世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
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「撮影日誌1」

3月19日(水)
哀しき中年撮影隊、2年ぶりの車窓ロケ。私にとっては15年ぶりぐらいのインド。マハラシュトラ州の州都ムンバイから旅が始まった。あれ?道に野良牛がいない。聞けば、交通の邪魔になるので郊外へ追いやられ、篤志家の寄付によって作られた“老人ホーム”で暮らしているという。野良牛を見つけて当局に通報すると賞金がもらえるという話も聞いた。いやあインドも変わったもんだ。以前ラジャスタン州のジャイプールへ行った時、牛、犬、ラクダ、ゾウ、そして車と人が道いっぱいに広がって一つの方向に進んでいく様を見た。上を見上げるとサルが電線を伝って歩いていた。喧噪、混沌、猥雑、それがインドと思っていたから、ちょっとガッカリ。でもムンバイの駅チャトラパティ・シワジ・ターミナスに一歩足を踏み入れると、そこにインドがあった。

1888年に建てられた駅舎はヨーロッパのゴシック様式とインド伝統の建築様式が融合した華麗な造り。世界遺産にもなっているが、本当にすごいのは朝のラッシュ時のホームだ。次から次へと列車がやってきてはものすごい数の人々がデッキから飛び降りてくる。“湧いて出てくる”という感じ。列車は5分も止まらずにまた出発していく。まさにピストン輸送。こっちのホームでは魚屋のおじさんたちが席取りで大騒ぎ、あっちのホームでは走り出した列車に飛び乗ろうとして失敗した男たちが笑っている。午前10時を過ぎると今度は弁当の運び人たちがやってくる。いつでもどこでも家庭の味が一番というのがインドの人。でも、すさまじい通勤ラッシュで弁当を持ってくるのは無理。そこに目をつけた商売。各家庭を回って弁当を集めオフィスまで届ける。そして食べ終わった後の空の入れ物を、また家まで返しにいくというシステム。なんと100年以上の歴史があるというから驚き。うーん日本では無理だろうなあ。

夕方、デカン・オデッセイに乗り込む。世界遺産のエローラ石窟群などマハラシュトラ州の名所・遺跡を7泊8日で巡る豪華列車だ。食堂車が2両、タバコが吸えるラウンジ(これは嬉しい)、映画も見られる図書室、インターネットに接続できるコンピューター室、美容室、サウナ付きのマッサージ室、さらに鉄アレイ、自転車こぎ、ランニングマシーンが装備されたジムまである。旅行に来てまで体を鍛えたい人なんているんかい、と突っ込みたくなるが、とにかく豪華。今日1日でインド社会の縮図を見た気がする。まだロケは始まったばかりだが、すでに疲れた。暑さと人の多さに疲れた。前途多難。
 
ディレクター 福本 浩
チャトラパティ・シワジ・ターミナス
ラッシュ時のホーム
デカン・オデッセイに乗り込む
「撮影日誌2」

3月22日(土)
デカン・オデッセイに乗り込んで4日目の朝、ゴアのカルマリ駅に到着。ザビエルの遺体が眠る世界遺産のボム・ジェズ教会を撮った後、街中へ。今日はホーリーというヒンズー教のお祭りがある。春の到来を祝って行われるもので、カラフルな粉を誰とでも掛け合う無礼講の祭りだ。若者たちがあちこちで道をふさぎ、通る人をつかまえては顔中に粉を塗りまくる。当然、我々スタッフも洗礼を浴びる。カメラマンだけは勘弁してもらった。何か日頃の鬱憤を晴らすガス抜きのような祭りにも感じる。いや祭りとは本来そういうものかも知れない。日本でもやればいいのに。ギスギスした世の中が少しは変わるかも。

夕方シャワーのような雨が降る中、ゴアのマドガオン駅からデカン・オデッセイに乗り込む。この列車は確かに快適。設備は豪華でエアコンは効いてるし、乗務員は親切だし(ちょっとゲイっぽい人が多いが…)、食事もうまい。不満は、ほとんど夜しか走らないホテル列車だということ。明け方駅に着くと乗客は朝食を食べ、バスに乗り換えて市内観光。夕方列車に戻り駅を出発、夕食、就寝。この繰り返し。日が昇る前に駅についていることもある。昼間の車窓がまったく撮れないのだ。こういう状況は撮影隊をイライラさせる。車窓の映像があってこそ「車窓」だから。そんな状況の中、カメラマンは短い時間でも何とかいい車窓を撮ろうと努力していた。そして事件は、駅を出発する時に起こった。

