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撮影日記1

初めての車窓ロケは、手痛い洗礼から始まった。
ローマに到着して、まず知らされたのは「ストライキで列車が走らない」という情報。何でまたこのタイミングで…。実はイタリア鉄道は月に1度のペースでストライキがあるのだそうだ。しかも前日に発表…。テルミニ駅に行ってみると、運良く予定の列車は走るとのことで、ほっと一安心。ナポリ行きの高速列車エウロスター イタリア アルタ ヴェロチタは、最高時速300キロで走行し、今回唯一の食堂車もあるという事で、是非とも押さえておきたい。
列車に乗り込み、撮影を始めておよそ5分。血相を変えた車掌がすっ飛んできた。何と車内での撮影はダメだと言うではないか。そんなわけがない。事前に広報担当者に許可をもらっているはず。しかしこちらの話は一切受け入れられず、しかも「イタリア鉄道は全てダメ」と言うのだ。何てこった…。これが本当なら、もはやロケは成立しない。マズイ、マズイ、マズイ、何回頭の中で言ったことか。
次の日、担当者に同乗してもらい再挑戦。今度は二手に分かれ、車内は大ベテラン中村健カメラマンに託し、僕は突っ込み隊長の若手カメラマン堀金さんと列車の走りを撮りに行く。そしてドキドキしながら集合場所に行くと、健さんが笑顔でOKサイン!何とか誤解が解け、撮影出来たようだ。しかも運転席まで!その後食べたナポリピッツァは本当に格別だった。ウマイ、ウマイ、ウマイ!

ナポリからはヴェスヴィオ山周遊鉄道でポンペイ遺跡に向かう。イタリアは落書きが多いことで有名だが、この路線は特にすごい。激しく揺れる列車に四苦八苦しながら、30分もするとポンペイ遺跡に到着。ポンペイ遺跡は、紀元79年のヴェスヴィオ山の噴火により滅亡した古代都市の遺跡。遺跡の中には商店が建ち並び、その繁栄ぶりが窺える。パン屋や洗濯屋、売春宿まであるのには驚いたが、通りの壁に残された落書きにも驚いた。イタリアの落書き好きはここに端を発しているのか?
それにしても、ここの撮影は大変だった。何しろ総面積約66ha(東京ドームおよそ14個分)という広さを気温40度の炎天下ひたすら歩き回るのだ。最初はみんな「まるでロールプレイングゲームの一行のようだ」と笑っていたが、撮影を終える頃には膝が笑っていた。

初めはどうなるかと思ったこのロケも、無事1週間分を撮り終える事が出来た。どうやら南イタリアの澄み渡った青い空は、僕らの味方のようだ。

ディレクター 廣澤 鉄馬
ローマ郊外を走るエウロスター
顔がほころぶ堀金さん
ヴェスヴィオ山周遊鉄道の落書き列車
撮影日記2

列車はポンペイ遺跡を後にしてソレントへ向かう。この辺りは美しい海岸が続くリゾート地。バカンス客で賑わう車内は、子供は駆け回るし若者はサッカーし始めるしで大変な騒ぎなのだが、それがまた実に楽しげ。誰一人注意する人もいなければ、皆それを見てニコニコしているのがいい。つまり皆すこぶる陽気なのだ。
余談だが、以前江戸時代の日本を探る番組を作った事がある。江戸時代には様々な外国人が来日しているが、彼らの手記には我々が知る日本の姿と少し違った一面が書かれている。日本人はとても人懐っこく陽気で、とにかく幸福そうだったというのだ。誰かが笑い出すと理由も分からず周りも笑い出し、終いには大爆笑になっていたそうだ。僕がイタリアに来て感じた印象は、その外国人からみた江戸時代の日本の姿に近い。日本は開国を期にその様子が失われていったようだが、ここイタリアは今まさにそう感じさせてくれる。これは一体何なのかと感慨にふけっていると、列車は終点ソレントに到着した。
ここでは「ファットリア テッラノーヴァ(※)」というお店を取材した。ソレントはレモンの産地として有名で、そのレモンで作ったお酒リモンチェッロは街一番の名物だ。番組では紹介できなかったが、作り方も教えてもらった。まずレモンの皮を剥いて100%のアルコールに浸す。5日間程置いた後に水、砂糖を混ぜて完成。つまり梅酒のレモン版といったところ。簡単さに若干拍子抜けしたが、味見させてもらうと何ともさっぱりとしていて美味しい。かなりアルコールがきついので、お酒が苦手な僕には一口が限界だったが…。

