世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
トップページ 放送内容 撮影日記 全国放送時間表 本ホームページについて
トップページ > 撮影日記ページ
撮影日記1

成田からウラジオストクまでの飛行所要時間は2時間15分。こんなに近くにヨーロッパ風の街並みで、しかも元・共産主義国(最近は社会主義国!とヒステリックに言い換える人もいる)があるなんて…というのが今回のロケの最初の印象。しかし空港から市内までが遠かった。夜8時到着だったけれど、空港からの道路周辺は真っ暗。町の灯りも街灯も見えない道を行く。いきなり感覚が違う、ロシアの時間と空間の中にハマった気がした。ウラジオストクが外国人に開放されたのはなんと1992年。ロケ初日、ウラジオストク港には太平洋艦隊だという軍艦が多く停泊しているし、潜水艦や砲台が町の中に博物館として残っていて、「ああ、まだロシアはまだまだソ連なんだなあ」と勝手な感慨を持ってしまった。

街中には日本車の中古が多く、トラックやバンには[○○運送]とか[□□□デンキ工事サービス]などという日本語の会社名が描かれたまま走っていた。ロケバスも日本車の中古。まあ今日一日の移動のためだから何でもいいけれど。
対照的にというか、「ウラジオストクの女性はみんな美しい」というのが町なかを撮影していて直ぐの、スタッフ全員の結論となった。老いも若きも美人が絶対的に多い。「今回のシベリア鉄道、全編を通して見たらロシアって美女が多いんだな」と視聴者に思わせる……これをコンセプトにしようと思わず馬鹿なことを口ずさんでいた。

「美人は、民族が住む地域の際に多いんじゃないか」と言うシショフさんは、いつもはハバロフスクに住むベテランのコーディネーター。一見怖そうな大男だけれど冗談やロシア小咄をよく口にする愉快な人だ。ウラジオストクからハバロフスクまで、最初のロシア号一泊乗車。コンパートメントの中での夕食中、自己紹介のつもりか、シショフさんは「62歳がロシア人男の平均寿命なんだけれど、私はもう51歳になっちゃったよ」と少し笑いながら言った。しかしすぐ後に、いま一緒に住んでいる女性が28歳だというのを聞いて、日本人スタッフ3人は「なんだよ、全く」と口を揃えて呆れた。

ディレクター 宮崎祐治
ウラジオストク港の風景
ウラジオストク駅の外観
車窓に見える夜明け前の風景
撮影日記2

ロシア号は翌朝、時刻表通り午前11時にハバロフスクに到着。午後からハバロフスクの町の様子を撮影する。「子供鉄道」は夏休みも過ぎていたので、子供の姿はちらほら。季節はもう過ぎていたようだ。子供たちが鉄道模型で遊ぶぐらいで、撮影にはならない。怖そうな女性校長に、明日には生徒をたくさん集めておくので明日もう一度来てくれと言われる。この校長にロシアではなぜ女性が多くの部署で働いているんでしょうか?」と聞くと「それはロシアの男がダメだからよ」というシンプルな答え。一緒にいたロシア鉄道局のエドは「そんなことは無いよ」と弱々しく反論していたが。

「ダーチャ」と言う言葉は口にするだけで軽やかな気持ちになる。ロシアでは一般的な「週末家庭菜園」の習慣。旧ソ連時代には、食料確保の最後の手段だったこともある自給自足の農作業といったところ。朝8時20分ハバロフスク発のダーチャに向かう列車を撮影した。駅に停車する度にドカドカ乗り込んでくる人々はいい顔をした老人が多い。古くからの習慣を大事に守り続けているのはどこの国も当然こういう人たちになるのだろう。

