世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
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「撮影日誌1」

1日目
 東京成田からクアラルンプールまで7時間半、トランジット約7時間。
クアラルンプールからヨハネスブルグまで11時間半、トランジット4時間。
 そしてヨハネスブルクからヴィクトリア・フォールズまで2時間。ようやく到着。ジンバブエは雨期に入った所でかなり強い雨が降っている。
 まずはホテルにチェックイン。ホテルはロケにしては珍しく、由緒正しい高級ホテルのヴィクトリア・フォールズ・ホテル。元々このホテルは、この地に鉄道を敷設する時に建てられたもので、館内を歩けばいたる所から歴史の残り香が漂ってくる。
 昼食後カメラを持って滝にロケハンに行くが、撮影は不可。滝はまだちょっと雨が少ない。駅に行くと、7時発の夜行列車を待っている人々が大勢いるので撮影開始。いつものように撮影が始まった。夏休みで帰省する寄宿学校の生徒たちの一団が目に留まる。皆カメラを向けると大はしゃぎ。彼ら乗り込み、列車の出発を撮る。走り去る夜汽車から子供たちの合唱が聴こえてくる。なかなか良いシーンが撮れた。

2日目
 9時出発、滝へ。風が強く嵐のように、ウォーター・ミストが吹き上げて来て、全身ずぶ濡れになりながら撮影を始める。水が少ないとはいえ中々の迫力で大自然のパワーに圧倒される。その後、町のメインストリートを撮って昼食。午後は空撮のためヘリポートへ。滝の空撮は、ちょっと高度が高すぎて滝の凄さをなかなか表現出来なかったが、規則なのでまあしょうがない。
 撮影予定のロボスレイルの列車が3時間遅れ、しばし待機後テイクオフ。ヘリポートは雨が降り始めていたが、線路の先は降っていない。中々迫力あるカットが撮れた。

3日目
 9時ホテルを出発、向かいにある駅へ。さあ今回のメインアイテムのひとつ、世界で最も贅を尽くした列車と言われるロボスレイルの撮影だ。まず列車に乗り込み、ロイヤルスィートを撮影。16㎡の室内は列車の空間を見事に使っていて、バスタブまで装備されている。なる程、走る高級列車の名にふさわしい。
 9時30分、ホームの入り口に赤絨毯が敷かれ、チェックインが始まる。欧米からやってきた乗客は年配が多いが、中には比較的若い人もチラホラいる。ウエルカム・ドリンクのスパークリング・ワインが振る舞われた後、列車は出発。二泊三日の旅が始まった。厨房で昼食の準備、食堂車でのランチを撮影。
 夕方、展望ラウンジで、流れる風景を楽しんでいる乗客たちを撮影していると、ビデオエンジニアの鈴木君が「象が見えます!」と声をあげた。カメラマンの金沢君が大急ぎでカメラを向ける。何と列車の百メートル位先を一頭の象がのしのしと歩いている。乗客たちの視線が釘付けになる。アフリカならではの車窓だ。夜はドレスアップして晩餐を撮影。部屋に戻ると、ベッドの上にスパークリング・ワインが花びらに飾られ置かれていた。お洒落な演出に顔がゆるむ 。
 
ディレクター 狩野 喜彦
ヴィクトリア・フォールズ
ロボスレイル、駅のホームで
ウェルカム・ドリンク
「撮影日誌2」

4日目
 深夜浅い眠りの中で、列車が何度か停車していることに気付く。最初は豪華列車ゆえ、乗客たちが眠れるようにとの配慮かと思ったが、そうではないらしい。ロボスレイルは民間会社が運営する観光列車で、その国(この辺りはジンバブエ)の国鉄の線路の上を、国鉄の機関車が牽引して走る。従ってタイムテーブルは他の列車の運行状況に左右されることが多い。今日はジンバブエ国鉄のダイヤが混乱しているせいで、何度も停車を余儀なくされたようだ。
 7時26分、1時間半ほど遅れてダブカ駅に到着し、迎えに来た車に分乗しゲームドライブに出発。インパラ、ヌー、シマウマ、キリン、間近に見る動物たちの姿に、乗客たちの顔が子供のように綻ぶ。公園のロッジに到着後、乗客たちは(1)ライオンの子供と散歩する(2)ライオンの赤ちゃんと遊ぶ(3)象の背中に乗る。という三つのオプションから一つを選択し、しばし“野生のアフリカ”を体感する。僕たちはライオンの子供との散歩をメインに撮影。生後10ヶ月だというライオンは鬣(たてがみ)が生え始め、子供とはいえなかなか立派だ。
 ロッジで朝食後列車に戻る。
 午後、対向車とのすれ違いで停車した駅で、近くに暮らす人々が列車の周りに集まってくる。インフレ率が2万%を越えたという最悪の経済状態にあるこの国の人々の姿は、先進国からやって来た乗客たちの目にどう映るのだろうか…。熱心にビデオカメラをまわす、乗客の姿が印象に残る。
 夕暮れ時、雲と太陽が織りなす見事な芸を撮影後、キャンドルが飾られた食堂車で晩餐を撮って2日目を終る。

5日目
 4時、ジンバブエ最後の駅で出国手続き後、国境のリンポポ川を渡り南アフリカに入る。車窓を流れる美しい朝焼けを撮影している時、突然カメラの金沢君の顔が歪んだ。目の前をカメラがスローモーションのように動き、ガタッという音が耳に響く。何と線路際を歩いていた男がジャンプして、カメラを引っ手繰ろうとしたのだ。幸いカメラは無事だったが突然の出来事にしばし呆然とする。それにしても走っている列車の窓にジャンプするとは何と言う運動能力だろう。何とか良いことにその能力を生かして欲しいものだ。
 ロボスレイルの旅も今日が3日目、ランチではフィンランド人の青年たちとアメリカ人女性が一緒にテーブルを囲むなど、和気藹々とした旅の時間が過ぎていく。そう言えば今日は僕の誕生日。ランチ後、列車のスタッフがデコレーション・ケーキを運び、ハッピー・バースデーの歌を歌ってくれた。乗客たちも皆「おめでとう」の声をかけてくれ、恥ずかしいやら、照れくさいやらで、やれやれだ。
 16時51分。ピラミッド駅に到着。ここから終点プレトリアまでの20キロは蒸気機関車が牽引する。“ANTHEA”と名付けられた機関車の堂々とした姿に圧倒される。車体に輝く“PRIDE OF AFRICA”の文字が眩しい。乗客たちが機関車の周りに集まり写真を撮る。鉄道ファンでなくとも胸がときめく演出だ。晴れ渡った空に煙が流れ、蒸気機関車ならではの振動が身体に伝わってくる。18時丁度、終点に到着。列車を後にする乗客たちの笑顔が印象的だ。二泊三日1600キロの旅が終った。
 