さて、旅はナポリからバーリへと進むわけだが、車窓のロケで最も大変なのは、列車の走りの撮影ではないだろうか。ただでさえ列車の本数が少ないのに、その種類や車両の数など全く同じ列車が来るとも限らない。その上少しでも良いポイントで撮影しようと、あーでもないこーでもないと車で探し回る。ドライバーさんも大変だ。大概が時間ギリギリになり、重い機材を持って線路めがけて突っ走ることになる。しかも南イタリアにはトゲトゲのアザミがめいっぱい生えていて、それが容赦なく足を突き刺す。また石垣も多く、それを乗り越える度に、一体これは何の訓練かと思ってしまう。これまでも健さんが犬に噛まれたり、堀金さんのズボンのお尻がパックリ破れたりと、とにかく過酷なのだが、結局のところ、とても楽しませてもらっている。

(※)ファットリア テッラノーヴァ www.fattoriaterranova.it

ディレクター 廣澤 鉄馬
走りの撮影から戻るカメラマン
車内 女の子
ソレントに向かう列車
撮影日記3

バーリからアップロ・ルカーネ鉄道でマテーラに向かう。
マテーラは洞窟住居が広がる世界遺産の街だ。どの資料にもその景観の素晴しさが書かれていて楽しみな場所の一つだったのだが、イマイチ想像出来ないでいた。洞窟住居って一体何なのだ?到着してからもその疑問は晴れない。確かに石造りの家が多いが、普通の建物が並んでいる。

夕食後、ドライバーのドミニコに「ジェラートを食べよう」と誘われた。せっかくなのでロケハンも兼ね、コーディネーターの田渕さんと3人で行く事にした。どこか良い俯瞰が撮れる場所はないかと、大通りから一歩路地に入る。とそこで僕は本当のマテーラの姿を目にする事になった。
複雑に入り組んだ細い路地や階段。前方には地の底まで続いているかのような暗く深い谷、その上に広がる無数の穴。両側には人が住んでいるのかいないのか良く分からない石造りの住居。崩れかけた石像の陰から突然飛び出す黒猫。目にするもの全てが「ただもの」ではない。まさに異次元の世界だ。

途中で出会った地元のおじさん曰く、洞窟住居は元々自然に出来た洞穴を利用していただけだったが、徐々に石を積み上げて増築していったそうだ。おじさんも幼少期は洞窟住居に住んでいたそうで、その環境はそんなに悪くなかったらしい。でもそれはある程度裕福な家の話で、貧しい人達は相変わらず洞窟に住み続け、中には家畜と一緒に暮らす人もいたそうだ。しかもそれが1950年代まで続いたというのだから驚きだ。
おじさんの話が一向に終わらないので、途中から1人で歩きまわり、いつしかジェラートの事など忘れ、そして来た道も忘れてしまった。おかげでホテルに戻ったのは夜中の1時。恐るべしマテーラ。

次の日、昨晩うろついた場所へ撮影に行った。今度は崖の上の洞窟住居群に近づいてみる。そこには人の姿は全くなく、洞窟の入口は鉄格子で塞がれ、正真正銘の廃墟となっていた。撮影して歩くうちに、鉄格子のない洞窟を発見。恐る恐る中に入る。ひんやりと湿った空気。壁に生えた苔の匂い。一瞬ぞくっとした。中は四角く削られ、2部屋に分かれている。入口付近には台所らしき場所もある。紛れもなくここには人が住んでいたのだ。入口に張られた見事な蜘蛛の巣から察するに、長い間ここには人が入っていないと思われる。貴重な映像が撮れた。
車窓ロケはこうしたその場その場の発見がとても多い。それがこのロケの醍醐味である事を、この時実感した。