午後はロシア号の走りを撮るためのロケハン。ハバロフスクから一時間車で走った周辺で探す。突然カメラマンの中村健さんはトイレに行ってくると言って森の中に一人入っていった。
しばらくすると、胸までドロドロになって「首まで沼にはまっちゃったよ~。助けて~と叫んだんだけど誰にも聞こえなかったのかよ~」と半泣きで戻ってきた。みんな笑うしかなかった。この地方は湿地帯が多い。森の中も落ち葉に覆われ、雑草が生い茂っているのでどこが地面かどこが沼か踏んでみないとわからない。「底なし沼かと思ったよ~」その言葉に同行してくれたロシア鉄道局のエドさんも大笑い。辺りの沼は「中村沼」と名付けられ、「沼には気をつけろ」はロケの、この先の教訓にもなった。

ディレクター 宮崎祐治
ロシア号の女性の車掌さん
朝のハバロフスク駅
ハバロフスク周辺の湿地地帯
撮影日記3

なぜかハバロフスク駅正面には、唐突に「Вокзал=駅」とだけキリル文字で大きく書いてあり、駅舎の側面に回りこまないと「ハバロフスク」と書いてあるのがよく見えない。グリーンを基調にした瀟洒な駅舎。11時29分発ロシア号に乗車する前に駅周辺の様子を取材したが、この朝は小雪が舞う寒さ。駅を行き来する人はみんな本当に辛そうな表情をしていた。  ハバロフスクには結局4泊したことになる。私たちは、昼は3日続けて同じビュッフェ形式のドライブ・インで昼食を、夜は毎日同じロシア料理の店で夕食をとった。昼の店は、街道沿いの派手なナイトクラブの内装を改築した、タクシーの運転手らが立ち寄る「早い・安い・うまい」の便利な食堂。最近ロシアではビュッフェ形式の食堂が流行りだそうだ。夜もホテルから歩いて3分の場所にある便利な店。ロシアの一般的スープ、ボルシチやサリャンカがとても美味しかった。かように私たちロケ隊は、よく食べるけれど「メニューにはこだわらない」メンバーが揃った気がする。

「ぜひ撮影してください」「アムール川鉄橋歴史博物館」は、館長自らがハバロフスク駅前まで出迎えてくれるほど力の入れようだった。アムール川の川岸に作られた新しい施設は、世界中で私たちが最初に取材する外国人だといわれた。まだ建材の塗料の臭いがするぐらいピカピカの仕様で、一般公開は半月先だとか。屋外に展示されている昔の蒸気機関車などの歴史的車両も、きれいに磨かれていた。ソ連時代には軍事的に秘密とされたアムール川鉄橋の資料も多く並んでいるというけれど、その頃のことは私たち日本人が知る由もない。

車内で二泊するチタまでの乗車。コムソモリスク・ナ・アムーレという極東ロシア三番目の大都市からの客を乗せた三等車が、ハバロフスクから一番後ろに連結されて、私たちは乗客の表情が大いに撮影できるようになった。子供から老人まで「味のある顔の登場」ということでうれしい。カメラマンの二人、中村健さん、堀金さんは「三等車は車両の臭いまで違う」と口を揃えて言う。レンズをいきなり向けても、最初はテレもあるのか手で顔を隠したりしていたけれど、最後はいい顔で話しかけてくれたりする。「どこで放送するんだい」聞くことはどこの国の人も同じだ。

ディレクター 宮崎祐治
ハバロフスク駅の駅舎
アムール川鉄橋の資料
ロシア号の三等車の乗客
撮影日記4

私たちの「座席」は2等寝台のコンパートメント。撮影部は、多くの機材のため4人部屋を2人で使い、常時2段ベッドの上にその荷物を置いた。私とコーディネーターのシショフさんが、知らない乗客2人と相部屋になる。ロシア人と同室で寝るというのは、最初どんなものか緊張感があったが、結局いい人間ばかりだった。シーツや枕カバーは乗車するとすぐ車掌から配られるが、寝るとき自分でセットしなければならない。要領がわからない私に同室になったロシア人は、本当に親切にやり方を手取り足取り教えてくれた。穴の開いた日本の50円硬貨をくれないかとか、片言の日本語で話しかけてくるとかの他国でのロケと同じファーストコンタクトは当然あったし、「ロシア人は大酒を飲んで大イビキをかく」なんていうこっちの勝手なイメージが覆させられるほど、夜も静かで親切・温和な人が多いというれしい驚きもあった。