カメラマンはデッキから身を乗り出しながら車窓を撮る。その際デッキの両側に付いている2つの取っ手をベルトで結び、それに身をあずけながらカメラを操作するのだが、今回はベルトの位置の調節が難しく腹に食い込んで痛かったらしい。それでアシスタントが後ろから命綱を持ち支えることになった。駅を出るときは雨が降っていたのでカメラには雨カバーが掛けてあった。いざ出発、列車が少しずつ動き出す。子供が見送っている。カメラをその子に振ったその時、レンズの前に雨カバーが!あわててカメラマンがアシスタントに声をかける。「おーい、カバーを取ってくれ!」。アシスタントもあわてていたのか、カバーを取ろうとカメラに近づいてしまった。支えを失ったカメラマンはホームに落ち、繋がれたアシスタントも同じ運命に。幸い列車のスピードが遅く、運転士が気がついて停止してくれたので大事には至らなかった。もっとスピードが出てたらと思うとゾッとする。
と同時に、何かが守ってくれたとも思う。
 
ディレクター 福本 浩
世界遺産のボン・ジェズ教会
ヒンドゥー教のお祭り、ホーリー
デカン・オデッセイ
「撮影日誌3」

3月23日(日)
朝の5時前、目を覚ましたらコラプール駅に着いていた。まだ暗い。やれやれ、また一眠り。朝食後、乗客の男性たちが頭にターバンを巻いてもらっていた。スタッフにけしかけられ私も便乗。気分はマハラジャといいたい所だが、邪魔でしかたがない。でもせっかく巻いてもらったのに、すぐはずすのも失礼だ。そのまま町の撮影に向かう。インドの人がターバン姿の私を見ても誰も笑わないのが、嬉しいような、寂しいような。

マハラジャの宮殿やコラプル伝統の剣舞などを撮影した後、昼頃コラプル駅を出発。ひとりの男の子が走りながら見送ってくれた。子供って列車を見ると追っかけようとするんだよなあ。見知らぬ土地へのあこがれが、そうさせるのかも。私も小さい頃、追っかけたような気がする。もう遠い昔。それにしても見送ってくれた子は半ズボン姿なのに、すそを両手で捲り上げながら走っていた。がに股になって走りにくそうだった。なぜだか今でもわからない。

次の目的地プーネまでは7時間。今日は初めて昼間の車窓がたっぷり撮れる日だ。今までの鬱憤を晴らすように私も写真を撮りまくる。デッキの取っ手を左手でつかみ右手でカメラを持ち、体を外へ投げ出すようにしながら撮る。スピードが出てくると、かなり危険。砂糖きびを収穫している男たちが撮影に気がつき、笑顔で手を振ってくれる。それだけで気持ちがはずむ。インドが好きになる。あっと思った瞬間、帽子が飛んだ。2006年からドイツ、アメリカと一緒に旅をしてきた相棒との別れだった。初めての車内でのランチ、そしてスイートルームに乗っていた英国人夫婦も撮影。撮影するなら100円玉をくれと言われたので、10円玉と1円玉も追加してあげたら喜んでくれた。乗客で親しく話せたのはこの夫婦だけだった。夕暮れにはデカン高原らしい荒涼とした風景が車窓に現れる。やっと普段の車窓らしい撮影になり、満足の1日。
 
ディレクター 福本 浩
ターバンを巻いてもらう乗客
コラプルの剣舞
乗り出して撮影
「撮影日誌4」

3月25日(火)
ゴアのビーチで美空ひばりの“真っ赤な太陽”を口ずさみながらアラビア海に沈む夕日を撮った後(若い人にはわかんないだろうなあ、この気分)、マドガオン駅からトリヴァンドラム行きの深夜急行に乗り込む。冷房のない2等車は、さながら沢木耕太郎の『深夜特急』の世界。当時と比べるとだいぶきれいになったとは思うが、座席の上の荷物棚で寝ている人もいるし床に寝転んでいる人もいる。後で知ったが、あれは荷物棚ではなく一応ベッドなんだとか。網目になっていて、どう見ても荷物棚なんだけどね。ハシゴもないから昇るのにけっこう腕力がいる。寄る年波と日々戦っている私にはとうてい無理。我々スタッフは機材も多いので、冷房付きの1等車に乗りました。すみません。それにしてもインドの人はカメラを向けると何故かじっとレンズを見つめる。深夜列車の中で大勢の人にギョロリと見つめられると、かなりビビリます、ハイ。

