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「ギリシャ撮影日誌 1」

アテネに向かって高度を下げていく機内から、青い海に浮かぶ島が点々と見える。
とうとうギリシャにやってきた。はるか大昔にアルファベットや民主主義を発明し、円形劇場で悲劇喜劇叙情詩演舞に興じ、壮麗な建築と彫刻で町を飾った都市国家たち。西洋文明の礎を築いた人々。すごいよなあ。

空港から外に出ると、気温は37度。日差しはものすごく強く、石造りの街並みがそれを容赦なく反射する。今回ばかりはサングラスを持ってきて本当によかった。
コーディネーターのアリティさんによると、アテネもご多分に洩れず近ごろは「異常気象」なのだそうで、さすがに今の時期この暑さは異常。加えて最近は冬に雪が降るようになったとも教えてくれた。

さて「アテネ」という名前を聞くと、どうしても構えてしまうが、現在のアテネはとっても普通なヨーロッパの大都市だ。狭い道路にぎっしりと車が詰め込まれ、その隙間を人々が足早に行き交う。町を睥睨するようなアクロポリスの丘の上だけに、2500年前の時間の破片が遺されているような…というか、これがなかったらどうなっちゃうの?という気さえする。アクロポリスとは、アテネだけに限られたものではなく、それぞれの町の最も高い部分で、神聖な場所とされ、攻められた時には立てこもって身を守る場所だった。でも、アクロポリスと聞くと殆どの人がアテネのアクロポリスを、というよりパルテノン神殿を思い浮かべるのではないかと思う。初めて目の当たりにしたパルテノン神殿は、子どもの頃から数多くの写真や映像を見てきたためか、むしろ懐かしいような奇妙な感慨に襲われた。目を見張る美しさだが、近くでじっくり見てみると、やはり傷みが目につく。本当は、大理石をぺしぺしと手で叩いてみたり、列柱の間を歩き回ったりしたいところだが、遠巻きにして見る他はない。なるほど、どの写真も同じ様なアングルになる理由も判る。
アクロポリスではパルテノン神殿を中心に、大規模な修復作業が行われていた。ヨーロッパで歴史的建造物を撮ろうとすると2回に1回は修復中のような感じがする。悔しい思いもするけど、それだけ大切にされているということでもある。

とりあえず、空は青く、海も青く、期待を裏切らないスタートという感じでよかった。
「この時期、雨の心配はない」と言われて来てはいるものの、ロケはいつも心配。
ディレクター 中村博郎
パルテノン神殿
アテネ、シンタグマ広場
アテネ、ラリッサ駅
「ギリシャ撮影日誌 2」

まったく判らないギリシャ語のやりとりを一生懸命聴いていると、何やら「グラシャス」という音が耳に残った。ははあ、地中海だし、暑いし、乾いているし、オリーブ食べるし、ワイン飲むし、家の壁白いし・・・なるほどねえ…って、そんなわけはなく、これは「ヤッサス」という挨拶言葉なのだった。出会った時にも「ヤッサス」。別れる時にも「ヤッサス」。これは早速覚えておこう。
ギリシャ語、他には「ねえねえ」というのがあって、日本語で何か話しかけられているのかと最初はビクっとしたりもしたが、「ネー」は英語のyesなのだった。そういえば電話に向かって「ネー、ネー、ネー、ネー、ネー」と激しく連発している人を見かける。「ネーは一回」などとツッコんでみたくなるが、ギリシャ語が話せないのでどうにもならん。