20分ぐらい停車する駅では、必ず食料の買出しをした。今回は車内で二泊するチタまでの乗車だったので、乗車する前に、ハバロフスクの大きなスーパーマーケットで食料を買出ししたのだけれど、昼・夜2回の車内の食事でほぼ大方をたいらげてしまった。「おかしいな。こんなに食べたかな」と思いながらも、大変なロケに対しての楽しみのひとつ、食事くらいはちゃんとしようと、停車駅での撮影はほぼカメラマン2人に任せて、物売りのおばさんやキオスクからの食料調達係りに私は徹した。列車を待ち受けて集まってくる物売りのおばさんたちは不法なので、カメラで撮影されることをとても嫌がるけれど、買ってもらうとなると商売しないわけにいかない。この辺の駆け引きがうまく出来ればいいのだけれど、言葉が通じないということで、なかなかそうは簡単にいかなかった。

キオスクではカップラーメンも多く買い込んだ。中国か韓国の安いものだけれど、スープ代わりになって、寒い国では重宝した。サモワールのお湯は熱い。火傷しそうになることもあるけれど、本当にこのお湯はロシア・ロケの有難いアイテムのひとつになった。宿泊したどの町のホテルでもシャワーをひねると出てくるお湯は、赤錆で真っ赤だったりジャリジャリだったり、なかなか熱くならなかったりのひどいものだったから(それでも体を温めたいから我慢してそのお湯の中に入ったけれど)、同じお湯でも私たちには余計に「サモワールのお湯」様様と思えたものだった。

ディレクター 宮崎祐治
夜のベロゴルスク駅
三色の車体はロシア号の印
特徴のあるデザインの駅舎
撮影日記5

子供の頃、国鉄(現在のJR)が「売店の名称を欧米やソ連などで使われているキヨスクと呼ぶことにする」というニュースが新聞に出たのを今でもよく覚えている。シベリア鉄道の各駅での食料の買出しは、ホームの物売りのおばさんたちとは別に、簡易な建物のキオスクですることもあった。どのキオスクも夜も照明はそこだけ明るい。しかし、ガラスの壁全面に商品を並べつくし、中の様子はほとんど見えないようになっている。25センチくらいの小さな窓口で客とのやり取りをするだけ。売り手の女性の顔も見えない。どこの町も、どこの駅も同じ形態だった。コーディネーターのシショフさんに「なぜこんな秘密主義みたいな商売をやっているのか。中に入って撮影させてもらえないのか」と聞くと、キオスクの経営は彼女達それぞれの個人経営で、ロシアの鉄道局の管轄の外。撮影はむずかしいという返事。私の子供の頃の儚い思い出は霧散された。残念。

私たちが乗ったロシア号の食堂車は朝10時を過ぎてもなかなかオープンしない。長い連結車両の中で食堂車はほぼ中央に位置し、ここが閉まっていると前後車両への往き来が出来ないという困った状況もあった。客の入りが悪いせいか私たちの顔を見るとマネージャーは不機嫌そうに何か言っていた。乗客の様子を丁寧に撮影していたカメラマンの堀金さんは「食堂車のスタッフは何でいつも怒っているんだろう」と言う。一度食堂車で、みんなで食事すると、これが打って変ってサービスも良くなる。しかもトマト風スープ「サリャンカ」が特別美味い。堀金さんも「料理はうまいんだけどなあ」と呟くしかなかった。

車窓の風景。窓が10センチしか開かないロシア号では、ガラス越しの撮影になる。窓が汚れていたり何重ものガラス張りだったりで苦労するのは、どこの国でも同じだ。しかし、連結されていた一両だけの旧式車両の通路側に、正に一箇所だけ窓が開くところを発見した!カメラのレンズが出せるぐらいの小さな窓だけれど、ガラス越しでなく直接撮影できる貴重な「窓」となった。撮影許可をしてくれた、その車両の女性車掌がとても「いい人」に見えた。木々の美しいフォルムも夕陽の光も「生」で撮れるのだ。後でその窓に近い乗客の「窓が開いていて寒いよ」という苦情があって、その撮影は時間制限を言い渡されたのだけれど。