2、3時間ウトウトした後、夜明け前からデッキを占領し車窓を撮影。朝日が水辺のヤシの間から昇ってくるいい絵が撮れる。駅に着くたびにたくさんの人が乗ってくる。列車が走り出しても飛び乗る人が多い。我々が撮影しているデッキは安全ベルトでふさがれているのだが、それをかいくぐって乗ってくる強引な人もインドでは多い。カメラマンは苦労していたが、面白い絵。日本では考えられない光景が次々と現われるローカル列車の旅は、本当に面白い。決して清潔ではなく快適でもなく無秩序で猥雑だが、私は好き。危ないから、汚いからといって何でも禁止にするのは、旅を、そして人生をつまらなくさせる。
 
ディレクター 福本 浩
アラビア海に沈む夕日
荷物棚ではなくベッド
水辺のヤシの間から昇ってくる太陽
「撮影日誌5」

3月26日(水)
朝7時25分、ケララ州のカンヌール駅に到着。機材や私物をすべて降ろし待っていた車に積み替え、町の風景や列車の走りを撮影し、翌日、また列車に乗り込む。これを繰り返しながらインド最南端の駅カニャクマリまで行く。欧米なら道路事情も良く、車の方が列車より絶対速いから、荷物はすべて車に乗せて先回りしてもらうことができる。しかしインドでは、そうはいかない。駅には必ず赤帽(これも若い人にはわからないかも)ならぬ赤いシャツを着たポーターがいて車まで運んでもらえるから楽だが、チップの値段交渉がやっかい。毎回もめます。面倒で気疲れもするが、仕方がない。

この日の夕食、入ったレストランのメニューにコリアン・ポークというのがあった。カレー料理に少し飽きていたので飛びついた。それが間違い。ヒンドゥー教徒が大半を占めるインドでは豚を食べないということを忘れていた。(じゃあ何で普通のインド料理店のメニューにあったんだ?)韓国風焼肉とはまったく別の代物。肉も油も相当古くなってる感じで(腐ってはいなかったが)、口に入れた途端やばいと思ったが、味付け自体は悪くなく意地汚い方なので半分ぐらい食べてしまった。来ましたねえ。しかし体力、知力は落ちているが、免疫力はあるのが哀しき中年撮影隊の強み。腹が緩みはしたものの、ひどい下痢にはならず、翌日の昼には回復した。若い時だったら廃人のように倒れこんでいたに違いない。蛇足になるが海外ロケの鉄則をひとつ。“現地の人が普段食べないものを食べるな”。
 
ディレクター 福本 浩
カンヌール駅のホームで
カンヌールを出発して
トゥリスールへ向かう列車
「撮影日誌6」

3月28日(金)
トゥリスールから2時間ほど列車に乗車し、今回の旅で最も楽しみにしていたコーチンに到着した。というのは28年も前、まだADだった頃に一度来たことがある町だったから。

インドカレーとスパイスの取材だった。まっ先に以前撮影したスパイス専門の青空マーケットに行ったのだが、まったく変わっていた。何だかこぎれいなサリーや民芸品を売る店が並ぶ通りになっていた。スパイスの文字が壁に残っていただけ。道の両側いっぱい溢れんばかりに並んでいたスパイスは消えていた。あの頃はまだ20代の半ば。必要以上に身構えながら未知の国インドにやってきた。薬もたくさん持っていったが、何度も下痢に苦しんだ。ミネラルウォーターなんてなかったからコーラばっかり飲んでいた。王冠がちゃんときつくしまっているのに、なぜか中身の量がビンごとに違っていた。市場で青いトウガラシを食べさせられ頭が痛くなった。カキ氷を一気食いした時の2倍ぐらい痛かった。いろんなことを思い出しながら、しばし呆然。かろうじて道のクネクネ具合にかすかな覚えがあった。それだけ。

3月29日(土)
引き続きコーチンで撮影。昨夜撮影したケララ州の伝統的な踊りカタカリ・ダンス、そして今朝撮影したチャイニーズ・フィッシング・ネット(四手網漁)。28年前にも撮ったのだが、場所の記憶がまったくなく再会の感激もなかった。うーん、しょうがないね。午後は鉄橋を渡る列車を撮影。しかし待てど暮らせど予定していた列車がやってこない。近くの踏み切りのおじさんに聞いたところ、今日からインドの学校が2ヶ月以上の夏休みに入り、列車の運行スケジュールも大幅に変更になったとか。早く言えよって、聞かないこっちが悪いんだけど。結局3時間も熱い太陽のもとにさらされ、腕は干からびて古老の漁師のようになり、短パンだったものだからヒザ小僧が真っ赤に焼けてヒリヒリ。こうしておじさんのセンチメンタル・ジャーニーは無残なエンディングを迎えたのである。
 