ディレクター 狩野 喜彦
ジンバブエの人々
列車での誕生日
ANTHEA
「撮影日誌3」

6日目
 9時、宿泊しているヨハネスブルグのゲストハウスを出発。まず行政の首都プレトリアのチャーチ・スクエアから撮影を始める。昨日は良い天気だったのに、今日は曇り空で寒い。この町は元々ボーア人と呼ばれたオランダ系の開拓者たちが築いた町で、オランダ風の味のある建築が残っている。今はアフリカ系の住民も沢山住んでいて、そのコントラストが興味深い。町を見下ろす丘に建つユニオンビルからの眺めは、天気のせいかちょっと味気ない。
 昼食後、幾つか列車の走りを撮ってヨハネスブルグへ。寒さが増してくる。それもその筈、この大都市は、標高およそ1800mの高原に建っているのだ。高層ビルを背景に、町を後にする列車を撮影後、近くの下町風のエリアへ向かう。古びた建物、軒下に干された洗濯物、そしてそこに暮らすアフリカ系の住民たち。最初はちょっと気後れしたが、中に入ってみると陽気な笑顔が溢れていて人情味を感ずる。街の風情と人々の表情にブルーズを感じた。

7日目
 9時出発。午前中にプレトリア近郊のンデベレ族が暮らす村に向かう。この種族は家の壁をカラフルな幾何学模様で飾ることで知られている。ンデベレ・アートの第一人者ESTHERさんのアトリエで製作シーンを撮影する、民族衣装に纏ったESTHERさんはなかなかの貫禄だ。鶏の羽根をむしっただけの筆を使って、見事な模様を描き出す彼女の技に驚かされる。彼女は東京のファッションビルの装飾も手がけたことがあるそうだ。
 街道沿いの屋台で焼き鳥の昼食。値段は一人\90ながら旨い。昼食後、天気が良いので、プレトリアのユニオンビル周辺を撮り直す。光があると無いでは大違い、今日は町が輝いて見える。公園でヨーロッパ系の男性とアフリカ系女性のグループを見つけた。仲睦まじい白い肌と黒い肌。この国の“今”を象徴するかのようなシーンだった。

8日目
 9時出発。午前中、この国最大のアフリカ系住民の居住区ソウェトを撮影。最初に訪れたのは小学校だが、まず気がついたのは子供たちがとてもお洒落だということだ。真新しいコンバースのバスケットシューズやピカピカの革靴にカラフルなセーターやジャケット。ボロボロのシャツや穴の空いた靴を履いていたジンバブエの子供たちとは大分違う。算数、英語の授業を撮影。みんな結構まじめに勉強している。アパルトヘイト時代、アフリカ系住民には義務教育が無かったということを考えると大きな進歩だ。
 その後1976年6月16日記念碑に向かう。この記念碑はこの日、13歳だったヘクター・ピーターソン君が白人警察官に撃たれたことから始まった、ソウェト蜂起の追悼碑だ。反アパルトヘイト運動はこの事件をきっかけに、大きなうねりとなっていったのだった。今ソウェトは整備が進み、近代的な住居がかなり増えて、トタン屋根のマッチ箱みたいなバラックは殆ど見かけない。時代が移り変わっていることを感ずる。
 ソウェトのフライドチキン店でクィックランチの後、ヨハネスブルグ発、ソウェト行きのメトロに乗る。この電車は犯罪も多いということで緊張しながらの撮影だったが、乗客たちの対応からはそんな雰囲気は感じられなかった(勿論運が良かっただけかもしれないが)。
 かつて、他の番組でこの国を訪れたのは1996年だったか…、アパルトヘイトが完全撤廃されて3年を経た頃だったと記憶している。その頃はレストランの一角に白人専用と書かれた看板が残っていたり、アフリカ系労働者が仕事に慣れていなかったりと、この国を形成する様々な民族(ヨーロッパ、アフリカ、インド、マレー、中国)がそれぞれの社会と、新しい国造りの折り合いをどうつければ良いのかと試行錯誤を繰り返している最中のように見えた。
 あれから12年、今この国を歩きながら感ずるのは、新しい政策が比較的うまく機能しはじめているのではないか、ということだ。昨今、この国で発生している問題は、かつての白人VS有色人種という図式ではなく、白人に代って裕福な暮らしを獲得したアフリカ系と、未だ貧困生活を余儀なくされたままの人々(近隣諸国からの難民を含む)の格差だ。
 これは、かつての人種差別とは異質の、自由主義経済がもたらす弊害の一つで、言ってみれば、ある程度はやむを得ないものに思える…。いや、まだ僅か数日の滞在でこの国を語るのには早急すぎる。これから約一月撮影を続けることで現状を見てみたい。
 