ディレクター 宮崎祐治
停車中のロシア号
カメラマンの堀金さん
車窓風景
撮影日記6

チタでは、多くの結婚式と遭遇した。「ロシアにも結婚シーズンがあるのか」とシショフに聞くと、「ロシアでは10月の初旬の今を逃すと、すぐに厳寒の季節になる。その前にやってしまうんだよ」という答え。チタはシベリア鉄道で巡る町の中では比較的気温の高いところだけれど、やはり寒いのは寒いんだなあ。知らない人の結婚式だけれど、式に参加している人々の表情に、こちらの気持ちも晴れ晴れしくなり、親たちの涙を見るとさらに「お幸せに」と正直思うようになる。日本の結婚式とそんなに変わらないけれど、仲人ではなく「立会人」という制度があるようだった。式では準主役のような立場なのだけれど、その女性の方がものすごいスリットの入った際どいドレスだったり、濃い化粧だったりと妙に目立つ。結婚式はお国によっていろいろ。面白いモチーフだと思う。

チタの「ASIA」という看板を掲げる市場も印象深かった。
チタは中国語では「赤塔」と当て字で表記され、その名前がついた自由市場が大きな建物の中にある。丁度東京の中野ブロードウェイのような種種雑多の商品が小さな店舗にずらっと並んでいるマーケット。さらにその周辺の路地にオープン式テント張りの、バラック風店舗が群れのように建ち、アジアの各国から持ち込まれた無数の商品が並ぶ。こちらは上野のアメ横のようだった。怪しいけれど面白そうなものが多くある。しかし、私たちは撮影なのでゆっくり見たり買ったりするわけにはいかない。小雨気味の天気の中、アジア系の客だけでなく多くのロシア人が買い物を楽しんでいた。

チタはソ連時代から軍事施設があった町。今は自由な雰囲気の開放感に溢れていると感じた。レーニン広場を歩く若い女性たちはみんなオシャレで足取りも軽かった。石造りのチタ駅の中にはガラス張りのショウウインドウが50メートルぐらいずらっと並ぶ、不思議なキオスクの通路があったけれど、私たちに一番インパクトがあったのは「痰をはくな」や「水をたくさん出すな」という中国語が手書きで描かれた標識だった。ここも本当に中国系アジア人が多い……。シベリア鉄道は「ウラジオストクからここチタまで、中国国境近くをずっとずっと走って来たのだなあ」と改めて感慨にふけるのだった。

ディレクター 宮崎祐治
チタの結婚式
チタの市場
夜のチタ駅
撮影日記7

ロシア号に同乗している子供たちは、私たち撮影隊を珍しいものでも見るように興味を示すが、しばらくは一定の距離を置く。やがて近づいて来て、ロシア語で何か話しかけてくる。カメラの中村健さん、堀金さんはこの辺は慣れたもので、それに日本語で答えながら、彼らの表情を撮ってゆく。言葉が通じなくてもコミュニケーションは成立させているのだ。さて私はと言うと、得意の似顔絵を描いてあげて、彼らと仲良くすることにした。ペンでサッサッと簡単に描いたものだけれど、子供たちは大喜びで親に見せるために自分のコンパートメントに戻って行き、お礼にお菓子やシールを持ってきて私にくれる。似顔絵を描いてこんなに喜んでもらえることは近頃あまりなかったので、逆にこちらもつかの間の喜びをもらった気がした。