ディレクター 廣澤 鉄馬
アップロ・ルカーネ鉄道
マテーラの景観
廃墟となったサッシ
撮影日記4

さて、ロケもいよいよ中盤戦。
イタリア半島の足裏、ちょうど親指の付け根ぐらいだろうか、カタンザーロという街に立ち寄った。ただ中継地点だからという訳ではない。この街にはイタリアならではの名物があるのだ。それは、ペペロンチーノ。ここの人達はとにかくペペロンチーノが大好き。至る所に唐辛子が干してあり、一風変わった光景が見られる。
…のはずだったのだが、いざ行ってみると、お目当ての物はどこにもない。それもそのはず、唐辛子の収穫は1、2ヶ月先とのこと。さてどうしたものかと上を見上げると、真っ青な空に太陽がギラギラ輝いている。見続けていると目から煙が出そうなので、横を見る。とそこには太陽に負けない位ギラギラ目を輝かせた健さんと堀金さんが。何か代わりのネタはないかと探してくれているのだ。いやぁさすがだ。…なんて感心している場合ではない。
それならばと、この街のもう一つの名物、ケーブルカーを見に行く。といっても、たまには違う乗り物でも…という程度に考えていたのだが、どっこい、これがただのケーブルカーではなかった。
この街は市街地が山上にあり、郊外との行き来はどうしても車に頼らざるを得ない。そうなると問題になるのが、排気ガスによる大気汚染。その対策として開通されたのが、このケーブルカーだ。しかし、排気ガスは出なくても多大な電力を必要とする。そこで設置されたのが、発電システム。車両が坂を下る力を電力に変えているのだ。「このシステムのおかげで、走行に必要な電力をほぼ補えているんだ」と誇らし気に話す関係者が印象的だった。

思わぬ収穫を得たカタンザーロを後にし、向かった先は半島のつま先部分に位置する街、ヴィッラ・サン・ジョヴァンニ。ここでの楽しみは何と言ってもトレインフェリー。駅を出発した列車は、そのままフェリーに乗り込みシチリアへ渡るのだ。これがおかしなもので、シチリアまでは出航からおよそ20分程なのだが、列車を積み込むのに30分以上を要する。もちろん普通のフェリーも運行しているので、時間がないという人はそれに乗って行けばいいのだが…。
それにしても、ゆっくりと列車をフェリーに積み込んでいく風景は、圧巻のひと言。しかも特別に許可を頂き、船内からその様子を撮影することも出来、感謝のひと言。
話によると、将来的には橋が架かるらしく、あと数年したらこの風景も見られなくなってしまうそうだ。何とも寂しい話だ。

ディレクター 廣澤 鉄馬
カタンザーロのケーブルカー
車窓から見えるシチリア島
トレインフェリー
撮影日記5

シチリアは本土とさほど離れていないが、どこか雰囲気が違う。四方を海で囲まれている為、様々な国からの侵略に遭い、いろんな文化が混在しているからだろうか。
ただ相変わらず日差しの強さは変わらない。むしろ増している。ロケ前は真っ白だった僕の身体も真っ黒だ。健さんも元々の黒い肌に一層磨きがかかり、堀金さんに至ってはもはや暗闇で探し出すのは困難だ。
ちなみにロケが始まってからまだ一度も雨が降っていない。常に快晴だ。その為草木は乾燥し、山火事が後を絶たない。しかもシチリアには油分を多く含むユーカリの木がたくさん生えており、それが火の回りを早めているそうだ。
シチリアで最初に訪れたタオルミーナでも、あちこちで煙があがり消火作業用のセスナが海と山を往復している。このセスナは機体の下にタンクが付いており、海面すれすれを飛んでタンクに水を入れていく。一大事とはいえその光景は美しく、すっかり見とれてしまった。