ディレクター 狩野 喜彦
プレトリア
ESTHERさん
ソウェトの小学生たち
「撮影日誌4」

9日目
 8時30分出発。ヨハネスブルグの北西およそ30kmの所にあるクルーガーズ・ドープ動物保護区に向かう。本来はロケの最後に予定していた場所だが、スケジュールを再考した結果、この日に撮影を済ませることにした。急な変更だったが、コーディネーター、レンジャー共に対処してくれて助かる。
 およそ1500ヘクタールの保護区内では様々な動物が自然のままに暮らしており、入場者は自動車でまわることが出来る。キリンの親子、シマウマ、ヌー、スプリングボックといった動物たちの姿を撮影していると何故か心が和む。動物たちの姿には精神浄化作用があるようだ。保護区の中に高いフェンスに囲まれたライオンの居住区があった。入場者を乗せた10台程の自動車が取り囲む中央は食事の場所で、ライオンの家族が朝食の牛一頭を平らげているところだった。ライオンは野生のままというわけにはいかないので、毎日餌を与えているとのことだ。立派な鬣(たてがみ)をはやした父ライオンは、すでに食事を終え、木陰で子供たちの食事を見守っている。それにしても子供たちの食欲は凄い。唸り声をあげながら瞬く間に牛を食べ尽くしていく。都心から僅かの時間で来られる場所にこんな場所があるとは、さすがアフリカだ。
 その後、途中のスーパーで昼食用の食料を買い込み、ショショロザ・メイルという長距離列車の走行シーンを撮りに向かう。草原に良いポイントを見つけ、そこで列車を待つことにする。しかし時刻表から割り出した時間になっても全く列車は来ない。調べてもらうと、現在この国では電気の消費量を削減するため停電の時間を設けているせいだという。カメラをセットし昼食を済ませ、ひたすら待ち、夕方までに3本の列車を撮影し、今日を終える。

10日目
 今日は13時20分発のショショロザ・メイルに乗車してブルーム・フォンテンに向かう。11時にパーク駅に向かい、駅前の様子を撮って構内に入る。丁度長期休暇が始まったところで、大きな荷物を抱えた帰省客で混み合っている。日本の盆暮れの帰省ラッシュと同じようなものだ。ホームではハンドスピカーを抱えた駅員が声を嗄らし列車の案内をしている。臨時列車が多数出ているため、乗客たちはかなり混乱しているようだ。真剣な表情でホーム番号と行き先を告げる駅員の表情には好感がもてる。ホームでは多数のアフリカ系住民に混じってヨーロッパ系の家族の姿もあり、アパルトヘイトが完全に過去のものになったことを感ずる。
 13時20分列車出発。途中の駅からも次々に乗客が乗ってくる。車内を巡り乗客たちの表情を撮っていく。老若男女誰もが微笑んでくれ楽しい。ヨハネスブルグを出発した時は雲っていたが、次第に晴れ始め、しめたものだと思っていたら突然大きな雲が現れ、雨が降り始めた。「雨に煙る風景もまたよし」と思い直し撮影を続けていると、雲が流れまた晴れ始めた。何とも気まぐれな天気だ。「雨は不思議だ。降っているときは寂しいが、止めばすべてを輝かせる…」
 誰の言葉か忘れたがまさにその通りで、19時近くになると、美しい夕焼けが車窓に広がりはじめた。21時33分、ブルーム・フォンテンに到着。
 
ディレクター 狩野 喜彦
動物保護区のキリン
動物保護区のシマウマ
ショショロザ・メイル
「撮影日誌5」

11日目
 9時、ブルームフォンテンのガイド、Jさんがゲストハウスにやって来て打合せ後、まず町を見渡す丘に登る。ロケ車を降り、ポイントを探していると、背後の茂みで何やらガサガサと音がする。振り返るとそこには一頭のキリンが木の葉を食んでいた。この町は南アフリカの三つある首都のひとつで、大都会だ。こんな所にキリンが当たり前のように暮らしているとは、何ともおおらかなことだ。夏の陽射しを反射するかのように輝く町は、広大な田園に浮かぶ島のように見える。近代的なビルは少なく、歴史を感じさせる建築が幾つも見え、何処となく風格を感ずる。それもそのはず、ここはかつて、ボーア人と呼ばれたオランダ系の開拓者が築いた《オレンジ自由国》という独立国の首都だったのだ。ボーア人は自分たちの後から入植した英国人に追われ、ケープ地方から内陸部へとやってきたのだった。それにしても《オレンジ自由国》とは素敵な響きを持つ名前だ。
 「町の彼方に、小さな家がひしめくように並んでいるのが見えるだろう。あれがアパルトヘイト時代、タウンシップと呼ばれた、アフリカ系住民の居住区だよ」Jさんが指差した彼方にはマッチ箱みたいな小さな四角い家並がひしめくように並んでいるのが見える。丘の上から見た一つの景色の中に、単に「美しい」の一言では語りきれないこの国の歴史が幾つも折り重なっているのが判る。
 町に降り《オレンジ自由国》の遺産とも言える幾つかの建築を撮る。初めて議会が開かれた場所、第一議事堂は元々学校だったという小さな建物だ。そして大統領官邸、政府庁舎等どれもヨーロッパを思わせる見事な建築が並ぶ。中でも第四議事堂は、この町の誇りとも言うべき見事な造りの建物で撮り甲斐がある。そう言えば《ブルームフォンテン》とは“花の泉”という意味だ。かつて開拓者たちは荒野を耕しながら、この地に理想の都を築くことを夢見たのだろうか…。
 昼食後、駅に向かう。歴史を感じさせる造りの駅舎では、沢山の人々が列車を待っていた。駅前には屋台から焼き鳥の煙が流れ、椅子と鏡を置いただけの露天美容院や床屋が並び、歴史的建築が並ぶ通りとは正反対に、下町の風情を感ずる。Jさんは英国籍を持つ白人だが、気さくにアフリカ系の人々と接している。確かにこの国は前進を続けているようだ。
 夜10時、昨夜降りた列車と同じ、ヨハネスブルグ発ポートエリザベス行きのショショロザ・メイルに乗車。深夜の乗客たちの姿を撮って終了。
 
