世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
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撮影日記1 「Buck in the 元 USSR」

2001年「車窓」で初めてロシアに足を踏み入れた時、違う星にワープしちゃったと思った。私にとっては初めての旧共産圏で、しかも、洗練されたスカンジナビア・デザインの国、フィンランドから列車で入ったせいか、その落差にパニックになってしまった。フィンランドは国全体の人口が500万人ほどなのに、最初に降り立ったサンクト・ペテルブルグは、人口500万人!街もデカイが、人も多い。列車が到着すると軍歌みたいな曲がホームに流れるし、田舎に行くと馬車が走っているしで、「ここはどこ?私は誰?」と、頭の中がグルグルしたものです。しかし、ロシアをはじめ旧ソ連というのは、底知れない魅力があります。あまりにも想定外な出来事が連続し、「あれは、何だったの?」と、帰国してからも旅の思い出の消化不良に陥ってしまいました。そして、知れば知るほど好きになってしまいました。「旧ソ連に行きたい、旧ソ連に行きたい」と囁きつづけて8年。念願叶って、Back in the 元 USSR!ロシア、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア、エストニアに行けることになりました。ほくほく。8年ぶりのロシアは、かなり変貌を遂げていました。ロシアはサウジアラビアに次ぐ産油国。原油高の影響で、見るからに景気が良さそう。モスクワは灰色の街だったのに、あっちもこっちも工事中。推測するに、ロシアの人々も素っ気ない集合住宅が実はイヤだったのかもしれない。外壁は色とりどりにリノベートされていました。前にモスクワに泊まった時、ホテルでお風呂にお湯をためていたら、サビを含んだ赤いお湯が出て、「ギャー、首都なのに〜!」とビックリしたのですが、今回はそんなこともナシ。建物こそロシア・アバンギャルドなドドーンとした造りだったけど、内装はエレガントになっていたりして…。ちょっと、拍子抜け。それから車がやたら増えて、モスクワはいつも交通渋滞。コーディネーターのエテリーさんによると、好景気になって、みんなが車を持ちたがるようになった結果だそうです。リムジンから日本車まで、高級車がいっぱい。でも、列車大国であることは今も変わらず。懐かしの緑の列車を目にしてウキウキ。今回の旅の供は、2001年に一緒に旅をし、ロシアの虜になってしまった撮影の辻智彦。撮影助手は、ルーツが新潟で、ロシア人の血が入っているのではないかと思わせる顔立ちの佐藤君。珍道中のリポートをお楽しみに!
 
ディレクター 中澤洋子
懐かしの緑の列車
クレムリン
ポクロフスキー大聖堂
撮影日記2 「トルストイとモスクワ・エクスプレスとダーチャ」

まず乗車したのは、モスクワと文豪トルストイの故郷を結ぶ「ヤースナヤ・ポリャーナ号」。特別列車だからといって、トルストイファンだけが乗っている訳ではなく、家に帰る人や親戚を訪ねる人が多かったので、「トルストイを読んだことがありますか?」と聞いたら…、爆笑されました。一人ぐらい読んでない乗客もいるだろうと、しつこく聞いてみたのですが…、そんな乗客は一人もいなかった!日本では夏目漱石がお札になっているけれど、実際に読んだことがあって、しかもストーリーが脳内にしっかり刻まれている人がどれだけいるでしょう?ロシア人はですねえ、「イワンのばか」から始まって、「戦争と平和」まで、国語の授業でしっかりトルストイを勉強するらしいです。車両には、トルストイの格言や写真が飾ってあり、ロシア人にとってのトルストイの存在の大きさを、まざまざと思い知らされた次第です。次に乗車したのが「モスクワ・エクスプレス」。我々が目指すのは、「車窓」では初めて紹介するベラルーシ。空は快晴。ヤッホー!と喜んだのも束の間、難題に襲われました。白い物体が、フワフワ舞っているのです。エテリーさんに尋ねると、正体はポプラの花粉。カメラにはどうしても写ってしまうし、何より目も鼻もムズムズ痒い!私はとっとと車内に避難したけれど、撮影部の二人は車窓を撮りながらクシャミを連発。目は真っ赤、洟は垂らしているし、ああ、悲惨。それからこの沿線には、ロシア人の菜園付き別荘、ダーチャが多いと聞き取材。ダーチャ、ダーチャ、憧れのダーチャ♪我々が訪ねたのは、ウラジミールさん夫妻のダーチャ。0.8ヘクタールもあります。摘みたての苺をパクパク。ピンクの芍薬も咲いていてキレイ!お家も木造で可愛い!ダーチャはソ連時代、都市で窮屈な集合住宅に住まわせる代わりに、政府が安く与えた郊外の土地に、それぞれが建てた別荘。国土が広いからこそ、なせる技ですなあ。ロシア人は金曜日になるとダーチャに行きたくてウズウズし、月曜日は休みボケで遅刻する人が多いそうです。実際、道路を見ると、金曜日はダーチャ渋滞。ウラジミールさんのダーチャでは、キュウリ、レタス、ジャガイモ、ニンジン、トマトなど、あらゆる野菜を育てていました。そして冬が長いから、保存食を作る訳です。特に美味しかったのが、自家製の白ワイン!まるでシャンペンみたい!苺ジャムも素晴らしい!スープもサラダも最高!ああ、私もダーチャがほしい。
 