イルクーツクまで乗車した後、列車の走りと沿線の見どころを撮影するため、ロケバスでウラン・ウデまで戻った。約11時間のクルマ移動。ドライバーは機材や荷物をどんどん運ぶ「力持ち」の中年男性で、私たちは親しみを込めて、登山などで言うところの「強力(ゴーリキー)」と呼ぶことにした。助手席にはコーディネーターのシショフさんが乗った。移動は夜だったので、私たち日本人スタッフは後部座席でウトウトしていたのだけれど、和やかに何か話していた前の二人が突然殴りあいそうなぐらいの、まさに口角泡を飛ばす口論を始めた。「何、何? 何を揉めているの」と聞くと、「ゴーリキー」が「今のロシアは最悪だ。このままではまた革命が起こる」と言い出し、シショフさんはそれを諌めて大議論になったという。すぐにそれは治まって、二人はまた静かに会話していたけれど「ロシアはまだまだ熱いなあ」と感じた瞬間だった。ウラン・ウデに着き、巨大なレーニン頭部像が町の真ん中にドーンとあるのを見て、なんだか「ロシアは熱いなあ」と、再び思ったりした。

ウラン・ウデから車で30分、ロシアのチベット仏教の総本山イヴォルギンスキー・ダッツァンへ。砂漠の村に突然現れたような仏教寺院。副代表と広報の二人が一緒に施設をまわって説明してくれた。更に30分南に車で移動、ヂェシャートニコヴォという村へ。ロシア正教の古儀式文化を守る人々=セメイスキエの取材。民族衣装の素晴らしい歌や踊りを見せてもらう。考えると、この日はロシアの、対峙すると言うか両極の宗教文化を一気に撮影していたことになる。

ディレクター 宮崎祐治
ロシア号で出会った少女
ウラン・ウデのレーニン頭部像
ヂェシャートニコヴォの人々
撮影日記8

バイカル湖が、旅の折り返し地点だと思っていた。ウラン・ウデを出てから2時間、漸くバイカル湖が見えてくる地点に。しかし、俄かに湖畔には靄がかかり、はっきりと湖面が車窓からは見えない。なんだかがっかり。30分近く湖岸を走ると、どんどん雲が上がってきて、やっと青い湖面が姿を現してくれた。私たちは揃って「来たよー、バイカル湖―!」「バイカル湖はこれでなくちゃ!」と大声をあげていた。コーディネーターのシショフさんも「バイ~カ~ルゥコ~!」と変なアクセントで叫んでいる。同乗しているロシア人たちも車掌も何をそんなに喜んでいるのだろうという不思議な顔で、我々を見ていた。

後日、今度はヘリでバイカル湖岸を走るロシア号の空撮をした。バイカル湖西岸のスリュジャンカという街の空き地で、イルクーツクの空港から飛んでくるヘリと待ち合わせ。バリバリと大きい音でヘリがやってくると、地元の子供がどんどん集まってくる。この日は土曜日。ロシア号が走ってくるまでまだ少し時間があって、しばらくヘリが広場で待機していたせいか、大人も野次馬のように大勢やってきて、100人ぐらいが私たちをとり囲んでいた。ヘリがそんなに珍しいのか、近くで見たことがないのか。子供たちはヘリの中に入ってきそうな勢いだったが、時間が来て離陸。ロシア号の空撮は晴天に恵まれた。

バイカル湖周辺では列車の走りの映像も多く撮影、何度もロケバスで行き来した。前夜に雪が降ってこの日は晴天。白く美しい雪山が良く見える。クルマを停めて撮影しようと思ったけれど、ロシア号が撮影ポイントを通過する時間まであと少ししかない。「雪山は、モスクワまでこれから幾らでも見られるだろうから後で撮ろう」とカメラの中村健さんは言う。私もそう思い走りの撮影を優先したのだけれど、この後モスクワまで走っても雪山は見えてこなかった。いやはや。このスタッフ3人で以前ニュージーランド編を撮影した時、ヒツジはいたる所にいたので「車窓から見えるヒツジはどこででも撮影できる」とその映像は後まわしにした。ところが終点オークランド近くでいざヒツジを撮ろうという時になってヒツジが全くいなくて大慌てしたという経験をしている。ここでまた教訓をひとつ。「ヒツジと雪山は撮れるときに撮っておくこと」