ディレクター 狩野 喜彦
ショショロザ・メイルで出会った女の子
ブルームフォンテン
南に向かうショショロザ・メイル
「撮影日誌6」

12日目
 断続的に浅い眠りを繰り返していると、金沢君と鈴木君が撮影の準備をする気配がしてくる。4時30分を回ったところだ。窓の外を見ると、東の空がほんのりと明るくなり始めている。「おっともう夜明けだ」というわけで撮影を始める。列車は山地の中を、蛇行を繰り返し進んでいる。殆どの乗客はまだ寝ているが、中に一人、外を見つめている男性がいたので、彼を絡めて夜明けの風景を撮る。景色が次第に明るさを取り戻していく。5時半を過ぎるとコーヒーの販売が始まり、乗客たちが起き始めた。
 食堂車に向かい朝食の調理に忙しい厨房、朝食を食べる乗客、そして車内を巡り人々の朝の表情を順次撮影。山地を抜けると田園地帯が見えてきた。働く人々が手を振ってくれる。かつてはヨーロッパ系地主が経営する大農場ばかりだったが、今はアフリカ系の人々も土地を所有出来るようになったのだ。時折ダチョウの牧場らしきものが見えるが、揺れる列車からはよく判別出来ない。
 バーケンズ川の鉄橋を渡ると工業地帯が始まり、やがて高層道路やビルが見え始め、10時27分ポート・エリザベスに到着。
 ゲストハウスにチェック・イン後、時間があまりないので、スーパーで食料を仕入れ、列車の走りを撮影に向かう。最初の列車は狙いどおりのカットが撮れたのだが、問題は二つ目だった。金沢君が、スプリンクラーが回る畑越しに絶好のポイント見つけ、カメラをセッティングしたのだが、列車は待てど暮らせど来ない。やがてスプリンクラーが止まると、汽笛が鳴り列車がやって来た。おまけに、あろうことか列車が通り過ぎるとスプリンクラーは再び回り始めた。金沢君のくやしがること。「まあ、人生にはそんなこともあるさ」というわけで撮影を終る。

13日目
 9時半過ぎ、港近くにあるヒュームウッド・ロード駅に到着。今日はアップル・エクスプレスという保存鉄道を撮影する。天気が曇っていてちょっと残念だが、日曜日とあって家族連れが沢山集まってくる。この鉄道は線路幅61cmのナローゲージで、シャーシを改造したディーゼル機関車が木製の小さな車両を牽引する。この間までは蒸気機関車が牽引していたそうで、ちょっと残念だがこれはこれで結構味がある。この鉄道、かつてはこれから向かう山間で栽培されたリンゴを運ぶのに使われていたことから《アップル・エクスプレス》の名前がついたという。ところが、運営に参加しているボランティアのピーターさんは、オレンジ農園を経営しているそうで、ちょっと面白い取り合わせだ。
 乗客は殆どがお弁当を入れたバスケットを持っていて、ピクニック気分で楽しそうだ。途中ナローゲージの鉄橋としては世界一の高さだという鉄橋があった。
 ここで乗客は一度列車を降り、歩いて橋を渡り、列車が走る姿を外から眺める。渓谷に架けられた高さ78mの鉄橋を渡る小さな列車。うーん、やっぱり蒸気機関車だったら良かったかな…。でも、みんな楽しそうで、好感が持てる列車だ。
 12時半、終点ソーンヒルに到着。昼食後、車でポート・エリザベスに戻り町を撮影。この町には19世紀に英国人ドンキン卿が建てさせたという建築が幾つか残っている。建築はどれも魅力的で、この町の歴史を語りかけてくるようだ。ブルームフォンテンでも思ったのだが、この国には興味深い建築が数多く残っていて飽きない。町のすぐ近くのビーチに向かうと、泳いだり、マリン・スポーツを楽しむ人々が大勢いた。ポート・エリザベスは中々住み心地の良さそうな町だ。
 
ディレクター 狩野 喜彦
ポート・エリザベスに到着
ボランティアのピーターさん
アップル・エクスプレス
「撮影日誌7」

14日目
 8時30分、ゲストハウスを出発。今回はサブカメラを持ってきているので、僕と金沢君は駅で、鈴木君はバーケンズ川の鉄橋で、二手に分かれてショショロザ・メイルの到着を撮る。列車は30分ほど遅れたが無事到着。その後ロケバスでジェフリーズ・ベイを経由してジョージの町へおよそ6時間の移動。
 ジェフリーズ・ベイは世界一長い波がくるという、サーファーの聖地だが、今日は残念ながらあまりいい波はきていない。一応簡単に撮影してジョージ近郊のゲストハウスへ。途中、海の夕景があまりに美しいので、これも撮影。
 ゲストハウスはヨーロッパ系の品のいい家族が経営していて、中々いい感じだ。

15日目
 今回はホテルではなくゲストハウスに泊まることが多いが、ゲストハウスとは、オーナーが自宅を改築して宿泊施設にしたもので、日本で言えば高級民宿あるいはペンションといった感じで中々楽しい。そして何よりも朝食が美味しい。今朝も奥さんと若奥さんが腕によりをかけて調理したキッシュが抜群に美味しい。ロケも半ば近くで、多少疲れを感じていたが、そんなことも吹っ飛び気分爽快。
 9時、オウテニカ・チュー・チューと名付けられた保存鉄道に乗車するため、ジョージの町にあるオウテニカ交通博物館に向かう。10時発のこの列車は基本的に蒸気機関車が客車を牽引するが、湿度が低い乾燥した日は周辺の環境への影響を考慮してディーゼル機関車が引っ張る。幸い今日は蒸気機関車でよかった。ちなみにオウテニカとはジョージの町の背後に聳える名峰の名前で、
  先住民のコイ族の言葉で《大きな蜜袋を担ぐ人》という意味だそうだ。確かにそう言われればそんな風に見えなくもない。列車はおよそ50キロ離れたモッセル・ベイまで、山あり、海ありの美しい風景の中を走る。特に高台から海が眼下に見えた時は最高だ。乗客たちもピクニック気分で大人も子供も楽しそうで、好感がもてる保存鉄道だ。
 モッセル・ベイ到着後、ビーチを撮って、シーフード・レストランへ。《モッセル・ベイ/MOSSEL BAY》の名前はムール貝のオランダ語読みから来ていて、この湾でムール貝が沢山採れたという説があるため、この店でムール貝の料理を撮影。しかし、レストランの人の話では、人の名前だという説もあるという。これは今後リサーチしなければ。何はともあれ新鮮なムール貝の味はなかなか美味しい。
 丘の上に登り、モッセル・ベイの俯瞰を撮って、ジョージに戻り、町の歴史的建築を幾つか撮って今日を終る。