ディレクター 中澤洋子
ヤースナヤ・ポリャーナ号車内
モスクワ・エクスプレス
ダーチャ
撮影日記3 「シャガールの故郷・ベラルーシ」

岡部プロデューサーからは、ロシアとバルト三国に行きたまえ、との指令がくだっていたが、私はベラルーシも加えたいと伝え、希望が叶った。「車窓」では、まだ独立国となったベラルーシを取材してないし、何よりも大好きなシャガールの故郷だったから。大学時代の親友はシャガールが卒論で、二人で展覧会に行きフガフガ語り合った。大学の先生はソルボンヌで教えていた時代にオペラ座でシャガールに会ったことがあり、教室にはリトグラフが飾ってあった。だから、シャガールの故郷、ベラルーシのヴィテブスクは、一度は行ってみたい憧れの場所だった。ヴィテブスクは、サンクト・ペテルブルグの南にあり、列車でダイレクトに行けるが、我々はモスクワからベルリン行きの急行に乗り、オルシャで乗り換えて到着した。ヴィテブスクは思いのほか大都市で、近代的な街だった。古い建築はほとんど残っていない。なぜなら、第二次世界大戦の時にドイツ軍に集中砲火を浴び、壊滅状態に陥ったからだ。ヴィテブスクではまず、生家を訪ねた。奇跡的に戦災を逃れ、今は博物館になっている。こじんまりとして、可愛らしい家だった。ここで大好きな家族と楽しく暮らしていたんだなあと感じて、ジンとした。陽当たりのいい部屋、サモワール、ガラスの瓶…。シャガールの絵のモチーフが溢れていた。シャガール・アートセンターも訪ねた。正直、最初はがっかりした。リトグラフしかなかったから。でも、館長さんにお話を伺い、胸がいっぱいになる。シャガールはフランスに亡命した画家なので、ソ連からは黙殺されていた。あんなにも、故郷を描き続けた画家なのに、ヴィテブスクにはデッサンもない。民主化されてやっと、アートセンターを設立したにもかかわらず、最初は一枚の絵もなかったそうだ。けれど、アートセンターの存在を知った世界中のファンが、個人的に所有しているリトグラフを寄贈してくれたのだ。その思いは、よくわかる。シャガールが愛した故郷に絵を贈ることは、何よりもの恩返しだ。シャガールは周囲の人から、ヴィテブスクを描いても売れないと言われながらも、亡くなるまで頑固に描き続けたと言う。フランスに渡ってからも、やっぱりベラルーシのジャガイモやニシンの塩漬けがいいと言って、わざわざ送ってもらっていたと言う。長男なのに、母親の葬式を取り仕切れなかったことを、生涯、悔いていたと言う。リトグラフに添えてあるGIFTという言葉に、世界中の人々のシャガールへの愛情を感じずにはいられなかった。
 