アテネからギリシャ中部に旅をして、まず気がついたのはギリシャは山が多いこと。低い山は、赤茶色の土に低木が点々と生えていて、ちょっとアメリカ西部を思い出す。高い山は、灰色の岩肌に雪が残る立派に山らしい山だ。例えばパルナッソス山脈なんかは、アテネから2時間足らずだが、スキー場があり、オオカミが出没するという。
ほほう、ギリシャは実はネイチャー派という一面もあるニクイ奴だったのか、と今更発見し、感心する。
日本を出る前には、ただ「遺跡、遺跡」と思っていたが、これはもう至るところにあるようだ。そして、大部分は特別観光名所になっているわけでもない。遺跡大国の余裕ってことになるのかしらん。
他に気がついたのは、星が少ないこと。ギリシャと言えばギリシャ神話、ギリシャ神話と言えば星座とも思って来たのだが、案外と星は見えない。もちろん、宿泊するのは町が多いし、空もそこそこ明るかったりするけど、東京だって冬ならもっと星はたくさん見えるのに…ともどかしさを感じる。勝手に変な期待をしている方が悪いのだが。

ギリシャの鉄道は、複線化、電化、高速化の途中という感じ。古いトンネルや鉄橋も多く、それが足を引っ張っているのだという。実際、列車が遅れることは珍しくないし、遅れても説明もなければお詫びもない。でも怒っている人もいなかった。
当然撮影スケジュールはぐちゃぐちゃになるが、それはいつものこととも言える。
ディレクター 中村博郎
リヴァディアに向かう車窓から
リヴァディア近郊を走る列車
デルフィ遺跡
「ギリシャ撮影日誌 3」

パレオファルサロスからカランバカへ。
かつてヴォロスからカランバカまで幅1メートルの線路が敷かれていて、アテネ〜テッサロニキの本線と交差している部分が“名所”だったのだが、今はにパレオファルサロスからカランバカまで標準幅の線路になっている。運行している車両は元々アテネ〜ピレウスを走っていたもののようで停車駅の案内図がそのままになっていた。
それに伴ってヴォロス〜パレオファルサロス間は廃止。他にも1960年代以降廃止された路線が幾つかあって、ギリシャでも鉄道経営は難しいみたい。まあ、どこもそんな感じなのでロケに出る度に、これが何か貴重な歴史的記録になると嫌だなあ、と思ったりもする。
さて、メテオラだ。「Meteora」という文字は「隕石(meteor)」と似ていると思っていたら案の定「宙に浮かぶ岩」というような意味だという。ちなみに町の名前「カランバカ」もトルコ語で同じような意味なのだそうだ。まあ、メテオラの岩山は下は地に着いているので「浮かんで」はいないと思うけど、と言ってみたり。さて、そのメテオラと言えば修道院。なかなか撮影は許可されないという話もあったので緊張して出かける。スタッフにも「半ズボンはダメですよ!」と念を押し。実際、撮影は結構厳しくて道路から遠くの建物を撮影していても、車で通りかかった修道女の人たちに注意された。もちろん、私たちは正式な許可を得ていることを説明すると納得してくれるけど。一方で、修道院の中で撮影禁止マークがあろうが団体客はビデオをがんがん撮っていたりすることもある。

今回、中を撮影できたのはアギオス・ステファノス修道院。女性修道院(尼僧院というのか)で、町からその姿が見える唯一の修道院である。ピリピリと緊張して出向いた私たちだが、とても感じよく迎えてくれた。撮影後は応接室に招かれ、コーヒーとお菓子とおみやげまでいただき、すっかり好感度が上がってしまった。直接現場に付いた人は、ものすごくキレイな人で、いや、修道女の人に「キレイ」とか思ってはいけないのかもしれないけど、事実は事実だし。もう一人、その上司のような女性は、医学部を卒業した後にこの修道院に来たという。それって何だかもったいない気がしてしまうが。もちろん、その人の医学の知識や技術はこの修道院でも生かされてはいるのだろうけど。科学と神様って矛盾無く共存できるものなのかしら。
ディレクター 中村博郎
岩の上に建つヴァルラアム修道院
カランバカ駅付近を走る列車
アギオス・ステファノス修道院
「ギリシャ撮影日誌 4」