16日目
 午前中はオウテニカ・チューチューの走りをメインに撮影。始発駅である交通博物館に始まり、オウテニカ山をバックに走るポイント、鉄橋を渡るポイント。海岸線を走る列車の並走、そしてモッセル・ベイまで、自動車で先回りしながらの撮影だったが、運良くすべて抜群のタイミングで撮ることが出来た。
 午後は交通博物館内に展示されている蒸気機関車や客車を撮影した後、今度はオウテニカ山に登る登山列車に乗る。これは本来、線路の点検等に使われた小さな車両2台が使われていて、その姿が可愛らしいので、たいしたことはないと思っていたが、それが大間違い。オウテニカ山の山肌をパワー全開で登り、景色もダイナミックで本格的な登山列車だった。
 
ディレクター 狩野 喜彦
オウテニカ・チューチューの撮影
オウテニカ交通博物館
モッセル・ベイへ向かう蒸気機関車
「撮影日誌8」

17日目
 8時、心のこもったもてなしをしてくれたゲストハウスの一家に見送られ、オーツホーンへロケバスで向かう。天気はあいにくの雨でちょっと残念だがこればかりはどうしようもない。途中、蛇行するいい感じの線路を見つけたが、今は貨物列車が通るだけなので、撮影はやめる。9時過ぎ、この一帯で最も古いダチョウ農園《ハイゲート・オストリッチ・ショーファーム》に到着。見学にやってきたヨーロッパ系の4人家族と共に、人工孵化の部屋から撮影を始める。卵から孵ったばかりの雛はとても可愛くて、これが2mを越す成鳥になるとは信じられない。抱き上げる家族たちの表情も楽しそうでいいカットが撮れる。雨が小降りになったところで、人間が乗れるように調教された成鳥のエリアに向かう。間近に見るダチョウは、何と言ったらよいか…。長い足、がっしりとした胴体、植物みたいな首、愛嬌のある顔。どの部分をとっても、本当に不思議な格好をした鳥だ。農園の人の説明では、膝に見える部分は足首で、足の甲が下腿のように長く伸びているのだという。怖々と背中に乗った少女が、最初は悲鳴をあげたが、そのうち愛嬌のある顔に親しみを感じたのか、笑顔を浮かべた。そしてこの農園のメインイヴェントであるレースが始まった。競馬を模したゲートから騎手を乗せたダチョウが三羽、100m程のトラックを疾走するのだが、これが抜群に面白い。見学者たちも爆笑だ。その後、農園内のレストランで、目玉焼きの調理を撮る。鶏の卵24個分の卵は、目玉焼きと呼ぶにはあまりに大きすぎて、何と呼べばよいか…。味は、うーん、これまた何と言ったらよいか…。
 16時過ぎ、ジョージの空港から飛行機でヨハネスブルグに向かう。

18日目
 8時、降りしきる雨の中を、ブルー・トレイン、ショショロザ・メイルの走りを撮るためにヨハネスブルグ郊外に向かう。雨脚はおさまらず、列車はどれも予定を大きく遅れている。濡れながら待つこと一時間半、やっと二つの列車が通過した。簡単な昼食後、ソウェトに出向き、メトロの走りを三つ程撮影。
 15時を過ぎた頃から空が晴れ始めた。
 17時ヨハネスブルグ・パーク駅へ。駅の様子を撮って18時20分発のダーバン行きショショロザ・メイルの寝台車に乗る。この列車は全席指定なので、先日のポート・エリザベス行きの列車ほど混雑はしていない。ダーバンは、かつてサトウビキ畑の労働者として連れてこられた、インド人の末裔が多く暮らす町だけあって、乗客たちの中にもインド系の人々が見られる。ヨハネスブルグを出ると1時間ほどで、沈む夕日が雲を茜に染め始めた。夕陽が沈むとき、空気が一瞬緊張すると認めた詩人がいたが、まさにそんな感じだ。
 コンパートメントを巡り、乗客たちを撮っているとき武蔵丸親方そっくりのお父さんが率いる5人のインド系の一家と親しくなった。優しそうなお母さん、気立てのいい娘さん、ちょっとハニカミ屋の幼い二人の妹。ヨハネスブルグで休暇を過ごしダーバンに帰るところだという。娘さんの笑顔に惹かれ、この家族を中心に撮影をして行くことにする。20時過ぎ娘さんがタッパウェアを手に食堂車の厨房へと向かった。何だろうと思うと手作りのカレーとライスをコックさんに温めてもらうところだった。辺り一面にスパイスの香りが立ち籠める。電子レンジでチンよりもはるかに美味しそうだ。コンパートメントでの楽しそうな一家の夕食を撮った後、再び食堂車に戻る。ここにもインド人の一行がいた。しかし彼らはメニューにカレーがあるのにラザニアや、白身魚のフライを食べていた。彼らにとっては食堂車のカレーは本物ではないらしい。試したところ、僕たちにとっては大変美味しいカレーライスだった。
 23時過ぎ、乗客たちが寝付くところを撮って今日を終る。何だか長い一日だったな。
 