ディレクター 中澤洋子
庭で発見されたインク瓶
シャガールの家のキッチン
シャガール・アートセンター
撮影日記4 「可愛いベラルーシ」

ベラルーシは、シャガールの故郷という以外、実はあまりイメージがなかった。ロケに出る前にいくら情報を探しても、ちっとも集まらなかった。でも「車窓」はそもそも、現地に行ってみないとわからない番組だ。予定は未定で結構。開き直って、いざ、ベラルーシへ!ヴィテブスクへ行く時も、首都のミンスクへ行く時も、オルシャという駅で乗り換えた。ガイドブックには載ってない街だが、東西南北の路線を結ぶ交通の要衝なので、立派な駅だった。さて、ベラルーシってどんな国?と駅を探検。まず駅のレストランの食事が美味しい!初夏なので、冷たいボルシチというのを、はじめて食べた。独特のビーツの赤に白いサワークリームのスープ。機会があったら、ぜひお試しください。それから売店が素晴らしい!2001年はスカンジナビア・デザインがマイブームだったけれど、今は東欧系のモノが好きである。しかしモスクワは、西側の影響を受け、だいぶ変わってしまった。ところがベラルーシは、ロシアよりもロシア的なモノが残っている。オルシャの駅には食べ物から雑貨まで、いろんな売店がある。もともと、元祖『オリーブ』少女なので、雑貨には目がない。一番、ガツンときたのは、トイレットペーパーだった。薄いグリーンと黄色の花柄に、キリル文字があしらわれていて、可愛い!さっそく購入して、夕食の打ち合わせの際に、いかにこのトイレットペーパーが可愛いか熱弁をふるった。そしてオルシャの駅の売店で、ベラルーシ・デザインをテーマに撮りたいと語った。ところが、同調してくれるスタッフはいない。それどころか「なんで、トイレットペーパー?」と、ぽかんとしている。熱弁をふるうほど撮影の辻智彦は蒼ざめていくし、エテリーさんも「ニホンノ、トイレットパーパーノホウガ、シツガイイデショ?」と呆れている。…孤独だった。しかし、辻智彦はディレクターの思いに乗っかってくれる人なので、怪訝な顔をしながらも撮ってくれた。トイレットペーパー、歯磨き粉、苺の人工的な匂いがする食事用紙ナプキン…。しかも値段が安いので、いっぱい買ってしまった。トイレットペーパーは白い目で見られながらも、5種類買った。コペカと書かれたアイスクリームのパッケージも可愛かった。味も今、主流の濃厚なタイプではなく、昔食べた安っぽいところがいい。列車の備品も素晴らしい。毛布、シーツ、タオル…。どれも清潔で、素晴らしいデザイン。ベラルーシは、柄物天国である。うきうき。
 
ディレクター 中澤洋子
冷たいボルシチ
オルシャ駅の売店
ベラルーシのトイレットペーパー
撮影日記5 「再び可愛いベラルーシ」

しつこいようですが、またまた可愛いベラルーシのお話です。スンマセン。6月はちょうどダイヤ改正で、我々は時刻表さえ手元にありませんでした。スケジュールはあってないようなもの。でも、そんなことは屁でもない!そもそも旧ソ連の撮影で予定をたてても無意味ということは、2001年に経験済み。撮影前日の打ち合わせで「えー、明日は何時の列車に乗れるんでしょう?」と呑気に予定をたてるものの、プラン通りになんてならない。でも旧ソ連は、想像を裏切る面白いことがワンサカ起きる。そこが、私は好きなのです。ベラルーシは何がいいって、子どもが、とっても可愛い!ちょうど夏休みが始まったばかりで、ミンスクの子供鉄道は、目の玉が飛び出るほど愛らしい子ども達がいっぱい。ミンスクから乗った列車の終点は、ウクライナのクリミア半島にあるシンフェローポリで、これまた黒海でバカンスを過ごしに行く子ども達がいっぱい。ベラルーシの子ども達って、列車の中でゲームをピコピコやったりせず、情報に毒されてないっていうんですかねえ、仕草や表情が素朴なんです。列車の中でお友達をつくったり、お歌を歌ったり、ぬいぐるみで遊んだり…。なんだか懐かしいような、嬉しい気持ちになりました。ニコニコ。ベラルーシ国鉄もいいぞ!とにかく清潔。車両ごとに担当の車掌さんがいて、せっせとお掃除している姿をよく目にしました。寝具もきれいに洗濯されていて、気持ちよし。ほんと、しつこいけれど、備品が可愛いんです。毛布、シーツ、タオル、カーテン、みんな可愛い。これらを日本に輸出したら、きっと売れます!と熱弁をふるったら、ポカンとされた…。「Oh!」と声をあげてしまったモノがひとつ。旧ソ連の人々は紅茶が好きで、列車には必ずサモワールがついているんですね。車掌さんに紅茶を頼んだら、ついてきたお砂糖のパッケージに、なんと古いタイプの新幹線の絵が描かれていた。「このデザインの新幹線は、もうなくなるんですよ」と国鉄職員さんに教えたら、わかっているような、わかってないような表情。日本にいると、どんどん新しいモノが出てきて、ついていけなかったりするけれど、ああ、こんなところに懐かしの新幹線が生きていると嬉しくなりました。列車の速度もゆっくりでいい。ミンスクからシンフェローポリまで1533キロで、26時間ほどかかる。なのに乗客はセカセカしてなくて、まるで生活の延長線上みたいに、寝たり、食べたり、のんびりしている。ベラルーシ、最高!
 