ディレクター 宮崎祐治
バイカル湖とロシア号
出発前のヘリコプター
雪山は撮れるときに・・・
撮影日記9

バイカル湖岸鉄道の始発駅スリュジャンカに向けて、イルクーツクから列車で出発。朝の駅は私たちと同じく、バイカル湖岸鉄道が目的であろう乗客で賑わっていた。まさに観光列車といったところで、13,4歳の遠足の子供たちが朝から大はしゃぎ。アンガラ川の向こうに不気味なくらいの真っ赤な朝焼けを見ながら、8時にスリュジャンカに向けて発車。途中の山間を越えるころ雪が強く降って来た。このロケ初めての積雪。「朝焼けは天気が悪くなる兆し」はここロシアでも同じだった。10時40分スリュジャンカ駅に到着。真っ白な銀世界に、早速、遠足の子供たちはホームで雪合戦。

シベリア鉄道の歴史を辿るにつけて、いろいろ複雑で興味深い話が多い。鉄道建設のうえで特に難所といわれた旧路線を走るバイカル湖岸鉄道だけれど、一緒に乗車したロシアの子供たちはそんなことに我関せず、まったく遠足気分の大騒ぎ。添乗ガイドの解説説明もほとんど聞いていない。下車しての遺物見学も自分たちの写真撮るのに夢中だった。ロシアの少女たち皆それぞれがファッションモデルのようなポーズでシナを作っているのが面白い。日本でお決まりのピースサインなど決してしない。まるで自分が一番きれいに見えるのをいつも研究しているようだった。後で彼女たちの座席周辺を撮影したら、日本のファッション雑誌が多くあったのにはちょっと笑えたが。

バイカル湖岸鉄道撮影の一日もそろそろ終わり。私たちの隣の席でずっと撮影に協力的だったロシア人男性が、夕方終点に近づくに連れて、ウォッカの飲みすぎで酔って絡んで来るようになった。撮影の邪魔をするわけではなくゴキゲンでずっとカメラ脇で喋り続ける。ロシア語なのでコーディネターのシショフさんに相手を任せたけれど、終点のバイカル駅に着くまでに完全に出来上がっていた。列車を降りてアンガラ川を渡るフェリーに乗り込むと、今度は酔った女性が「私は日本人と結婚したい」とカメラの中村健さんに絡んでくる。帰り際、バスでイルクーツクに戻る両人とは笑顔で別れたが、バイカル湖岸鉄道は遠足列車というより酔っ払い列車の印象だった。

ディレクター 宮崎祐治
雪のスリュジャンカ駅
まるでファッションモデル
バイカル湖を臨む
撮影日記10

イルクーツクでは移動が多く、街全体をじっくり眺めることは出来なかった。バイカル湖から流れ出るアンガラ川は街をぐるっと囲むように流れ、近郊とつながる道路はあまり便が良くないようで、渋滞がほんとうに多い。番組では紹介できなかったけれど、イルクーツクから南東へ車で一時間、ポート・バイカルに近いところにある「木造建築博物館タリツィ」を取材した。屋外に18、9世紀のブリヤート人などの古い家屋を移築したり、当時の生活を再現したりの博物館。専任のガイドが一緒に廻って丁寧な説明をしてくれるが、寒い屋外、ついつい駆け足の撮影となった。その中で井上靖原作、大黒屋光太夫を描いた日本映画「おろしや国酔夢譚」(92)の撮影で使われたというセットが、そのままの形で残され、堂々と展示されていた。違和感ない完成度に驚かされる。

イルクーツクの北東、車で30分のところにあるラディシェフ墓地へ。シベリア抑留で亡くなった日本人慰霊碑を訪ねる。ロシア人の墓地がずーっと続く奥の森にひっそりと立てられている。日本語の文字ばかりか、何の表記もされていない2メートルほどの四角錐のグレイの塔。囲いがされている。あっと気づいた。墓石を訪れて撮影までさせてもらうのに花を忘れていた。慌てて日本らしい菊の花を買いに行ってもらって周辺を掃除して献花、そして手をあわせた。こんなところまで来て、なぜ彼らは死ななければならなかったのか。涙が出た。