次に向かった先はカターニャ。カターニャはヨーロッパ最大の活火山エトナ山の麓に広がる街で、至る所に噴火の傷跡が残っている。建物には溶岩が使用されており、災害を生活に利用する力強さを感じる。そしてもう一つ、この街には森本選手が所属するサッカーチームがある。ここでの森本選手の人気は絶大だ。イタリア人は基本的に日本人に友好的だが、ここは特に顕著で、ここから乗ったエトナ山周遊鉄道もとても協力的だった。「こっちへ来てみろ」「こんなのはどうだ?」と何人もの人が話しかけて来る。ありがたい事だが、その駅員の多さには驚かされる。小さな駅にざっと7、8人。制服を着ている人は分かるが、少し離れた所で古い線路の切り替えレバーと格闘している私服の人は、一見いたずらをしている様にしか見えない。
この人はこの切り替え作業を主な仕事にしている。見ているとレバーがさびついているらしく、なかなか動かない。大丈夫かなと心配になるが、決して誰も手を貸そうとはしないし、その人も助けを求めようとはしない。例えその為に列車が遅れてもだ。みな彼を信頼しているし、彼もその仕事を誇りに思っているのだ。無事に終わると誇らしげにバールに行ってエスプレッソを飲む。
ここでは仕事の効率などは二の次で、それよりも人を大切にする思いの方が強いのだ。だからこそどんなに小さな仕事でも皆情熱を持って取り組んでいる…ように思え、何だか心に熱いものを感じた。

ディレクター 廣澤 鉄馬
消火作業用のセスナ
エトナ山周遊鉄道
カターニャ・ボルゴ駅 線路切替
撮影日記6

何でも日本と比べるのは良くないかもしれないが、イタリア人は日本人に比べ、自我がはっきりしている様に感じる。いや悪い意味でなく。イタリアはホームが低く、簡単に線路を渡れてしまう。もちろん禁止されているのだが、急を要する時など許可をもらい渡らせてもらう事がある。しかしその事を知らない他の駅員は、それを見てすごい剣幕で怒る。説明するのだが、「あいつは許可したかもしれないが、私は許可していない!」という具合だ。そこに上下関係は存在しない様で、上が何と言おうと自分の信念を曲げようとはしない。程度にもよるが、実に素晴しい意識を持っている。
ただこうなるとなかなか許してくれないので結構厄介。ちなみにそんな時は、両手を合わせて「ごめん、ごめん」をすると、嘘のように静まる。というか、受ける。イタリア人にはその格好がとてもユーモラスで、つい笑ってしまうみたいだ。

またイタリア人の多くは英語が話せない。駅員は原則的に話せないとダメらしいが、ほぼ通じない。僕の英語力に難があるとも言えるが。だから無理に英語を話すより、日本語で言った方がニュアンスが伝わりやすい場合もある。イタリア人は日本語を良く知っていて、「チョウシハドウデスカ」「イタリア、スゴイキレイ」とか話しかけてくる。アルベロベッロに行った時は、土産屋の前を通る度に、「ミルダケミテッテ」と声をかけられた。シラクーサの市場に行った時は、「チョイナ、チョイナ」。何ともレアな日本語を知っているものだ。それだけ日本人観光客が多いという事もあるだろうが、恐らく単純に日本に興味を持ってくれているのだろう。

イタリアでは日本のアニメが人気の様で、テレビで良く流れている。だいたいがイタリア語に吹き替えられているのだが、結構忠実な物もあって面白い。テレビをつけたまま寝てしまった翌朝、遠くで「おしおきだべぇ~」という声がした様な気がして目を覚ますと、ドロンジョたちが必死で自転車をこいでいた。実際には「おしおきだべぇ~」もイタリア語で言っていたのだと思うが、そのギャグセンスを十分に理解していると思われる。
あまりにも今更な話だが、国や環境が違えど本質的な部分は共有できるのだと改めて実感する。列車に乗っていても、乗客の様子を見ていると撮影のヒントが隠されている。見ていて、何かあったかな?と思うと、やっぱり何かある。いやこれも今更な話ではあるが、この実感は結構大きい。

ディレクター 廣澤 鉄馬
エトナ山周遊鉄道 溶岩地帯
乗り合わせたボーイスカウト達
ラグーサに向かう列車
撮影日記7

シチリアに入ってから、新型車両が走っている事には気付いていた。というか、むしろそれを見かける事の方が多い。走りを撮影する時、かなりの確立で出現する。おかげで狙いの列車が撮れず、ここ数日半泣き状態だ。
だがそれはまだ良い。それよりも不安なのが、いざその車両に乗る事になった時だ。なぜならその車両は窓が開かないからだ。これまでも、バーリからターラントまで乗車したスッド・エスト線や、本土からシチリアへ渡りシラクーサまで行ったインテルシティでは、窓が開かず大変苦労した。窓が開かないとどうしてもカメラの視界が狭くなってしまうのだ。だから皆それには乗りたくないと思っていた。