ディレクター 中澤洋子
子ども鉄道の車内で
ベラルーシの元気な子ども達
新幹線シュガー
撮影日記6 「ドドーンと、ベラルーシ」

今回は中澤ディレクターに代わって撮影担当の辻智彦が日記を書きます。さて、ベラルーシ。まずは首都のミンスク。旅行ガイドブックなどには「ソビエト・テーマパーク」などと書かれていますが、まさに異世界「鉄のカーテンの向こう側」という感じでした。第二次大戦時、街が徹底的に破壊されたため、戦後ソビエト連邦政府(スターリン!)によって一から造り直された人工都市。街並は、社会主義の理念と意気込みがムンムン漂う暑苦しいほどの整然さです。広すぎる道路、デカすぎる建物、壁に書かれた声高すぎるスローガン。立派すぎる革命の英雄たちの像の数々。圧倒されてしまいます。でもこういう脳みそむき出し的やりすぎな感じが、実は僕のツボにびしっとハマるのです。うーん、なんてイケてるんだ、この街は!などと密かに感動していたところ、助手の佐藤君から「辻さん、なんかイキイキしてますね」と鋭い指摘が。冷静に振る舞っているつもりが、どうやら他のスタッフからは本心が丸見えのようです。中澤ディレクターからも「まったく、可愛いものには反応しないくせに、ドーンとしたものには夢中になるよね」と冷たい視線が。いや、可愛いトイレットペーパーもいいけど、ドーンとした巨大モニュメントなんかも萌えるじゃないですか。ともかく、旧ソ連の他の国々では、ソ連崩壊後これらの街並を、色鮮やかに広告ひしめく資本主義風に変えてきたと思うのですが、この国、ベラルーシだけは別だったようです。90年代初頭のソ連崩壊時、引き倒されるレーニン像なんかの映像をよく見たものですが、ベラルーシではどうやらあまり倒されなかった模様。あちらこちらに巨大なレーニンさんやその他革命の偉いひとたちがドーンと仁王立ちしています。建物もまたデカい!というよりデカく見えます。実は一階一階の天井を高くしたり、直線的なデザインで大きく見せたりと小技を効かせているようなのですが、その建物の意気込みに押され、「ドドーンと撮りたい!」とカメラポジション選びやレンズ選びにもつい熱が入ってしまいました。でも建物もやはりデカいので、撮影位置を変えるたびに延々歩かなければいけません。気がつくと中澤姐さんとエテリーさんは遠くの建物の日陰でお休み、佐藤選手は三脚担いでうんざり顔。さて次回は、中澤ディレクターを襲ったとんでもないアクシデントの真相が明らかに?

撮影 辻 智彦
英雄都市記念碑を撮影
広すぎる道路
車が小さく見えます
撮影日記7 「前代未聞のハードスケジュール」

ベラルーシ南東の都市ゴメリ周辺は、南にチェルノブイリがあって、原発事故の被害を受けている。ドキュメンタリー映画『アレクセイの泉』を見て、感化されてしまった私。そこで暮らす人々に会いたい!ということで、ゴメリから車に乗り、今でも放射能が検出されている村へ。これがまた意外に遠かった。しかし、3人の村人に会うことができた。みんなご老人なのだが、19世紀のロシアを思わせるイカした農民の面構え。おばあちゃんは頭に柄物のプラトーク。家フェチなので、おばあちゃんにくっついて家の中へ。これがまた、まるで油絵のような、しびれてしまう光景で…。写真をパチパチ撮っていたら、エテリーさんから猛烈に怒られた。放射能というのは、家に染み付くらしいのだ。村から出て行った人の家は、土の中に埋められている。若い人ほど放射能の影響を受けると言う。最年少の撮影助手、佐藤君に「万が一、癌になったら、私を恨む?」と聞いたところ、「恨みます!」と即答。スイマセン…。取材を終えてホテルに戻ったのは夜の11時。なんと翌日の撮影は夜明けの4時から!しかも10時間の乗車!睡眠時間、3時間で撮影に臨みました。でも、ゴメリとブレストを結ぶ路線は、とっても気持ち良かった。車窓には青空と緑の森、ときどき小川。絶景とは言い難いけれど、ほのぼのとした気持ちになった。車掌さんは優しいし、乗客は老若男女、みんな屈託がなくて親しみやすい。しかし、ブレストに近づくにつれ、不安がもたげてきた。ブレストに到着したら、3カ所も撮影候補地があったのだ。まずはブレスト要塞。山みたいな、ドドーンの極地のモニュメントを撮影。撮影の辻智彦は喜色満面。でも私は迫力に完敗…。既に閉館時間を過ぎていたので、税関押収美術館と鉄道博物館の撮影は遠慮させていただこうとしたら…。取材先はやる気満々で待ち受けていると言う。こりゃ、断るに訳にいかない。足は棒。頭は真っ白。意識朦朧で税関押収美術館を取材。それから鉄道博物館へ。すると熱血漢の館長さん、ヴィクトルさんが待ちかねていた。取材をアテンドするのではなく、とにかく鉄道愛が爆発!タクトを持って自慢の列車コレクションについてエンドレスで熱く語りはじめた。もう誰もとめられない。撮影が終了したのは、夜の10時近かった。歓迎してくれる気持ちはとても嬉しい。でもでも、3時間睡眠で、18時間の肉体労働。参った…。