ディレクター 福本 浩
コーチンのスパイス専門店
カタカリ・ダンス
四手網漁
「撮影日誌7」

3月31日(月)
トリヴァンドラムからインド最南端の駅、カニャクマリへ向かう。朝のトリヴァンドラム中央駅で思わずニヤっとする光景に出会った。線路を挟んだ向こう側のホームに列車が着くや否や、溢れんばかりの乗客がデッキから次から次へと飛び降り、線路を渡ってこちらのホームによじのぼってくる。注意する駅員は、もちろん誰もいない。いやあ、あっけにとられましたね。そして嬉しくなった。インドはいいなあ。人々に活力を感じる。列車発着の間隔に余裕があるからできるんだろうけど、管理された閉塞社会に生きるどこかの国民とは大違い。

車内も活気がある。持ち込んだカレー弁当を盛大に広げている家族があちこちにいる。いつの間にか列車に乗り込んだ芸人の兄妹が小遣いかせぎに歌を聞かせている。ストローや古本を売る変な物売りたちも突然現れては消えていく。運賃を払っているとは思えないが大目に見られているのだろう。その鷹揚さがインドだ。天気は快晴で、今まで椰子と川ばかりだった車窓に初めて山が現れ、いい車窓も撮れた。山が見えると何だかほっとするのは日本が山国だからかな。

南に来れば来るほど空気がのんびりしてきて、すべてがスローペース。ホテルもレストランも、そう。イライラもするが嫌いではない。昭和30年代初期の日本もこんな感じだったような気がする。

4月1日(火)
朝4時30分、起床。インドの最南端、カニャクマリのコモリン岬で御来光の撮影。暗いうちからたくさんの人々がやってきて日の出を待っていた。午前6時23分、朝日が顔を出し歓声が上がる。水平線に雲があり海の上から昇ってくる太陽は撮れなかったが、それでも十分美しい。手を合わせてお祈りをする人は少なく、ほとんどの人が記念撮影に興じていた。少しがっかり。2人の老人が沐浴を始めたが、波が荒くてうまくいかず苦笑い。これはいいシーンだった。

その後、トリヴァンドラムへ車で戻りながら列車の走りを撮影。
おおざっぱな地図しか手元になく、なかなか広々とした場所が見つからなくて苦労した。幾つかの踏み切りを行きつ戻りつした後、結局、線路をテクテク歩きながら探した。車窓ロケではいつものことだが、暑くて参る。近くの池に飛び込むほど雑菌に強くはなく、泳ぎにも自信がない。疲れました。
 
ディレクター 福本 浩
窓辺の美少女
トリヴァンドラム中央駅
コモリン岬の御来光
「撮影日誌8」

4月4日(金)
南インドのトリヴァンドラムからコルカタ経由、北東部のウエスト・ベンガル州ニュー・ジャルパイグリへ、2日がかりの飛行機移動。暑いインドから涼しいインドにやってきた。今日から世界遺産のダージリン・ヒマラヤ鉄道の撮影開始。

朝8時にニュー・ジャルパイグリ駅へ。線路端でたき火をしながらお茶を飲んだり食事をしたりする人、ホームの水飲み場で歯磨きや洗濯する人、野良犬や野良牛もいる。30年近く前に初めて出会ったインドが、ここにはあった。やがておもちゃのようなディーゼル機関車がやってきた。ダージリン・ヒマラヤ鉄道の軌道は61センチしかない。客車も背の高い人なら頭がぶつかってしまうほど小さい。世界中の鉄道ファンに「トイ・トレイン」の愛称で親しまれている由縁だ。出発前に事件発生。乗客の金を盗んだという男がボコボコに殴られていた。そして何事もなかったように列車は出発(予定より1時間以上遅れたが…)。

我々は車で追いかけながら列車の走りを撮影。スピードは自転車より遅いくらいなので、併走も先回りも比較的簡単。が、終着のカシアン駅に着いたのは午後4時頃。途中で撮影を止めるわけにもいかず、昼飯も食べず、撮影にいそしんだのであった。