ピリオン地方はエーゲ海に突き出した半島だ。ここはギリシャの人々にとっても、ちょっと特別な場所らしい。何せ神話の生物ケンタウロスの故郷。そして伝説の船アルゴ号が建造されたのもここだという。うわあ。ギリシャに来てから、あちこちで史実と伝説が交錯するような、神話の舞台に自分もいるような、不思議な気持ちにさせられっぱなし。もちろん、他の国にもそういうことはあるし、日本にだってあるのだけれど、ギリシャは英雄冒険物語としての魅力度が高いんじゃないかなあ。
今回ピリオン地方に来た目的は、ただの物見遊山ではなく鉄道があるからだ。「トレナキ」と呼ばれる小さな鉄道。レール幅は600ミリ。見た目には心許ない間隔。建設したのは、画家デ・キリコのお父さんだという。ここで告白。私中学生のころデ・キリコ好きでした。ダリと並んでお気に入り。でもあのころ地平線を走る蒸気機関車のシルエットに何か深淵な意味を感じていたものだが。もしかして単なるこども時代の思い出だったの、デ・キリコさん?
工事はなかなか大変だったようで、というのもピリオン地方はほとんどが山。急な斜面が海まで迫っている。うっそうと木に覆われた山中に点々とする集落。冬は雪が2メートルも積もるというし。隠れ里みたいなアクセスの悪い場所だが、実際にオスマン帝国の圧政から逃れた人々が住みついたらしい。どうしてそんなところに鉄道を敷くことになったのか不思議なんだけど、名産のリンゴやサクランボを出荷するためかしらん?
深く険峻な谷を跨ぐ橋が7つあるのだが、いずれも建築として高く評価されているということで、デ・キリコ父は優秀だったんだな。

乗ってみると、この列車は本当に楽しい。急な坂を上っていくと、眼下に真っ青な海が広がり、窓を吹き抜ける風は緑の香がすがすがしく、ぎしぎし揺れる木製の小さな車両が心を弾ませる。何より乗っている人たちがみんな楽しんでいるので、それがお互いに共鳴して増幅する感じ。初めて会った同士なのに、顔を見合わせて笑いながら心が通っているみたい。音楽は共通の言葉、という風に言われるけど、もしかして古い鉄道も共通の言葉か?

9年がかりの工事の末にこの鉄道が完成したのは1903年。しかし71年に廃止。1996年から土日だけ、一部区間が復活した。ヴォロスからの全線を復活させるという計画もあり、その線路はギリギリの海っぺりを走っている。楽しそうだがちょっと怖いかも。
ディレクター 中村博郎
山あり谷ありの風景を走る観光列車
アノ・レホニア駅
ピリオン地方の東に広がるエーゲ海を臨む
「ギリシャ撮影日誌 5」

一瞬肝を冷やしたけど、大事に至らなくて本当によかった。エデッサで、滝を撮影していた時。石の階段が水飛沫で滑りやすくなっていたので、注意を呼びかけるべきだった。背後でガラガラと音がして「いかん!」と思った時には既に遅く。三脚を担いだ吉原くんが滑落。転んだ時に三脚を庇ったために、逆側の肩を脱臼してしまった。全員が青ざめる。もちろん怪我をした吉原くんの状態も心配なのだが、同時にロケのスケジュール変更、代替要員手配、最悪の場合撮影中止など様々な可能性も考えなくてはならない冷酷非情な立場の私。

しかし何はともあれ、まずは手当。病院を探さなくては。滝の撮影を谷茂岡カメラマン一人に任せて、とりあえず車に戻ろうとしていると「ひゅー」っと意味深な口笛の音がする。音の方向を見ると、手招きをしているおじいさんたち。実はこの滝の裏には洞窟があって、その入場券を売っている人たちなのだが、専門医の名刺を渡してくれた。どうやら、ここで怪我をする人は時々いるようだ。一部始終を見ていたのかも。15分ほどで医者に到着。小さな町で助かった。とてもやさしい感じの人で、状況を説明するとてきぱきと関節をはめてくれた。「一週間は腕を肩より上げないように」と注意され、お金を払おうとすると「この程度だから別にいいよ」と受け取らず。旅空に人の情けが身にしみるエデッサ。