ディレクター 中澤洋子
バルトロメーエフカ村で
ブレスト行きの列車
鉄道技術博物館 蒸気機関車
撮影日記8 「蚊は侮れない」

ハードスケジュールをなんとか乗り切ったものの、翌日はまた早朝から、世界遺産のビャウォヴィエジャの森へ。初夏の森は気持ちいい。しかし、前日の疲労を引きずっていた私はヨロヨロ。気がつくと、顔が痒い。蚊に刺されてしまったようだ。日本で蚊に刺されても、ポチっと赤く腫れるだけなのに、顔がみるみる腫れていった。昔の喩えで言えば、お岩さん。今なら暴力事件にでも遭ったような顔に。その日は、ブレストからミンスクまで乗車の予定。駅長さんにお礼を言い、「蚊に刺されて、こんな顔になっちゃいました」と話す。すると「脳炎になるかもしれません」との警告。「いやいや、アレルギーでしょう」とエテリーさん。なんだかわからないまま、引き連られるように病院へ。病院の在処に、またビックリ。なんとホームの横に小綺麗なクリニックがあって、ドクター参上。ズボンをひん剥かれ、お尻に注射をブスリ。職業病でしょうか。朦朧とする頭の片隅で「病院完備のブレスト中央駅」というテーマが浮かぶ。でも、お尻丸出しで、「イテ〜!」と叫んでいるのは、この私。企画は却下。いったい何の注射を打たれたのかわからない。ミンスクまでの乗車は、ほとんど意識不明で、布団にくるまっていた。そもそも、力を振り絞って車内の取材に出かけても、乗客は私の顔を見て怯えただろう。子供だったら、泣き出すに違いない。ミンスクに着いてからもグッタリ。いくら美貌に恵まれてなくとも、鏡に映った哀れな自分の顔を見て落ち込んだ。様子を見に部屋を訪ねてくれた辻智彦の唖然とした顔が忘れられない。アワアワと「明日も休んだ方がいいよ」と。目も開かなくなっていたから。現地コーディネーターのタチアナさん(46歳・美人・孫あり)が看病してくれた。顔でも構わないと、信奉するアンモニア系の薬をこっそり塗りたくっていたら「NO!」。タチアナさんは、ベラルーシの民間療法、コットンに紅茶を含ませてトントンするのよ、とジェスチャーで教えてくれた。ベッドに横たわりながら、紅茶でトントン。その前にも、レギンスの上から蚊に刺されていて、「ベラルーシの蚊はツワモノだ!」とわかっていたけれど、顔に関しては無防備だった。くそ〜、カマランの奴!(ロシア語で蚊の意味)しかし現金なもので、リトアニアのヴィリニュスに着き、憧れのリネンの店をロケハンしていたら、たちまち元気に。可愛いモノが、私にとっては何よりの薬なのだ。

ディレクター 中澤洋子
ビャウォヴィエジャの森
ブレスト中央駅内
車内で、可愛い女の子とブランケット
撮影日記9 「リトアニア突入」

とんでもない蚊に刺され、朦朧としたままリトアニアに突入。第一印象。「ああ、ヨーロッパだ〜」。首都のヴィリニュスには、旧市街があって、その中心は広場で、カトリックの教会がたくさんある。ロシア、ベラルーシの街並は、どどーん。それはそれで面白いのだが、正直、弱った体にヴィリニュスの優しい街並は有り難かった。それにしても日本の皆さんはバルト三国のイメージがあるだろうか?私はぼんやりロシアの西隣、フィンランドとバルト海を隔てて下というぐらいしかイメージがありませんでした。南からリトアニア、ラトビア、エストニア…。ロケに出る前、呪文のように唱えて、やっと覚えた。その中でもリトアニアに注目していました。今、日本では、リトアニアのリネンが注目されています。最近買ったエプロンと靴下はリトアニア・リネン。アイリッシュ・リネンよりも、普段使いに適した感じで、なかなかいい。季節は初夏。車窓に麻の青い花が咲いていたりして…、と期待していたが、ちょっと早過ぎたみたい。しかし、リネンはがっちり買いました!さすが、本場はリーズナブルです。ベッドリネンなどは、セットで15,000円ほど。ほくほく。さて、列車ですが、北海道よりちょっと小さい国土に、チョコっとしか走っていません。乗車したのは、ヴィリニュスから、日本のシンドラーと呼ばれた杉原千畝が領事をしていた街、カウナスまで。それから、バルト海へ抜けるクライペダまでの路線。普通の近郊列車に乗ったので、リトアニアってこんな感じかな?というのは掴めたと思う。もはや、旧ソ連とは呼べませんなあ。街のどこにもロシア語表記のキリル文字は一切ないし、若い子はロシア語を話せない。というか、ロシア語を話してはいけない空気を感じた。もともとリトアニアは、黒海沿岸にいたる大国だった歴史があり、その後は、周囲の国々の政治的思惑に翻弄されつづけてきた。1990年に独立を宣言したものの、翌年には「血の日曜日」というソ連からの軍事介入を受けている。「なんか人が冷たいなあ、フランクじゃないなあ」と感じたけど、そういう歴史を思うと、納得できる。内気だけど、芯が強い。リトアニアの人々の印象です。ああ、それから若い子はオシャレです。

