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2019年11月26日

昭和天皇とバチカン…幻の終戦工作

昭和天皇とバチカン…幻の終戦工作

38年ぶりに来日したローマ・カトリック教会、フランシスコ教皇(82)は、被爆地の長崎、広島を訪れ、核兵器廃絶を訴えた。実は、74年前、そのバチカンを舞台にした終戦工作があった。1921年、昭和天皇の初めての外国訪問はヨーロッパで、その際、バチカンにも立ち寄り教皇ベネディクト15世と会見していた。この時の経験が、20年後に生きてくる。1941年、真珠湾攻撃の2カ月前、昭和天皇は側近に「戦争終結の場合の手段を、初めより充分考究し、ローマ法皇庁(バチカン)との親善関係につき、方策を樹つるの要あるべし」と指示していた。昭和天皇は、開戦前に、戦争を終わらせる道筋を考えていたのだ。フランシスコ教皇の側近で、昭和天皇とバチカンの関係を知る元上智大学副学長・オロリッシュ枢機卿は「戦争を始める時には“戦争の出口”も作らなければならない。昭和天皇も“戦争の出口”を作りたかったのではないか」と話す。ではなぜ、“戦争の出口”の舞台がバチカンだったのか。
全世界に13億人の信者を抱えるカトリック教会の総本山がバチカン。昭和天皇独白録によると「昭和天皇はローマ法皇庁(バチカン)の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なることなどを考えて(公使派遣を)要望した」という。この昭和天皇の意向を受け、1942年4月に初めてバチカンに日本大使館が置かれた。しかし、公使として着任したのはフランスの日本大使館にいた原田健参事官だった。就任した原田公使は“終戦工作のため”という昭和天皇の考えを聞かされていなかった。
バチカンを舞台に事態が動いたのは、日本の敗戦が濃厚となった1945年の初夏。アメリカの諜報部員、マーティン・キグリーが動き出した。キグリーの特別任務は、日本の降伏を実現する対話の道が開けないか、時期をみて探るというものだった。キグリーは、バチカンの外交官・ヴァニヨッツイ司教に「戦争を早期に終結できれば、どれほどためになるかをお考え下さい」と、日本への仲介を頼んだ。平和を希求するバチカンの外交官としてヴァニヨッツイ司教は、すぐさまアメリカ側の提案を日本側に伝えたが、原田公使は半信半疑だった。数日迷った末、1945年6月3日付で電報を打ち、終戦に向けた交渉を行いたいというアメリカ側の意向を東京に伝えた。しかし、東京から返事はなかった。

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