4月5日(土)
今日はニュー・ジャルパイグリ駅から列車に乗り込んで撮影。朝方は小雨が降っていたが次第に回復。車内に南インドから観光にやってきた家族がいて、手作りのカレー弁当を食べ酒を飲み、歌を歌ったりしてにぎやかだった。車窓には雄大な風景が広がる。列車の旅で一番気持ちがいいのは、何といってもデッキから身を乗り出し風を浴びながら車窓を眺めているときだ。そんなことができる鉄道は世界でも少ない。そしてこの路線では、列車を走って追いかけタダ乗りをする子どもや大人たちが大勢いた。道端で列車を眺めるサルも撮れた。何だか巨大な遊園地の中を走っているように感じ、懐かしい気持ちにもなった。
 
ディレクター 福本 浩
ダージリン・ヒマラヤ鉄道
列車と遊ぶ人たち
遊園地の中のような街
「撮影日誌9」

 「世界の車窓から」の撮影をするにあたって何が一番大変ですか?と聞かれることがしばしばあるのですが、それは『移動』です。意外かと思われるでしょうが、移動をスムーズに行うことがよりよい撮影をすることにつながるのです。
 撮影機材は、三脚や、カメラ用のバッテリー、収録するテープなど約5〜6個ほどのジュラルミンケースにまとまります。それにスタッフの私物(撮影期間は約1ヶ月あるのでそれなりの大きさになる)を合わせると総重量が150キロほどにもなります。それを2〜3人のスタッフで捌くわけです。
 特に大変なのが列車への積み込み。インドでは基本的には駅にいるポーターに頼むわけですが、荷物の量を見て大体のポーターは嫌な顔をするわけです。「話が違う。多すぎる。自分達では運べない。」次々に文句をいい、運搬代を多くせびろうとします。大体の場合、少し料金を上乗せすればうまくいくのですが、交渉が決裂すると、自分達ですべて運ばなければなりません。インドでは駅にエスカレーターやエレベータは皆無といっていいほど。ホームも長く、運ぶのに10分以上もかかります。そして列車が到着すればわずかな停車時間の中ですべての荷物を積み込み、荷物の置き場所を確保しなければなりません。しかも驚くことにこの間『撮影』しているわけです。そのためカメラマン1人だけで撮影していることもしばしば。もしポーターとの交渉がうまくいけば彼らは荷物と人海戦術を使いほんの2〜3分ですべての作業をやってのけます。だから我々は1人が荷物をチェックしていればよいわけで、他のスタッフは撮影に集中できるし、時間と労力の節約にも繋がる訳です。
 それにしても、ポーターたちが荷物を線路にはさんだ向こう側のホームへ運ぶときのやり方がすごい。3人が1組になり、1人がホームに飛び降りて線路を横断し、向かい側のホームへよじのぼる。そしてもう一人が線路に降り、下から荷物を受け取って、向かいのホームにいるポーターの所まで運ぶのです。陸橋があるのですが、長い階段を昇り降りするのがいやなんでしょう。
 しかしこの運搬方法どうやらインドでは当たり前のことらしく、普通のおじさん、おばさん、お母さんまでもが子どもを抱きながら同じことをしているのです。すごい人になるとホームからホームへと自分の旅行カバンを投げて運搬するおばさんもいました。
 おそるべしインド!
 