海外ロケは、いつもまったく無事とは限らない。当たり前だけど。これまでも機材の故障、スタッフ(私自身を含む)の怪我・病気、泥でスタックして動けなくなった車、飛行機の欠航や遅れ、預けた三脚が出てこないなど、いろいろなトラブルに遭遇してきた。キャンプにライオンが入ってきて、しばらく隠れていなくてはならないなんてこともあったっけ。
毎回幸運にも乗り越えてこられたことを誰にともなく感謝する。
 
ディレクター 中村博郎
車内で出会った学校の先生
エデッサ駅にて
エデッサの町はずれにある滝
「ギリシャ撮影日誌 6」

「14(石)と53(ゴミ)しか残らなかった→1453年東ローマ帝国滅亡」というのは、歴史をウルトラ苦手とする私にも記憶できた数少ない年号。でも試験には出なかったので無駄に終わった知識なのだが。とにかく、その東ローマ帝国でコンスタンチノープルに次ぐ第2の都市だったのがテッサロニキ。今はギリシャでアテネに次ぐ第2の都市。

テッサロニキに来て、今さらだけど「ギリシャって何?」的な疑問が浮んできた。公式な国名は「ヘレニック共和国」なので、ギリシャのギの字もありはしない。でも考えてみると自分の国も「日本」なのにジャパンとかハポンとかヤーパンとか呼ばれていたりするわけなので似たようなことなのかしらん。いや、でもでも!例えばテッサロニキは「マケドニア」なわけだ。そしてここから東に行くと「トラキア」だったりする。思い起こせば「アテネ」だって昔は都市国家だったわけだし…別々の国じゃない?となると何をもって、その総体としての「ギリシャ」を指すのか。民族?言語?宗教?
例えば木馬で有名なトロイア戦争なんて“ギリシャっぽい”印象だけど(そもそも史実かどうかということもあるわけだが)ずっと昔のミケーネ文明とやらの話なのだし。そうかと思うと、紀元前8世紀以後“ギリシャ”は黒海や地中海沿岸に広範囲に進出してギリシャ文明を広めてもいたようで。謎。難解すぎて断念。

…そんなことを考えてしまうのも、ギリシャは東ローマ帝国の後継者でもあるから。今回初めて東方正教会の美術・建築に触れる機会を得たわけだが、これは本当にすばらしい。すばらしい、などという形容詞しか書けない語彙の貧しさが情けない。テッサロニキのアギア・ソフィア教会、アギオス・ディミトリオス教会のモザイク。旅の最初のころ見たオシオス・ルカス修道院のモザイク。モザイクってこんなに表現力のあるものだと初めて気付く。原始的で不自由な表現手段かと思っていた。石の色でグラディエーションを作り、石の向きで光の反射具合を調整するので、絵画には不可能な表現力がある。中世の図案はそういう技法に合っていたのかもしれない。いや、モザイクを前提とするから、ああいうスタイルになったのだろうか。例えばルネサンスのフレスコ画はモザイクには向かないと思うので。巨大な照明やクレーンやイントレを携えて美術番組で撮影したい欲求にかられつつ、でもどんどんテッサロニキを後にする。
ディレクター 中村博郎
アギア・ソフィア教会の聖母子像
テッサロニキ駅構内にある教会
テッサロニキ駅
「ギリシャ撮影日誌 7」

ギリシャの旅も終わりが近づいてきて、だんだんと心が悲しくなりがち。列車に乗っていても、車で移動中も、途中で立ち寄る町や遺跡でも、頭を離れないのは二度と来ることのないこの場所、この時間、この仲間たち。まあ、毎回いつもそうなんだけど。そして結局はlife goes onなんだけど。