得てして、嫌だと思っている事は起きてしまうものである。カニカッティ駅でアグリジェント行きの列車を待っていた僕らの前に、そいつは現われた。ただ、撮影には向かないというだけで、この車両は結構すごい。イタリアのデザイナーの中で間違いなく最高峰に君臨しているであろう人物、ジウジアーロが手がけた列車なのだ。彼は、マセラティやアルファ・ロメオ、フォルクスワーゲンなどの車をデザインした正真正銘の巨匠だ。確かにデザインは洗練されており、ローカル列車でありながら車内は実に快適な空間となっている。
ただ何度も言うが、窓が開かない。黒いフィルターがかかっているので一見綺麗に見えるが、カメラ越しに見ると汚れで景色が全く見えない。僕が機材を車内に運んでいる間に、カメラマンの健さんが急いで窓の汚れを拭きにかかった。そして何やら僕に向かって叫んでいる。窓越しの声はほとんど聞こえない。でも僕には何を言っているか分かる。「どこを拭けばいい?」と聞いているのだ。もう経験済みである。早速、僕は汚れを指差して行く。

夢中でその作業を繰り返している内に、ふと気付くと発車まで後1分になっていた。まずい。健さんに指で合図を送る。「健さん、後1分です!」。しかし健さんはその指の先を必死で拭き始めた。「いや違います!後1分で発車!」。
気づいた健さんが急いで窓を離れ、ほどなくして列車が発車。でも健さんの姿が見当たらない。健さんがいたのはホームの反対側だった為、乗り遅れてしまったのだ。すいません。僕の中途半端な合図が原因です…。

という事で、カニカッティからアグリジェントの車窓は僕が撮りました。健さんが必死に拭いてくれたおかげでキレイに撮れたと思います。きっと…。

ディレクター 廣澤 鉄馬
新型車両の車内
アグリジェント駅に並ぶ新型車両
アグリジェント近郊を走る新型車両
撮影日記8

さて、日々のハードなロケを支えるものと言えば、やはり食事ではなかろうか。その点イタリアは恵まれている。美味しさについては言うまでもないだろうが、その量も半端ではない。イタリアでは、アンティパスト(前菜)、プリモ・ピアット(パスタやリゾット)、セコンド・ピアット(魚、肉料理)を食べるのが基本。まぁ一つだけ頼む事もあるが、一応マナーとして極力全て頼む様にしている。気付くと皆ちょっとぷっくりしてきた。
そしてシチリアに入ったぐらいからだろうか。イタリア料理に少し飽きてきた。と言うか醤油味が恋しくなってきた。でも南イタリアは言ってみれば田舎の地域。和食や中華のお店なんか無い。
そんな時パレルモに中華料理店があるという情報が入った。それからというもの、頭から中華が離れない。いつしかパレルモで中華を食べるのが一つの目標になっていた。
そしてパレルモを待ちわびていた者がもう1人。シチリアのドライバーを務めるトトだ。彼は僕から見るに典型的なイタリア人。身体はがっちりとしていてとても陽気。少しとぼけていて憎めない男だ。彼の出身地はパレルモ。中学生になる息子と小学生の娘がいる。家族をとても愛していて、シラクーサ辺りから、早く家に帰りたいと駄々をこねていた。

いよいよパレルモに到着。ここはシチリア随一の食の都だ。海と山に囲まれ、食資源が豊富。歴史的にもフェニキア商人が交易の拠点としていた事もあり、食文化が発達した。その街で中華を食べるとは、何て情緒のない事をしたものだと思うが、まぁそれは水に流させてもらう。
トトの喜びも相当で、ロケが終わると友達がパーティーを開いてくれると言って、そそくさと帰って行った。

翌朝、彼は30分遅刻した。道が混んでいたと言い訳していたが、明らかに寝坊だ。償いのつもりか、その日僕らを夕食に招待してくれた。本当に憎めない男だ。
行ってみると、驚いた事に親戚一同が集まる大パーティーが用意されていた。ここではそれが当たり前だと言う。楽しい事は皆で楽しみ、皆で楽しめば楽しさも倍増じゃないかと。イタリア人が陽気だと言われるその真髄を見た気がした。