ビデオ・エンジニア 清水正俊
荷物を運ぶポーター
荷物を投げる人
車内の子ども達
「撮影日誌10」

 インドにきて3週間以上。灼熱のインド南部を経て、ようやく涼しいダージリンへやってきたスタッフ一同。『世界の車窓から』のような長いロケになると、体調管理が何よりも大事です。体調管理の一番のコツは、仕事の後のうまい食事と一杯のビール!(ビールはただ飲みたいだけ)なのですが、ここへきて問題が発生。
 現地のコーディネーターから一言。
 「このあたりは鳥インフルエンザの汚染地区なので鶏肉は一切食べないでください。」(現地の人は普通に食べているが念のため食べてはいけないとのこと)インドで肉といえば鶏肉が一番ポピュラー。その他の肉もありますが、あまりレストランにおいていないのが現状。そのためダージリンに着いてからの食事は野菜のみ。そして拍車をかけるようにビールが飲める店は町に1軒あるだけ…。『毎日のように行っていた』なんてものではなく1日に2〜3回その店で食事をしていました。店員の人も初めのうちは親切に接してくれたのですが3日も経つと「また来たよ…」と呆れられる始末。
 しかし、そこに救世主登場!その名は『モモ』!インドの北部に位置するダージリン地方はネパールやブータンとの国境が近く、様々な人種や文化が入り乱れています。『モモ』は本来ネパールの料理なのですが、そのような土地柄のため比較的どこの店にも置いてありました。どのような料理かといえば皮の厚い餃子といった感じのもの。(肉はなし)蒸したものと油で揚げたものがありそれに辛いソースをつけて食べます。これが美味い。ビールに合う!ネパール料理に感謝。ただ、1週間近くも食べ続けていると『モモ』効果にも限界がきて飽きてきます。そこでカメラマンの中村さんが一言。「肉がたべたい!」実は、数日前に野菜のみの食事に限界を感じていた中村さんはこっそり鶏肉の入った料理を頼もうとし、現地のコーディネーターに怒られた経験があるため、今回はそのコーディネーターがいないときを見計らっていた様子。やってきたチキンカレーをスタッフみんなですばやく平らげ、コーディネーターが戻ってきた頃には、何食わぬ顔で野菜のカレーをつまんでいました。
 後日、現地在住の日本人の方と話す機会があり、1ヶ月近くインドにいてスタッフ全員1度もお腹を壊さなかった、と話したところ「そんな日本人一度も見たことがない!」と言われました。どうやらこの悲しき中年撮影隊とんでもない抗体を持っているようです。
 
ビデオ・エンジニア 清水正俊
モモと呼ばれるネパールの餃子
一面に広がるダージリンの茶畑
ダージリン・ティー
「撮影日誌11」

4月6日(日)
朝3時に起床。今日はタイガー・ヒルへ御来光を撮りに行く。
昨夜9時頃からカシアンのホテルは停電。よくあることのようで部屋には太いローソクが置いてあった。ローソクに火を点け、ホテルで用意してもらったポット入りのコーヒーとパンで朝食。なぜか突然、白い割烹着姿の母を思い出した。小さい頃、停電は日常茶飯事でローソクを囲んで夕飯を食べることがよくあった。母はいつも割烹着を着て家事をしていた。それで思い出したのかも知れない。記憶とは不思議なものだ。
カシアンから車で1時間半ほど行ったところにタイガー・ヒルはある。
標高は2585メートル。ヒマラヤ山脈に位置する世界第3位の山、カンチェンジュンガ(標高8586メートル)と御来光が望める絶景ポイントだが、気温は4度。風も冷たく恐ろしく寒い。こんな時間でも商魂たくましく熱いチャイを売りに来ていたおばさんに感謝。やがて朝日が昇る時間になったが、今朝は雲が厚く空を覆い太陽は現れなかった。落胆してホテルへ戻り、遅い朝食をとって休憩。( 2日後に再トライ。無事撮影できた)
午後はカシアンからダージリンへ向かう列車を追いかけながら撮影。
この区間は蒸気機関車が引っ張る。開業時から走り続けているイギリス製の蒸気機関車は世界最古のものだという骨董品。車体が軽く力も無いため、登り坂では機関車の先頭に立った2人の男が線路に滑り止めの砂をまきながら走る。それを併走しながら撮影したが、道が凸凹で狭く対向車も多いので苦労した。ダージリン到着は午後6時30分になり日が暮れてしまったが、夜に走る蒸気機関車の姿を見るのは初めて。幻想的で美しかった。

4月7日(月)
朝から快晴で暖かい。インドへ来て初めてのさわやかな1日。
午前中はダージリン茶を摘む女性たちを撮影。カンチェンジュンガを望む茶畑を狙い、車で片道2時間半もかけて行ったのだが、その姿は雲に隠れて見えなかった。
午後はカシアンからダージリンまで列車に乗り込んで撮影。
蒸気機関車の運転室は狭すぎて乗り込めず、後ろの客車から体を半分乗り出しながら石炭をくべる様子を撮った。山側は草木や家が車体ギリギリに迫ってくるのでタイミングが難しく、かなり危険な撮影だった。事故に遭った車が線路近くに放置され、列車が通過できないというハプニングもあった。スタッフと乗客が力を合わせ、車を持ち上げながら移動。いい光景に出会えた。
今回のインドロケ。
経済成長が著しいIT大国という姿を見ることはなかった。本当にそうなのかと思うぐらい。中国とは違い、インドはゆっくりと時間をかけて変わっていく気がする。一言では絶対に語ることができない懐の深い国。「車窓」が届けられるインドの姿は、ほんの一部にしか過ぎない。
 
ディレクター 福本 浩
ダージリン到着
ヒマラヤ山脈を一望して
タイガー・ヒルの御来光
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