テッサロニキから、トルコ国境に近いアレクサンドルーポリまでは600番台の普通列車に乗る。特に可もなく不可もなく。インターシティよりも格別乗り心地が悪いというわけでもないが、空調がない車両では昼間はそこそこ暑くなる。でも窓が半分開くので自然の風が心地よい。
車窓には何となく寂しい風景が続く。人は少なく、緑が溢れ、山が多い。多分これは「バルカン半島らしい」風景に近いのだろうと想像する。あの山の向こうはマケドニアだったり、ブルガリアだったり。「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島。思えば今、列車が走っているこの土地も、有史以前から数え切れないほど様々な民族が行き交ったのかもしれないし。商人や狩人や軍隊や難民や旅芸人や学者や山賊や羊飼いや錬金術師や王侯貴族に至るまで。何だか不思議な感覚。歴史の舞台的効果?それとも単に疲れが出て五感が過敏になっているのか?

シーザーを暗殺したブルータスが追っ手のアントニウスを迎え撃ったというフィリピの平原を見晴らせば、兵士たちの鎧甲や武器が太陽の光にキラリと光る情景や、馬の蹄や息づかいの音が、ありありと感じられるような気さえした。クラクラ。
まあ、でも、そんなことは一瞬あるだけで、やっぱり寂しく、地味で、特徴のない風景が続いて日没直後ようやくアレクサンドルーポリ到着。ああ、とうとうギリシャ最後の夜となってしまった。サモトラキ島を見ながらシーフードとワインでささやかな宴。

翌朝は早起き。6:44の列車に乗るために5:30にホテル出発。イスタンブールまで長い一日が待っている。この早朝出発は予定外。線路工事のために、他に列車がないのだ。ギリシャ最後の駅ピティオンで延々と列車待ち。周囲に家一軒ない陸の孤島のようなところだ。駅舎と役所の建物が寂しく建っている。これまでに見た国境駅ってほとんどがこんな感じだけど、それはやっぱり国境地帯というところが既に辺境だったり危険だったりという歴史があるからなのかもしれない。
イスタンブールに向かう列車は、トルコから国境を越えてやって来る。待っている間に機材の通関と出国手続きを済ませる。
 
ディレクター 中村博郎
緑豊かな風景の中を走る
フィリピ遺跡
アレクサンドルーポリのレストラン
「トルコ撮影日誌 1」

トルコとギリシャは仲が悪いとは聞いていたが、マジに大変に悪いことがよく判った。ギリシャの国境駅ピティオン付近はものすごい撮影禁止。すぐに止められ、怒られる。だけどさあ、何にも無いじゃん?川があるだけでしょう?川岸に塹壕とかトーチカとか迷彩した戦車とか地下ミサイル発射台がずらりとあるわけじゃないのに、どうしてそんなに「撮るな」って言うかな?いや、実は20万人の兵士がAK47を構えて巧み に川岸に隠れているのかもしれないけど、目に見えないものはビデオカメラにも映らないから大丈夫だよ!それに、両国ともNATOでしょ?いわゆるひとつの“同盟国”なんじゃない?トルコは近々EU加盟の予定もあるんじゃなかったっけ?こんなことでいいの?
.…などと私がいくら思ったところで「禁止」が解除されるハズもなく。カメラの電源を落とし、欲求不満のまま列車は鉄橋を渡ってトルコに入る。撮影禁止なのはトルコ側も同様で、車掌ににじり寄りながら「もう、撮ってもいいか?」と問い続けること5分ほどで許された。もちろんトルコ側にも何も特別な軍事施設は見当たらないのに。
そう、この「撮影禁止」的問題はこの後も度々発生。軍の基地があちこちにあって、線路沿いなんかによくあるのだが、そこは撮ってはいかんのだ。また列車を撮っていると、それがたまたま軍用の車両や設備を積んでいる列車だったりして、これも撮ってはいかんかったり。んもー、煩わしい!