その夜は本当に楽しかった。言葉も通じないのにいろんな会話をした気がする。料理の美味しさを共有し、子供たちのかわいさ、夜空に輝く星の綺麗さ、そこにある全てを共有できた。おかげでとても貴重な時間を過ごす事ができ、そしてイタリアをもっと好きになった。

ディレクター 廣澤 鉄馬
トト一族との夕食
パレルモの市場
パレルモに向かう列車
撮影日記9

パレルモ空港、カリアリ行きの飛行機に向かうバスの中がにわかにざわめきだした。「リアリィ?」「オーマイガー!」。前方を指差して頭を抱える人達。何事かと目をやると、そこには何とも頼りない小さなプロペラ機が。バスは2台。どちらも満員状態で、しかも皆たくさんの荷物を持っている。プロペラ機をもう一度見つめた。到底乗り切れるとは思えない。マンマミーア。
そうしてサルデーニャの旅が始まった。
飛行機は無事、というか無理矢理飛んだ。荷物は入りきる訳もなく足下や膝上、通路にまではみ出していた。安全上どうなの?と思うが、ともかくサルデーニャの地に辿り着いた。

サルデーニャはイタリア半島の西に浮ぶ美しい島だ。四国を一回り大きくした程で地中海でシチリアに次ぎ2番目に大きい。しかし情報は極端に少なく、一言で言うと『謎の島』だ。数少ない資料にも「謎多き島サルデーニャ」とか書いてあったりする。
では一体どんな所なのか。
時は遡る事40万年前。サルデーニャ先住民となる人々が住み着いた。その後、紀元前1800年頃からヌラーゲ文明が発達。ヌラーゲとは大きな石で造られた円錐形の建造物だ。島内に7000個以上あるとされておりサルデーニャの象徴となっている。だが資料はほとんど残っておらず謎に包まれたまま。この文明がサルデーニャの基礎となり、後に訪れるミケーネやフェニキアの商人、またカルタゴやローマの支配による影響を受け、独自の文化が育くまれてきた。
以降サルデーニャは様々な勢力による侵害の歴史を辿るが、一方で自分達の文化を守ろうとする意識が根付き、今も多くの伝統が息づくイタリアの秘境的存在となっている。

何となく背景が分かっても、車窓的に何が撮れるのかイマイチ想像つかない。とにかくロケをしながらネタを拾うしかない。
謎を紐解くつもりでカリアリの街に繰り出した僕らだが、逆に不審者として警察に捕まってしまった。前にも書いたがこういう時イタリア人はとても頑固。言い訳無用の強制連行となってしまった。疑惑が晴れたのは1時間後。予定の列車にも乗り遅れ初日からバタバタだ。
思えばローマを出発した時も大変だったが、その時に比べると僕も少しは成長したかも。今ではこういうハプニングを楽しめる様になった。と言っても半人前から4分の3人前になった程度だが。とにかく今後どんな事が待ち受けているか心が躍る。

ディレクター 廣澤 鉄馬
カリアリの街
サルデーニャ鉄道の列車
ヌラーゲ
撮影日記10

「伝統が色濃く残る島」サルデーニャのキャッチコピーの一つだ。でも一言に「伝統」と言ってもただ撮影していて映りこむものでもない。確かに山中の村などに行けば昔ながらの生活が垣間みれたりするが、それはつまり日本の田舎暮らしと意味合いは変わらない。ではどうすればいいか。
僕なりの答えとしては、要するに「伝統を残そうとする意識」が大切で、その意識は表情となって現われる。例えばお祭りに参加する人の表情や、民族衣装を着た時の表情を撮影する事は出来ないだろうか。
しかしそう都合良くお祭りや行事がある訳ではない。ロケ前にもしつこく調べたが、予定に合致するようなものは見つからなかったし、サルデーニャから仲間に加わったドライバーのイヴァンも知らないと言う。僕は半ば諦めていた。