列車の時刻表まわりは私が責任をもった。あとどれくらいで次の駅に着くかとか、時差が生じて時計を戻す事とかも、みんなに伝えた。シベリア鉄道はすべてモスクワ時間で表記されているからいちいち頭を整理しないと、咄嗟に今何時かわからない。列車の走りを撮るためにマリンスカヤと言う町で一泊。かろうじてホテルがあるようなところ。前夜、朝出発前の食事は9時からと言われた。その時間食堂に行くと「まだ8時よ」とマダムに言われて「あれーっ」ということになった。モスクワとの時差は4時間の地区だから私は間違っていないはずだと主張しても、確かに壁の時計もまだ8時だった。後で詳細なロシアの地図で確かめると何とこの地区は時差3時間と書いてある。恐るべし!ロシアの時差。

ディレクター 宮崎祐治
木造建築博物館
ラディシェフ墓地
ロシアの時差、恐るべし!
撮影日記11

ノヴォシビルスクでは逆取材というものを3件も受けた。
市の観光課が、私たちの取材先に根まわししてくれた代わりに――というのもあって地元テレビ局が鉄道技術博物館で、地元新聞社がノヴォシビルスク動物園で、市のブログが中央市場で、別々のカメラや記者が私たちの撮影に同行してきた。撮影しているのを横から撮影されるというのはちょっと気恥ずかしく変な気分。その上それぞれの記者から「ロシアの女性をどう思うか」「シベリアでどの都市が気に入ったか」など多くの質問をされた。「シブヤとはどんな町なのか」「なぜ、あなたたちは誰にもインタヴューをしないのか」など、つい苦笑いするしかないものまであった。

この町でコーディネ-ターが交代した。ウラジオストクからずっと一緒だったシショフさんが、モスクワから来たイーゴリさんになった。ここまでの3週間、撮影がうまくいかない時に「チャンスはまだあるよ」というシショフさんの言葉に私たちは何度救われたことだろう。ロシアの笑える小咄や面白い格言も教えてくれた。ロシア人らしい大柄の風体も、厳つい顔もいざ別れるとなると何とも愛らしく思え、寂しかった。夜、飛行機で自宅のあるハバロフスクに帰って行くシショフさんの足元は踊っているように見えた。イーゴリさんは陽気なシショフさんとは打って変わってインテリタイプの物静かな人。受け答えは冷静かつ的確、安心してモスクワまで付き合えそうだ。

イーゴリさんが依頼した地元ノヴォシビルスクの女性ガイドさんはものすごい勢いで喋り続けていた。私たちは観光旅行ではないので、ノヴォシビルスクの町のすべてを撮影するわけではないのだけれど、彼女はロケバスで移動する間じゅう、ずっと町のことを早口のロシア語で説明してくれた。ありがたいことには違いないが、コーディネーターのイーゴリさんは、それをすべて訳すことも無理らしく途中から無言になり、ロケバスのドライバーもじっと我慢の顔をしていた。私たちも彼女の高速のロシア語をただただ呆然と聞くしかなかった。まあ、ノヴォシビルスク動物園も中央市場も彼女の計らいで順調に撮影できたのだけれど。

ディレクター 宮崎祐治
逆取材
別れのノヴォシビルスク駅
ノヴォシビルスクにて
撮影日記12

エカテリンブルグの駅前にあるホテルは大きいけれど、随分古いものだった。コーディネ-ターのイーゴリさんは「エカテリンブルグはずっと工業の町で、観光用のホテルはまだまだ少ない。エリツィンはここの労働組合の書記長から大統領に登りつめたのだ」と話す。「そうか、エリツィンか。ここに観光というものがあまりないのも仕方ないか」と意味なく納得してしまった。「18世紀皇帝ピョートルが鉱物資源の土地を背景にこの町を作り、妻のエカテリーナの名前にちなんでエカテリンブルグとした」という定説はいくつかのガイドブックにも書いてあるけれど、町はその名前の割に「可愛げがない」という印象。ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世一家がロシア革命直後殺された場所に建てられた「血の上の寺院」なんて、名前からして生々しい感じだ。