ディレクター 狩野 喜彦
女の子とダチョウ
ダチョウのレース
インド系の娘さん
「撮影日誌9」

19日目
 夜行列車の撮影ではいつものことだが、殆ど熟睡する時間はない。午前4時過ぎ、東の空がほんのりと明るくなり始めた頃からカメラを回し始める。ロケに出ていると、陽が沈み、陽が昇る…、そんな当たり前の事にやけに敏感になる。ふと、今、昇り始めた太陽は、日本では真昼の太陽なのだ。等と思うと不思議な気分になる。5時過ぎ車内をコーヒー売りのワゴンがまわり始め、乗客たちが起き始めた。さあ、今日も仕事だ。5時25分ピーター・マリツブルグに到着。ホームに降りて列車を後にする人々を撮っていた金沢君と鈴木君が、列車が動き始めても中々戻って来ない。心配していると、ホームを走りながら列車に乗る二人の姿を確認。良かった。この辺りはドランゲンスバーグ山脈の南端にあたる場所で風景が良くなってきた。カメラも快調に回る。遠くに滝が見えたかと思うと、今度は滝壺のすぐ近くを通り過ぎる。観光地でもないのになんという景観だろう。朝食を食べ終ったインド系の家族が、支度を始めたかなと思っていると、あっという間にダーバンに到着だ。「どうもお世話になりました」という訳で家族を見送り列車の撮影を終る。
 その後、駅でダーバンの近郊列車の撮影に関する打合せをする。担当者は大柄なアフリカ系の中年男性で、見るからに誠実そうな印象で好感が持てる。撮影する日取り、列車、区間を決めた後、ゲストハウスにチェックイン。今度のゲストハウスも、ダーバンを見下ろす高級住宅街にある邸宅で、夫人も感じが良く、泊まり心地が良さそうだ。
 午後、町、港、近郊列車の走りを撮影に出掛けるが、天気が悪くなり、今ひとつ調子が出ない。

20日目
 6時、前夜、ゲストハウスに頼んでおいた朝食のお弁当を持って出発。山間でショショロザ・メールの走りを二つ撮ってピーター・マリツブルグへ向かう。この町は、かつてナタール共和国の主な都市として繁栄した町で、中々風格がある。この町を撮影することに決めたのには訳がある。それはインド独立の父として知られるガンジーが若き弁護士だった頃、ダーバンに滞在し、列車の一等車に乗っていたところ、有色人種だとの理由で、列車から降ろされてしまったのがこの町の駅だったからだ。この時の屈辱的な体験が、彼の精神に無抵抗主義を培い、後のインド独立運動に繋がったのだった。そしてその精神は、長い歳月を経て、ネルソン・マンデラ等に受け継がれアパルトヘイト撤廃へと導いたのだった。町にたつガンジーに銅像、駅に記されたプレートを撮影していると、ふと、感慨深いものがこみあげてくる。
 2時過ぎ、《サウザント・ヒルズ/千の丘》と呼ばれる丘陵地帯に点在するズールー族の村に向かう。ズールー族はこの国のマジョリティで、多くの政治家やエリートも輩出しているが、この一帯では、今も円錐形の昔ながらの家で人々が素朴な暮らしを続けている。
 プレトリアやヨハネスブルグといった大都会、野生動物が暮らす大自然。ブルーム・フォンテンやポート・エリザベスのようなヨーロッパ系の歴史ある町、アフリカ系住民の素朴な村。白人、黒人、黄色人種。南アフリカには、およそ地球の全てがある…。ロケも後半に差し掛かった今、思う。果たして何処までこの国の本当の姿に近づくことが出来るだろうか…。
 
ディレクター 狩野 喜彦
車窓から見える滝壺
ピーター・マリツブルグ駅
ズールー族の女性
「撮影日誌10」

21日目
 6時半過ぎ、ゲストハウスのテラスから見るダーバンの町が朝陽を浴びて美しいので、朝食前にまず撮影。朝食後、町に入ってくるショショロザ・メイルの走りを撮って、メトロに乗車するため駅へ。ラッシュアワーが終った後の駅は、のんびりとした雰囲気だ。9時36分発の列車に乗車。目的地はスコットバラという海岸の駅。ダーバンにはインド系の人々が多く暮らしているが、列車に乗っているのはアフリカ系の人々とヨーロッパ系の若者たちだけだった。町を出るとすぐに海岸線を走り始める。開け放した窓から入ってくる潮風が心地良い。スコットバラには11時08分に到着。駅のすぐ前の海岸に出ると大勢の海水浴客が、過ぎ行く夏を楽しんでいた。
 スーパーで昼食を買い求め、サウザント・ヒルズのズールー族の観光施設へ移動。ここでズールー族の歌劇を撮影。台詞や歌はズールー語なので、細部までは理解出来ないが、この部族の歴史を描いた大河ドラマらしい。劇に盛り込まれたダンスは、中々迫力があって良い被写体だった。帰りに丘の上から列車の走りを撮って終了。

22日目
 8時半出発、町の一角にあるインディアン・マーケットへ。ここはその名の通りインド系の市場で、建物も売っているものもインド風の物が多い。そう言えば、走っているバスの彩色もインド風だった。その後、今度はエアリー・モーニング・マーケットという名の市場へ。ここは朝4時頃から営業しているため、その名がついたという。こちらは、殆どアフリカ系の人々ばかりだが、一角にモスクがあったりしてかエキゾチックな雰囲気が漂う。まさに多民族国家南アフリカの縮図といった感じだ。午後、ヨハネスブルグへ空路で移動。ダーバンは晴れていたが、こちらは天気があまり良くない。

23日目
 今日はいよいよブルートレインに乗車する日だ。7時プレトリア駅到着。空は雲っていてちょっと残念だが、駅前から撮影を始める。駅前に掲げられたブルートレインの表示に従って、専用乗り場へと向かう。列車は9時出発だが、乗客たちが次々と到着し、チェックイン。待ち合いラウンジは洗練されたインテリアで、高級ホテルのロビーを思わせる。乗客たちが乗車する前に、ホームで車両とラウンジ・カーを撮影。鮮やかなブルーの車体と頭文字にBを図案化したエンブレムに、いやがうえにも胸が高鳴る。9時定刻通り出発。まず客室を撮影。木目を基調としたすっきりとしたインテリアは、まさに走る高級ホテルといった感じだ。11時過ぎ、ランチを前に厨房が忙しくなってきた。調理される料理は、電子レンジを使ったものはなく、すべて本格的なものばかりでレストランそのものだ。13時前ダイニング・カーに乗客たちが集まりはじめた。殆どがヨーロッパからの熟年カップルだが、中に南アフリカの若い家族がいた。ファッション関係の仕事をしているヨーロッパ系のご主人とアフリカ系の夫人、そして混血の男の子。まさに南アフリカの今を象徴するかのようで、好感がもてた。ランチ後、ラウンジでのティータイムと風景を撮影。天気も回復し撮影テープも快調にまわっていく。18時14分キンバリーに到着。ここで乗客たちは一度列車を降り、ダイヤモンド鉱山の見学に。ビッグホールと呼ばれるダイヤモンドを採掘した跡の巨大な穴には、一同驚愕の表情だった。
 キンバリー出発後は大忙し、運転席を撮って客車に戻り、スーツにネクタイを纏ってダイニング・カーへ。皆さんの邪魔にならないように夕食の撮影。そして食後のラウンジまで、豪華列車ならではの優雅な時間を撮る。撮影は中々優雅とはいかないが、せめて気分だけでも、エレガントに振る舞うよう心がける。
 