ディレクター 中澤洋子
ヴィリニュス 夜明けの門
リネンショップで
リトアニアの若い女性
撮影日記10 「天気に恵まれる」

ヴィリニュスからシャウレイ経由でクライペダまで列車の旅。ヴィリニュスからシャウレイまでは、雨がぽつりぽつり。気温は10度ちょっとだろうか。ふえ〜、初夏だというのに寒い。ヨーロッパは雨が降ると途端に寒くなるが、例に漏れず。途中、撮影助手の佐藤君が車掌さんに間違われ、切符を渡された。ぷっ!佐藤君は顔がスラヴ系なもので…。シャウレイでは「十字架の丘」を取材。リトアニアは国民の80%ほどがカトリック。帝政ロシアの時代、圧政に蜂起した際、多くの人々が処刑され、シベリアへ流刑された。その鎮魂のため、自然発生的に十字架が丘にたくさん立てられるようになったと言う。大きな十字架に、無数の小さな十字架がかけられ、無言の迫力がある。ソ連時代には幾度も撤去されたというが、けして挫けることなく、十字架が持ち寄られた。リトアニアの人々は概して無口な印象だが、その奥には反骨精神を秘めているのだろう。「十字架の丘」を目にして、ふと思った。雨がしとしと。リトアニアの人々の涙のように感じられた。シャウレイから再び列車に乗り、クライペダまで。乗車している内に、ぐんぐん晴れてきた。ああ、素敵。海へ行くのだから、こうでなくっちゃ。きっと、普段の行いがいいのだろう(ナンチャッテ!)。この路線はゆるやかな丘陵が多く、景色が良かった。ロシアやベラルーシと違うのは、家の佇まいかな。カラフルなペンキ塗りではなく、質素な木の家が多い。終点のクライペダはピーカンの天気。ほくほく。クライペダからフェリーに乗り、クルシュー砂洲へ。ここは世界遺産に登録されている。バルト海に突き出るように、98キロに及んで細長い砂丘がつづく。なんとも不思議な風景。青い空に、サンドベージュの淡い砂の色の世界。北国なのに、乾いたライ・クーダーの音楽が合いそう。砂に足をとられながら、絶景を撮っていたら、ビーチを撮る時間が少なくなった。急げ〜!ビーチがこれまた素晴らしかった。バルト海の澄んだ青い海。えんえんとつづく美しい砂浜。30分しかいれなかったのが悔やまれる。山がそこにあっても登りたくないが、海がそこにあると泳ぎたくなる。可愛い水着を着て、楽しそうに泳いでいる人々が恨めしかった。クルシューのビーチは、かなり素晴らしいところです。リトアニアへ行く際には、ぜひ!

