分断する今の世界に対し、政治に求められる姿とは何か。最後の問いに彼女は強いまなざしで答えた。
 「妥協を良しとすることです。妥協をする覚悟がなければ共存はできないのです」。そして表情を緩めてこう言った。
 「休暇に何をしたいか、どこに行きたいかと計画を立てるとき、家族みんなが違う意見を持っている。でも、ともに旅行をするなら妥協をしなければならないでしょ」。

 最後にそう言った彼女は、夏休みの前に生徒に生活の心得を説く学校の先生のようだった。なるほど、西ドイツに生まれ育っていたら、彼女はすばらしい教育者になっていたかもしれない。威厳に満ち、それでいてチャーミングなメルケル氏へのインタビューは、僕にとって忘れられない経験となった。

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(2025年6月1日)

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