ディレクター 狩野 喜彦
キンバリー駅のホーム
南アフリカの若い家族
キンバリー
「撮影日誌11」

25日目
 少しずつ明るさを取り戻しつつある空に、三日月が架かっている。この国に到着した頃は、月はまだ太っていた。あと何日ロケは続くのか…、もう両手の指で、残りの日々を数えられる。4時半、いつものように撮影が始まる。夜行列車ではいつも朝になると、風景が大きく変わっている。今日も、昨日までの高原から、岩山が続く風景へと大きく変化している。思えば遠くにきたものだ。
 6時、朝のティ・サービスを撮るためにラウンジカーに向かう。これは前夜予約しておけば、希望の時間に部屋にジュースと紅茶、もしくはコーヒーを届けてくれるサービスだ。乗務員の後をついて客室に向かうと、バスローブ姿の男性乗客が、気軽に撮影させてくれる。やはり、同じ列車で一夜を明かすと、何となく共同体意識が芽生えてくるものだ。
 7時過ぎ、朝食が始まる。乗客たちは、好きな時間にラウンジカーにやってくる。ビュッフェのフルーツを始め、ソーセージや卵まで、高級ホテル並みの朝食だ。窓の外を、陽射しを浴びた葡萄畑が通り過ぎてゆく。気候が南フランスや、スペインに似ているこの一帯は、ワインランドと呼ばれる程にワインの産地として知られている。険しい岩山と、その斜面から平野部にかけて広がる見事な葡萄畑。ヨーロッパからの開拓者たちが、岩を削り、荒れ地を均し、造りあげた風景。この風景に「絵画のように美しい風景」あるいは「ヨーロッパ系の人々の心の故郷」などといったナレーションをつけるのは容易い。しかし、それが果たして適切なものか…。この風景が出来上がるまでには、開拓者たちの血と汗と涙がどれだけ流れたことか…。そんなことを理解してこそ、この風景は鮮やかさをますのではないか…。
 気がつけばブルートレインはスピードを増し、ワインランドの風景の中を走って行く。この辺りで、空撮を撮る事に決める。
 車内放送が入り、進行方向左手にテーブルマウンテンが見える。正面にはライオンズヘッドも。両方ともケープタウンのシンボルと言われる岩山だ。
 金沢君が、左に右に、窓際を移動し、その風景を撮る。12時25分、ブルートレインは、ケープタウン駅に到着。親しくなった乗客たちが手を振り、列車を後にしていく。これでこの国を代表するふたつの豪華列車の撮影が終った。どちらがどうとかは言えないが、ロボスレイルは老舗の旅館。ブルートレインは、高級ホテルといった印象を持った。もちろん、どちらも素晴らしい列車であることに変わりない。
 郊外にあるゲストハウスにチェックイン後、昼食をとり、ブルートレインの走行を撮る場所のロケハンに向かう。背景に岩山が聳える葡萄畑の間に絶好の場所を発見したのでここに決める。夕方、ケープタウンのウォーター・フロントのロケハンをし、夕食を済ませ、今日を終る。
 
ディレクター 狩野 喜彦
ビッグ・ホール
朝食のフルーツ
車窓からのライオンズヘッド
「撮影日誌12」

26日目
 朝6時半、ケープ半島の東海岸にあるボルダーズ・ビーチに到着。この海岸に生息するペンギンたちを撮る。国立公園の許可の関係でこの時間になったのだが、朝の空気が気持ち良いうえに、人も少なく、目覚めたばかりのペンギンたちの姿が撮影出来て良かった。それにしてもペンギンたちの仕草は、何ともユーモラスで、見ているだけで心が和む。
 浜辺のカフェで朝食をとった後、一気に昨日ロケハンしたワインランドのポイントに向かい、ブルートレインの走りを撮る。岩山をバックに葡萄畑を走る青列車。思っていた通りのカットが撮れて金沢君の顔も綻ぶ。
 ケープタウンの町に向かい昼食を済ませ、町のカットを幾つか撮影。近代的な高層ビルと歴史的な建物、笑顔で町行く様々な人種の人々、夏の陽射しを浴びて、すべてが絶妙なコントラストを見せてくれる。町の背後に聳えるテーブルマウンテンにかかる雲もいい感じで芸をしてくれるし、カラフルなパステル・カラーに塗られたマレー系の人々が暮らす一角は、歩いているだけでも楽しい。「ここより北に帰る気はない…」そう認めた作家は誰だったか…、確かにこの南の果てのコスモポリタン都市はそんな気分にさせてくれる町だ。