トルコに入ると、自然的地理的条件はただちに変わるわけではないが、でもギリシャよりもさらに一段と寂しい風景。畑がどこまでも広がっているが、人の姿を見かけることは少ない。食糧自給率が高そうだなんてことを考える。通り過ぎる村や町は、何れもモスクのミナレットが空へと高く突き上がっているのが印象的。
車内の様子はギリシャと全く違う!トルコの乗客の基本はフレンドリー。「あら、外国のテレビだわ。撮ってもらわなくちゃ!」という感じで迎えてくれる。でも記念写真の感覚なのでレンズを見つめて10秒静止。それが過ぎると飽きてしまうようだ。また、食べ物をすぐに分けてくれる。それとも、私たちが特別にひもじく見えただけなのか。とてもありがたいのだが「仕事中」につき正直ちょっと困惑。ブドウとかナッツとかクッキーで両手が塞がっているテレビディレクターってどうなんだ?

やがて日が暮れていくなかを、ひたすらイスタンブールへ。
 
ディレクター 中村博郎
ピティオン駅
車内で出会った女の子
イスタンブールへ向かう車窓から
「トルコ撮影日誌 2」

トルコの鉄道は只今いろいろと進化の途上。イスタンブールのヨーロッパ側とアジア側を結ぶ海底トンネルだって建設中。いずれ「昔はシルケジ駅からフェリーで対岸のハイダルパシャ駅に渡ったもんじゃがのう」などと私が話して若者に笑われたりするのだろう。最高時速250kmという高速鉄道化も進められている。ロバが牽く荷車の横を高速列車が走っていくというのも何だかトルコらしい。

イスタンブールからは新たに助っ人が加わった。ドゥイグさんはイスタンブールの大学2年生。映像や放送専門の大学だそうで、将来はテレビ局で働きたいのだという。トルコでは、番組制作の仕事はほぼテレビ局にしかなく、そしてテレビ局に入社するためには、そうした専門の大学に行く必要があるのだそうだ。うーん、だけど助っ人とは言っても女性に重い荷物を持たせて走らせたりしちゃいかんよなあ。

エスキシェヒルまでバシュケント・エクスプレスに乗ろうとして、いきなり問題発生。満席だと言うのだ。いや、当然そういうこともあると予想して指定席を取っておくようにコーディネーターのセラップさんに指示してあったのだが「トルコの列車はガラガラに空いているので大丈夫」と断言されていたのだった。あ痛たた。でも、こうした間違いの理由は判らないでもない。トルコでも長距離の鉄道を使う機会は少ないからだ。世界の例に洩れずバスか飛行機を使う方が一般的。鉄道の行く末が危ぶまれるったらありゃしない。交渉の結果、車掌室に乗せてもらえることになり予定通りに出発。でも今後はちゃんと確認しておいてよ!

イスタンブールから東へ向かうと高層のしゃれた住宅が続き、右側の奥には青い海が広がる。この付近には工場も多いのだそうで、そのためか大きな船がたくさん浮かんでいる。バシュケント・エクスプレスはエアコンが効いていて、静かで、きれい。乗客も服装・髪型・お化粧・持ち物など一目でお金がかかっている。ギリシャ国境からイスタンブールまで乗って来た列車とは全く違う雰囲気で、ちょっと不自然にすら感じてしまった。トルコ複雑そう。ありきたりの先進工業国の顔と民族的伝統的農村の顔とでも表現すればよいのかしら。いわゆるヨーロッパとアジアの二つの顔ということなのか。むむむ。隣にいるセラップさんに思わず「でもトルコ、もうすぐEUに入るんでしょ?」と訊いたら「それまでEUがあるかな」という返事が返ってきた。さすがトルコ人。
 
ディレクター 中村博郎
西と東が出会う町、イスタンブール
イスタンブール、ハイダルパシャ駅から出発
バシュケント・エクスプレスに乗って
「トルコ撮影日誌 3」

期待していなかったエスキシェヒルは、とてもきれいな町だ。川の周辺が再開発されて遊歩道や橋が整備されており、昼間こそ日差しと暑さのためか人の姿も疎らだが、薄暮の頃になると、まるで渋谷センター街を思わせるような人出になる。商店もレストランも道行く人々も活気があって、何だか嬉しくなってくる。