ディレクター 中澤洋子
リトアニア 十字架の丘
世界遺産 クルシュー砂州
海で遊ぶ女の子
撮影日記11 「列車新時代」

正直、リトアニアは、列車大国という印象ではなかった。国内路線は少ないし、乗車している人もそんなに多くない。観光バスや、自動車はたくさん見るのに…。実際、話を聞くと、リトアニア鉄道の客車は赤字。貨物でなんとか黒字になっているのだとか。しかし、ヴィリニュスからラトビアに向かって出発する日、偶然、駅でイベントに遭遇した。ブラスバンドがホームで演奏し、何やら記者会見のようなものが行われている。「なになに!?」。最初は訳がわからなかったが、新しい列車のお披露目会だった。リトアニアの人にくらべて背のちっこい撮影の辻智彦は、取材陣に埋もれながら必死に撮影。車窓の取材では滅多にない光景なので驚いたが、リトアニアの人々の、鉄道に対する愛情や意気込みをはじめて感じ、嬉しくなった。ヴィリニュスの駅には、かなり凝った鉄道模型がある。その中にひときわカッコイイ列車があった。「あの列車は何ですか?」と聞いたところ、「レール・バルティカですよ」との答え。今回、何に苦心したかって、バルト三国を縦断する列車がないことだった。どうしても、途切れてしまう。鉄道は帝政ロシア時代、ソ連時代に敷設されているので、バルト三国のそれぞれの首都と、サンクト・ペテルブルグやモスクワを結ぶ路線はある。しかし今やっと、バルト三国を縦に結ぶ新しい鉄道が建設されようとしている。レール・バルティカは、なんとベルリンからポーランドを通って、バルト三国のそれぞれの首都、ヴィリニュス、リーガ、タリンを北上し、フィンランドのヘルシンキまでを結ぶ鉄道だ。バルト三国は既にEUに加盟し、ロシアやベラルーシとは一線を画している印象だったが、ここにきて鉄道も新しい時代を迎えている。鉄道は人やモノの動きを変える。西ヨーロッパから北欧まで旅行するのが、スムーズになるだろう。バルト三国も身近になるだろう。経済誌で読んだのだが、CO2問題解決のため、特にヨーロッパでは、新しい路線が徐々に増えているという。今、世界は列車を見直している時代なのだろう。「世界の車窓から」も、そんな時代の移り変わりをうつす鏡になってゆくのだろう。できれば撮影しやすいように、窓のあく列車を開発してほしいが、安全重視の傾向が強くなっているから難しいだろうなあ。走る列車の窓から吹く風は気持ちいいのになあ。

ディレクター 中澤洋子
リトアニア鉄道 路線図
試乗会の車掌さん
新型列車のお披露目会
撮影日記12 「ラトビアで食い倒れ」

リトアニアからラトビアに北上し、最初に入ったが、東のラトガレ地方。隣は、すぐロシアです。1772年にロシアに併合されていた地域なので、ロシア人に通じる人情家の人が多かった。我々はラトガレ地方で、酪農一家と養蜂一家を取材しました。これがまた、あったかい人達で。最初に伺ったクロイチュさん一家は親子三代で暮らし、酪農を営んでいる。おじいちゃんと息子さんは牛の世話。そして、乳製品に関しては、ほぼ自給自足。チーズ、ヨーグルト、バター、なんでも。牛の餌の牧草づくり、2種類のチーズづくり、チーズをつかったお菓子づくりまで撮らせていただいた。「素敵!酪農一家」という1時間番組が作れそうなほど撮らせていただいて。うー、2分にまとめるのが、もったいない!家族の人柄が最高。みんな仲良し、にこにこ。おじいちゃんは自分で醸造したビールを、取材中、何度も私達に振る舞うのだった。ほろ酔いで気持ちよくなっちゃって、撮影は辻にまかせ、私は3歳の孫娘、グンタちゃんと手をつないでお散歩したり、写真を撮ってあげたり。言葉は通じないけど、お友達になっちゃった。エテリーさんも、赤ちゃんのヤニス君を抱っこし、すっかり、おばあちゃんの顔に。せっせと働いているのは、撮影部のみ。スンマセン。取材を終えてご馳走をいただく。様々なチーズ、おじいちゃんのビール、白樺の樹液からとれたジュース、チーズケーキ…。なかでも美味しかっのが、バター!軽くて、口溶けがいい。「日本では今、バターが不足しているんです」と伝えたら、なんとお土産に、たくさんのバターを持たせてくれようとする。まだ取材はつづく。ドロドロになってしまうので、泣く泣くお断りした。そのあとは、養蜂家のヴィクトルさんを訪ねた。養蜂って、あまり詳しくなかったんだけど、ミツバチの世界って凄いですね。よく出来ている。女王蜂をせっせとお世話する働き蜂。わたしも女王蜂に生まれたかった。ヴィクトルさんいわく「人間もミツバチに見習うことが、たくさんある」とのこと。自然の成り立ちを理解し、ミツバチの生態を熟知しているヴィクトルさん。まるで哲学者のような風貌でした。ヴィクトルさんの家でもご馳走に。黒パンに蜂蜜をとろり。紅茶にもたっぷり。奥様がつくった蜂蜜ケーキは、濃厚な味わい。蜂蜜酒というのも、はじめて口にした。食って、食って、食いまくった一日だった。沿線にはシアワセが満ちている。
 