27日目
 9時ケープタウン駅に到着。外観を撮り、広い構内に入ると、真中に小さな小屋のようなものが建っていた。一体何だろうと近づくとそこは床屋さん。出発前の人々が大勢散髪していた。すべてアフリカ系の人々だったが、彼らの間ではスキンヘッドが流行っているらしく、電気バリカンでさっと刈って、ヒゲもついでに刈ってしまう。シンプルでいいな。
 ホームに向かい、ワインランド方面に向かう近郊列車に乗車。ところが、鉄道が気を使ってくれたのか、僕たちが乗車する車両は決められていて、おまけにドアにはリザーブド・コーチの貼紙が、おっと、これでは乗客の撮影が出来ない、大変だ!!という訳で、ホームで、人々に声を掛け、何人かの人々にこの車両に乗ってもらう。幸いコイサン系(この一帯の先住民)の若いカップルと男子学生が快く乗ってくれたので助かる。一時間程走ると窓に険しい岩山と延々と続く葡萄畑が見えてきた。ワインランドで最も歴史のある町ステレンボッシュで下車。町を撮り、昼食後、再び乗車。今度は普通の車両なので乗客も多く助かる。途中駅で乗り換えて、パールまで、いつもながらの撮影が続いた。
 14時過ぎ『Neil Ellis』というワイナリーへ。到着するといきなり長身のヨーロッパ系の男性が日本語で「ご苦労さんです」と声を掛けて来る、えっ、と思っているとこの男性はオーナーのハンスさんで、日本で長く暮らしたことがあり、奥さんも日本人だとのこと。彼の案内で岩山の斜面に広がる葡萄畑へ。強い風が葉を揺らし吹き抜けていく。ハンスさんの話では、この風こそが大事で、害虫をすべて吹き飛ばしてくれるのだという。ここのワインはまさに“光と風のワイン”というわけだ。一口飲ませてもらうと、赤も白もかなりの水準。聞けば品評会でも賞を獲得しているそうだ、ワインを造り始めておよそ10年、やっと立派なワインが出来るようになったと、目を細めるハンスさんの笑顔が印象的だった。
 18時パールを見下ろす山の中腹にあるアフリカーンス言語記念碑へ。アフリカーンスとは開拓者たちのオランダ語、フランス語、英語に先住民の言葉や、労働者たちのマレー語が混じって18世紀頃から使われ始めたこの国の公用語のひとつだ。何でもこのパールではアフリカーンスの新聞も100年以上前から発行されていたそうだ。街道に沿って広がるパールの町を撮った後、再び山の中腹に登り、夕陽に染まる山並を撮って今日を終る。夕食はハンスさんが教えてくれたパールの和食レストランへ。純粋な和食を想像したが、これがエキゾチックな東洋風焼き肉。久々に白飯と一緒に食べるスプリングホックやダチョウの焼き肉はまあ美味しかったかな…。
 
ディレクター 狩野 喜彦
ワインランド
ワイナリーのオーナー、ハンスさん
車窓から眺める女の子
「撮影日誌13」

28日目
 10時へリポートに到着。天気は快晴、絶好の空撮日和だ。簡単にパイロットと打合せをする。パイロットは撮影を専門にしていて、どんなカットが欲しいか、すぐに理解してくれる。そしてテイクオフした瞬間に、凄腕であることがわかる。ほぼ定刻に現れたブルートレインを時には高く、時には低く、常に的確なテクニックで飛んでくれる。金沢君とのコミュニケーションもばっちりだ。ブルートレインを一通り撮った後、給油して、今度は海辺を走るメトロを追いかける。これまた青い海と白い波頭を舐めるように低く飛び、列車をとらえると暫くフォローした後、一気に高度を上げ回転する。これは、中々迫力のあるカットで大満足だ。
 午後は、ワインランドへ向かいメトロの走りを撮った後、世界中の大きな港町と同じように、再開発されたウォーターフロントへ。洒落たレストランやショッピングモールが続き、ふとコート・ダジュールにいるような気分になってくる。撮影中、中年のカップルが笑顔で声をかけてきた。よく見るとブルートレインで一緒になったドイツ人夫妻だ。僅か2日の旅だったが、何だか古い知り合いに会ったような気がしてくるから面白いものだ。柔らかな陽射しと心地良い潮風が開放的な気分にしてくれる。さあ、ロケもいよいよ終わりが近づいた。

29日目
 海岸線を走るメトロに乗車するため9時、駅に到着。今日もリザーブ車両のため、ホームで人々に声をかけ、乗ってもらう。9時32分出発。新聞を読む人、ウッドベースを抱えた若いミュージシャン、陽気なおばさん、一人旅の青年…。みんないい人たちで、微笑みを浮かべ撮影に協力してくれる。開け放たれた窓に広がる青い海と潮風が気持ち良い。この路線は海のすぐ近くを走るため車窓の眺めは最高だ。そう言えば以前来たとき、鯨を見たことを思い出す。今回は残念ながら季節が異なるので、見る事は出来なかったが…。終点サイモンズ・タウンまであっという間に過ぎてしまい、少々もったいない気がした。
 サイモンズ・タウンの町、列車の走り、ビーチをとってコーク・ベイの漁港へ。マグロの水揚げを撮って、桟橋のすぐ近くのレストランで、昼食を兼ねてシーフードを撮影。御飯、ネギトロ、アボカド、イクラを重ねたSUSHI SANDWICHが面白い。今やSUSHIは完全に世界的な料理になったようだ。
 その後、喜望峰に向かう。もの凄い風で立っているのもままならい。三人で懸命にカメラを押さえても揺れてしまう。そう言えばこの岬に初めて到着したディアスも嵐に遭遇し、ここに上陸したのだった。確かに然もありなんだ。
 ケーブルカーに乗ってケープポイントに向かう。ここも、もの凄い風で、灯台の下から見る大西洋は、白波がたち荒れ狂っている。金沢君と鈴木君が吹き飛ばされそうになりながら懸命に撮影をする。この海の先にある南極を思い撮影を終る。


30日目
 ケープタウンを後にヨハネスブルグに向かう飛行機の中で、今回のロケを振り返ってみる。世界有数の豪華列車とアフリカ系の人々が殆どだった夜行列車。先住民の土着文化とヨーロッパからの開拓者たちの歴史。草原に暮らす野生動物と近代的な高層ビルが並ぶ大都会。険しい山の風景と青い海原etc。およそこの国には、考えられる地球の全てがあるのではないだろうか…。そしてアパルトヘイト時代モザイクのようだった様々なものが、今、溶け合い融合しようとしている。旅の途中で知り合った英国系の男性が語った「私たちの国のプライドは、新しい民主主義だ」という言葉が頭をよぎる。今は途上にある民主国家の建国が成し遂げられるのはいつ頃だろうか…。アパルトヘイト完全撤廃から15年、 1ジェネレーションは30年だから、一世代経た15年後くらいだろうか…。可能ならば、その頃もう一度この国を訪れてみたい。 Fin
 
ディレクター 狩野 喜彦
これから空撮
海辺のレストラン
喜望峰の灯台
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