エスキシェヒルから先へは、トルコ語で「ヨルジュ」と呼ばれる普通列車。欧米の旅行者向けウェブサイトを見ると「ヨルジュは非常に遅いので乗らない方が賢明」と書いてあったりするが、それこそ願ったりと思う私たちは、やっぱり変?
ここからは、ディープなトルコに入っていく気がする。祖国解放戦争の中心だったということで、ケマル・アタチュルクはもちろん、「服の中に武器を隠して運んだ女性たち」の像なんかもある。だけど車窓に広がる風景は、やさしく、おだやか。どこまで行っても、畑・岩山・森・畑、の繰り返し。天気もよく、乗客たちはフレンドリーで、うららかな鉄道旅行。とは言え、乗客たちを撮影していて思い知るのは、民族的な複雑さ。目の色は青・緑・茶色それも濃淡いろいろと多様であり、髪の毛は金髪もあれば黒髪もある。この半島に興った国を少し調べると アルザワ、キンメリア、ヒッタイト、リディア、フリギア、メディアと声に出して読むのに一度目は失敗しそうな名前も多い。ギリシャも謎が多かったが、トルコもやはり謎は多いとしみじみ。通りすがりが深く知るのは不可能と気づく。

車内で出会う乗客に不思議と多いのが、結婚式と割礼式の行き帰りの親族たち。結婚式は判るけど、割礼式って想像するのが難しい。ちょっと恐い想像。他には、温泉に湯治に行く人たちや、兵役についている家族に会いに行く人たち、病気の親戚を見舞う人、海水浴に行く家族など、こうなると人間の営みはどこに行っても同じと変に安心。

毎日の移動のために、とうとう着るものがなくなった吉原くんは、服を求めて夜の町へと消えて行き、サッカーチーム「ベシクタシュ」のユニフォームを買ってきた。速乾性なので今日からこれ一着で大丈夫と安堵の表情。店では「初めて日本人の客が来た!」というので大いに感激して、記念に店の壁に名前をサインさせられたそうだ。可笑しい。
この服の選択はなかなかよくって、行く先々で「お、ベシクタシュじゃん!」という感じで迎えてくれるようになった。でも敵対するチームのファンの場合は逆効果かも?
ディレクター 中村博郎
エスキシェヒル駅
エスキシェヒルを出発して南へ向かう
アフヨンカラヒサール駅にて
「トルコ撮影日誌 4」

トルコって地震が多いのに石を積み上げて町を作っちゃダメだよなあ…と、遺跡を見ながら思うわけだが、たとえ地震がなくとも現在まで建っていた可能性なんて殆どないか。しかし遺跡が荘厳な印象を与えるのは、ある程度の形を保っている場合であって、ゴロゴロと瓦礫の山になってしまったのを見ていると「白き灰がちになりて、わろし」などというフレーズが頭の中を走馬燈のように過ぎていく。いよいよ暑さにやられてきたか?

トルコ三大名所(と勝手に命名してみた)のひとつ、パムッカレ。丘の斜面を覆いつくす真っ白な石灰。そこには鍾乳洞の中で見るような石灰棚。中を覗けば、水に青い空が写り込んで例えようのない涼やかな美しさ。ローマ時代、この白い丘の上には、白い大理石の町があったという。ちょっと待った。そりゃものすごく素敵で幻想的だけど、この日差しを考えると全てがギラギラと反射して強烈に眩しくて、紫外線による健康ダメージはさぞかし大きかっただろうと妙な心配をしてしまう。

「健康」を意識してしまうのは、このヒエラポリス遺跡の見所が、お墓だからでもある。古代の墓地。死人の町。ネクロポリス。墓の多くは棺桶そのままのような形をしているが、中には家のようなものや小山のようなものもある。お金持ちの墓というわけだ。客死した人も多いと考えられていて、というのもここは昔からの温泉地。湯治に人々が訪れた。でも既に病気だというのに何日も猛暑の中を馬車か輿に揺られて、ようやく到着した時には病状は一層悪化。間もなくお亡くなりになるという場合も多かったというわけだ。そういう人は、ここまで来られるだけあってお金持ちだったりはするので、お墓をあつらえることができたと。何だか気の毒な話。