マーフィーの法則というものがある。「うまく行かなくなる可能性のあるものは大抵うまく行かなくなる」という都市伝説みたいなもので、撮影現場でも時々「マーフィーの法則だ」と言ってうまく行かないのを諦めたりする。例えば、いい風景を撮っている時に限って、すれ違う貨物列車が手前を通過してしまう。しかもその車両が特別長かったりする。不可抗力だから仕方がない。
車窓からアジアとヨーロッパの境を示す「オベリスク」を撮る段になって、なかなかそれが線路際に現れてこない時、一瞬その法則が頭をよぎった。チャンスは数秒しかない。手前を列車が通過したらどうしよう。日本人3人がそれぞれのカメラを構えて、緊張している様子をロシア人の乗客はどう見ていたのだろうか。「オベリスク」がやっと見えた約5秒間の後、3人は「撮れた」「撮れた」「撮れた」という声を順に小さくあげた。

ディレクター 宮崎祐治
エカテリンブルグ駅
トラムにて
撮れた!〜オべリスク〜
撮影日記13

ノヴォシビルスク、エカテリンブルグと、しばらく近代的な大都市を巡ってきたシベリア鉄道。いよいよモスクワに近づき、車窓には教会や聖堂の建物がポツポツ見えてくる。歴史ある街が多いせいだろう。そろそろ車掌は各コンパートメントを廻ってシーツや枕カバーを回収し、乗客も荷物の片づけに入っている。後半あまり天気に恵まれなかったけれど、夕方モスクワを目前にして明るい太陽が出てきた。撮影させてもらった乗客みんなの顔に陽が当たって輝いて見える。いろいろ感謝の気持ちが湧いてきた。
さすがロシアの首都だけあって、通過する駅のホームには帰宅する人がホームに溢れ、道路も帰り車で混雑している。終点モスクワ・ヤロスラヴリ駅に到着した時、夕陽が雲間に当たって絵にかいたような空が、私たちの到着を祝ってくれているみたいに広がっていた。

モスクワでは、許可が厳しい赤の広場やクレムリンでも撮影した。赤の広場は観光客も多いので、そうでもなかったけれど、クレムリンはカメラが移動する度に、そこの警らが撮影許可証を確認に来る徹底ぶり。
モスクワにはモスクワという名前の鉄道駅は無い。大抵は行き先の都市の名前が駅名になっている。それを紹介するために、3つの駅ヤロスラヴリ駅、カザン駅、キエフ駅を巡った。しかし道路は朝から晩までひどい大渋滞だった。なかなか思うように移動できない。コーディネ-ターのイーゴリさんに「この混雑って、モスクワでも社会問題になっているんじゃないの」と聞くと、彼はいつもの余裕ある顔を、渋い顔にして頷いた。

モスクワ・ヤロスラヴリ駅では、ウラジオストク行き、下りロシア号の出発シーンを撮影した。夜9時25分。もう私たちは乗車しなくていい。楽な気持ちでいたけれど、ふとホームの女性車掌が目に入った。彼女たちの勤務は、ほかの乗務員と一緒でウラジオストクまでの6泊7日を往復して、半月後やっとモスクワに戻ってくるのだそうだ。あらためて「大変な労働だなあ」と思う。私たちと一緒に乗り合わせた彼女たちの顔がフラッシュバックする。「早く、乗車しなさい」「私を撮らないで」「お茶を飲みなさいよ」随分無理を言って撮影させてもらった気もする。
ロシア号はゆっくり走り出した。一ヶ月の長い間追いかけ続けた、ロシア国旗と同じ白青赤三色の車体が夜の闇に吸い込まれて行く。ロケは漸く終わりを迎えた。

ディレクター 宮崎祐治
ヤロスラヴリ駅
ニュースの特派員を真似て
ロシア号を見送る
ページの先頭へ
過去の撮影日記
オーストリア編撮影日記
オーストラア編の撮影日記が、宮部ディレクターから届きました!
スリランカ編撮影日記
スリランカ編の撮影日記が、中村ディレクターから届きました!