ロケも三週間が過ぎ、多少疲れが溜まってきていたので、その日は早めに切り上げホテルに向かった。マンダス近郊にある普通の安ホテルだが、プールが付いていてなかなか良いホテルだ。
部屋に入って10分程してからだろうか。帰宅したはずのイヴァンから連絡が入った。「民族衣装を着た集団がいる!」。何の集団なのか、どれ位の人数なのか詳細は定かではないが、何やら良い予感。慌ててカメラマンの健さんと堀金さんに伝えに行くと、二人は早くもプールで泳いでいた。う~ん、さすがだ。その行動力に感心していると、あっという間にカメラを持って部屋を飛び出して行った。う~ん、たのもしい。

現場は警察も出動する程の混雑ぶりを呈していた。皆民族衣装に身を包み、楽し気な雰囲気が漂っている。毎年夏に行なわれる「サンタ・マリエッダ(サルデーニャの方言でサンタ・マリア)」のお祭りだそうだ。程なくして行列の行進が始まった。マリア様の像を掲げ、民族楽器を奏でながら丘の上の教会まで夕暮れの街を練り歩く。行列に参加している人はもちろん、行列を見に訪れた人、たまたま通りすがった人までもが、真剣で、厳粛で、誇らし気な表情を浮かべている。撮りたかったものがそこにはあった。大人だけでなく子供までもがしっかりと主旨を理解し、歴史・伝統を理解して参加しているように思えた。
教会に辿り着くと、パパパンと花火が打ち上がった。日本の花火と比べると、何とも小さく儚いものだったが、僕だけでなく、恐らく健さんも堀金さんもコーディネーターの田渕さんも、皆その小さな花火に見とれてしまった。

ディレクター 廣澤 鉄馬
祭りの宗教行列
通りにハーブを敷き詰める
教会までたどり着いた行列
撮影日記11

サルデーニャ第二の都市サッサリを出発した列車は、最終目的地オルビアに向け走り出した。車窓には牧草地や田園の風景が広がる。南イタリアを巡ってかれこれ1ヶ月。見慣れたけど見飽きない風景だ。1両しか無い列車の車内。乗客もまばら。カメラマンの健さんと堀金さんは一通り車内を撮り終え、車窓の撮影に専念し始めた。つかの間の静けさが漂う。

旅を振り返る。ローマ出発からいろいろあった。毎日が試行錯誤、判断、選択の繰り返し。何一つ上手く行かなかった様にも思うし、全てが上手く行った様にも思う。確実に言える事は、楽しかったという事。目的地に設定した街や遺跡もさることながら、やはりそこに行き着くまでの道中が何よりも楽しかった。
「人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである」
『イタリア紀行』を書いたゲーテの言葉だ。なるほど、分かる気がする。

出発からおよそ2時間。いよいよオルビアまであと1駅となった。荷物をまとめて降りる準備をしていると、「うわっ汚ね!」と言う健さんの声が聞こえてきた。南イタリアを走る列車のトイレは、ほとんどが垂れ流し。窓から身を乗り出して撮っていると、よくおしっこが飛んで来る。僕なら悲鳴をあげそうな事だが、健さんはもう慣れっこの様で、冷静にレンズを拭いている。そう言えば先ほど僕もトイレに行った。なんて健さんに言えないなと思いつつ、その様子を見ていた。健さんは何度も何度もレンズを拭き拭きしている。あまりにその頻度が多いので、「どんだけ大量のおしっこが飛んで来るんですか」と突っ込もうとしたその時、健さんが驚いた表情でこちらを見て言った。「雨だ」。

丸1ヶ月ずっと降らなかった雨が、ここに来て降り出した。まるで思いだしたかの様に。何と劇的な雨だろうか。他の乗客たちもその意表をつく雨に、ポカンとしている。自然に口もとが緩み、同時に涙腺も緩んで来た。雨に泣かされるロケはあっても、感動して泣きそうになった事が今までにあっただろうか。初めての車窓ロケでずっと緊張しっ放しだった僕と同じ様に、ずっと僕らの為に青空を見せてくれていたお天道様が、最後の最後にふっと気を緩めた様な、何だかそんな感じがした。

まぁ言ってみれば、異国での旅という事で多少の色眼鏡がかかっていたのは事実だが、それを踏まえたとしても、素晴しい旅を演出してくれた現地の人々や取材協力者たち、そしてイタリアの地に心から感謝する。

ディレクター 廣澤 鉄馬
オルビアまでの車窓
車内の乗客
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