ディレクター 中澤洋子
ラトビアの酪農一家
酪農一家の食卓
ラトビアの養蜂一家
撮影日記13 「ラトビアは親日家の国?」

リトアニアのヴィリニュスが「教会の街」なら、ラトビアのリーガは「ドイツの影響を強く受けた街」という印象かな。それから、アールヌーヴォー建築群がおもしろかった。ミハイル・エイゼンシュテイン、『戦艦ポチョムキン』の監督のお父さんなどが設計したという装飾的で曲線的な建築。でも、アールヌーヴォー建築群が、にょきにょき建った頃、人々には理解されなかったらしい。「デコレーションケーキみたいだ」と揶揄されたのだとか。ヨーロッパの教会建築などは、天使やらマリア様やらイエス様やらが、あちこちに描かれているし、ベラルーシのミンスクなどは、イデオロギー丸出しのドドーンの世界。でも、アールヌーヴォー建築群は、それのどれとも違う。個人の作品性が強い印象だった。しかし、なんで、あんなに、建築のファサードに人の顔の喜怒哀楽を描いたレリーフが、これでもか!と、あるんだろう。中に、驚愕の表情をした顔のがあって、それがですね、撮影助手の佐藤君が、忘れ物した時の表情にそっくりなんですよ。これは笑った。ベラルーシで賞味期限の切れたピロシキを食べて、彼と私がお腹をこわした時も、命の正露丸をホテルに忘れてきた佐藤君。正露丸を発見したベラルーシのホテルの人、たまげただろうな。その他にも、佐藤君、忘れ物をボチボチ…。その度に、驚愕の表情。車窓は移動しつづけるので、忘れ物は禁物。取りに帰れないんだもん。それから、リーガでは二人のラトビアの方に話しかけられた。ひとりはラトビアで日本人向けのガイドをしている方。この方は流暢な日本語を話し「ラトビアを日本のテレビで取り上げるなんて、珍しいですね」と。もうひとりは学生さんらしき青年。取材が終わって、車両にスタッフ一同乗り込んだら、入り口に青年が立ちはだかりました。そして「ボクハ、ニホンゴヲ、ベンキョウシテイマス。コンド、ニホンニイキマス。トウキョウカラ、オオサカまでアルキマス」。スタッフ一同、「え 〜!!東京から大阪まで歩くんですか〜!」。本人はしごく真面目だったが、あまりにも唐突な出現で、夢でも見ているような気分だった。あとで知ったことだけど、ラトビアには日本語学校があって、なかなか人気があるようです。それからルガズィまで列車に乗っていた時、とてつもない美人さんに出会いました。話しかけるのが憚れるほどの美しさ。美人さん探しも、車窓ロケの楽しみのひとつです。
 
ディレクター 中澤洋子
ラトビアのアールヌーヴォー建築群
リーガのトラム
ラトビア美人
撮影日記14 「ふたたびロシアへ」

 エストニアの首都タリンから、ふたたびロシアへ。夜行列車に乗って、サンクト・ペテルブルグを目指しました。夜11時頃に出発したはいいものの、白夜のため、陽が落ちない!いつまでも夕暮れ時の蒼い美しい光が風景をほんのりと照らしているものだから、こっちもつられて眠い眼をこすりながら撮影していると、いつの間にか朝になってしまいました。ガーン!サンクト・ペテルブルグに到着すると、不思議な美しさのあふれる独特の雰囲気。7年前に来たときもそのインパクトに驚かされたものでしたが、今回もその魅力は変わらず、と言いたいところですが、やっぱり変わっているところも多くありました。
  まず、車の量。モスクワもそうですが、一気に増えた自家用車のため、道はいつでもどこでも渋滞です。そして建物の色!形は変わらずとも、色とりどりに塗り直している建物が多く眼につきます。おおきい広告の看板などもいっぱいです。リノベーション花盛り。とはいえ、そこはやはり麗しの街サンクト・ペテルブルグ。我々撮影隊は今日も大忙し。市内のあちこちを探索。エルミタージュ美術館、ドストエフスキーが晩年を過ごした家、夜はバレエの公演を見に行って…。もちろん撮影もしなくちゃです。なんとも濃密な時を過ごしました。陽が暮れないのでうっかり気づくと夜中。夜行列車に乗った前日の夕方からなんと、30時間以上ぶっ通しで撮影を続けていたのでした。グゥー、どおりでくたびれたわけだ。毛細血管ぷちぷち。
  そんなこんなでめまぐるしくサンクト・ペテルブルグの街を駆け抜け、とうとうモスクワに帰還。超キッチュでクールな地下鉄に乗ったり、市場で(中澤ディレクターいわく)可愛くてしょうがないらしいマトリョーシカを膨大に撮ったり…。もう一度、「ロシア」の確認作業をして、今回の旅は終了したのでした。
  旧ソ連の国々を巡った一ヶ月。歴史のいたずらか、なんとも数奇な運命をたどってきたロシア、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア、エストニアの国々。でもそこで暮らす人々にとっては、自分たちが真剣に歩いてきたかけがえのない大事な時間の蓄積を目撃することができました。この十数年で社会は劇的に変わったけれど、人々の変わらない旅人への優しさと愛情。カメラの前で笑ってくれたたくさんの皆さん、ありがとう、スパシーバ!またきっと来ます!
 
撮影 辻 智彦
白夜のタリン出発
サンクト・ペテルブルグ
スパシーバ!ありがとう
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