「綿の城」ことパムッカレの周辺は偶然にも綿の産地で、県庁都市デニズリは繊維産業が盛んだ。でもここで密かに狙っていたのはデニズリ名物、闘鶏用の雄鶏。現在では闘鶏は禁止されているが雄鶏を飼っている人はまだいるというので、探し歩いてようやく発見。デニズリ雄鶏の特徴のひとつが、その長〜い鳴き声だ。とは言え、なかなか鳴いてくれないところをドゥイグ嬢が携帯電話の呼び出し音「鶏の鳴き声」を使って刺激する。ついに鳴かせることに成功!コケコッコーーーーーーーーーーーーーーーーとそのまま約30秒引っ張るのだから、なかなかスゴイ。でも、今回は動物番組の取材じゃないんだよな。
ディレクター 中村博郎
夕暮れの石灰棚
ヒエラポリス遺跡
デニズリ駅
「トルコ撮影日誌 5」

ぐるっと半周して、気がつけば目の前には再びエーゲ海。もっとも海の方向は逆だから、今度は夕日が沈むエーゲ海になる。というわけで、旅はもうすぐ終わり。地図を見ればトロイ遺跡、ガリポリ半島、ブルサと足を伸ばしたいところはたくさんあるけど、そんなことをしていると永遠に地球を周り続けることになってしまい、「彷徨える鉄道日本人」なんて言い伝えになるのはちょっと嫌。それに、いつかまたここに戻って来られる言い訳を残しておくというのもいいものだ、などと自分に言い聞かせるイズミールの夕暮れ時。オレンジ色の太陽を浴びて町の建物がキラキラと光り、やがて薄暗くなると、今度はポツリポツリと明かりが灯っていく。モダンな大都市でありながら、どこかミステリアスな雰囲気が残っていてなかなかよろしい。海辺のレストランで久しぶりの新鮮なシーフード。ちょっと幸せ。見回すとアメリカ人の観光客が多い。一応イスラム圏なのにと、やや意外な気がする。

デニズリからの列車は、長く、暑かった。駅に着くと、乗客は水道に駆け寄って、ペットボトルに水を満たしてくる。「トルコの水道って飲んでも平気なんだっけ?」とセラップさんに尋ねると、「鉄道の水は最初から飲むことを前提に建設されているので、都会と違って冷たくていい水」という答。へえ、そういうものかと感心する。空腹と渇きに対する備えが悪かったのは私たち。トルコでは、普通列車にばかり乗っているためか、車内販売というものに出会わない。一般の人が物売り目的で乗車してくることも稀。しかも品揃えは少なく、ゴマパンだけだったり。大抵の乗客は、食べ物飲み物をあれこれ携えて乗車しているので、あまり売れないのかも。それに、何というか、トルコには食事を簡単に済まさないこだわりがあるみたいで、列車の車掌や運転手も、ちゃんと野菜を切ってサラダを作り、チーズやオリーブ、パン、紅茶、というような食事をしている。サンドイッチ+缶コーラ、というような簡略形は嫌いみたい。紅茶も二段式のポットで水から湧かして入れている。

そういえば、電気やガスのインフラがない田舎の食事は美味しかった!それもそのはずで、肉は仕入れたばかりだから新鮮だし、焼くには炭火しかなく、パンは竈でしか焼けない。文明の利器がないおかげで実現する贅沢な食生活。便利さと引き替えに失うものはいろいろあるな、と思いつつ、この対極にあるような日本はもうすぐだ。
ディレクター 中村博郎
イズミールへ向かう列車
イズミール、チーリ駅
橙色に燃える夕日を眺めて
 
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