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「アメリカ撮影日誌1」

 「哀しき中年撮影隊」がまたも登板!1年に2回のロケはかなりリスキー!
 というわけで、今回は20代のスタッフが介護役として2人加わった。ニューヨークに着いたのは9月5日。同時多発テロから5年目の日を間近に控え、アメリカはやはりピリピリしていた。
アムトラックの列車に乗り込むべくミッドタウンのペンシルベニア駅に行くと、カメラを構えただけで駅職員が怖い顔で寄ってくる。私服の警察官にも2度尋問される。アムトラックが出した許可証を提示すれば皆納得するのだが、完全に不審者扱い。駅の売店、行き交う乗客を撮っていても嫌な顔をされる。気分は落ち込むばかり。列車に乗り込んでもシカゴに着くまではまったく窓を開けてもらえなかった。運転席の撮影は全線で不可。列車の走りを撮る際にも警察に3度捕まった。貨物列車の運転士や一般市民の通報による。撮影車の隣に止まっていた電気工事用の車。その車に乗った普通のお兄さんが実は警察関係の人間だったということもあった。常に監視されているようで緊張を強いられる。ひどく疲れる。
 救いは車内の乗客で、撮影を拒否する人がほとんどいなかったこと。乗客を撮る際には肖像権の使用願い書にサインをもらわなければならないのだが、そんな必要はないという人も多かった。9.11をアメリカのメディアは“The Day America Changed”と呼んでいる。通報で駆けつけた警官もこんな状況を“It’s Crazy”と嘆いていた。ちょっと憂鬱な、旅の始まりだった。
ディレクター 福本 浩
グランド・ゼロ
ニューヨーク ペンシルベニア駅
フィラデルフィアへ向かうペンシルベニアン号
「アメリカ撮影日誌2」

 9月9日、ペンシルベニア州のランカスターに到着。郊外を走る蒸気機関車を撮影する。1832年に開業したというストラスバーグ鉄道。周囲はトウモロコシや大豆、タバコの畑が広がるだけで特別な場所でも何でもなく、距離もわずか7キロほどの路線なのだが、けっこう人気は高く、土曜日ということもあってたくさんの家族連れでにぎわっていた。客車には窓ガラスがなく久しぶりに開放的な車窓と乗客が撮影できた。アメリカの屈託のない楽しさも味わえた。こうでなくちゃね。
ところで、ここランカスター郡にはアーミッシュと呼ばれる人々が数多く住んでいる。キリスト教の再洗礼派に属するという彼らは近代化を頑なに拒み、電気や電話も使わず、日常の移動は馬車という開拓時代さながらの生活を続けている。とはいえ商用電源ではなく風車や水車によって蓄電池に充電した電気なら利用でき、旅行の際にも自分で運転しない自動車、飛行機、列車には乗っていいらしい。実際アムトラックの車内でもけっこうアーミッシュの人々を見かけた。撮影を許してくれる人も多かった。
 印象的だったのはストラスバーグ鉄道の近くで見かけた姉弟らしき2人の子供。ペダルのない自転車に乗り、足で地面を蹴りながら走っている。自転車の最も初期のスタイルだ。買い物の帰りらしくカゴは荷物でいっぱい。その中に化学洗剤も混じっていて、あれ?と思ったけれど、微笑ましかった。凛々しさ、高潔さも感じた。われわれはウットリとした思いで撮影していたが、カメラの前を通り過ぎようとした時、少女が「撮らないで」と優しい声で言った。帰国後、まさにこの辺りのアーミッシュの学校が暴漢に襲われ5人の児童が射殺されるというニュースを聞いた。その時、殺された13歳の少女が年下の子供たちをかばって、「私を殺して」と言ったという。さらに遺族たちは犯人の家族を許し、抱擁し、葬儀にも招いた。その孤高の行為に心が激しくゆさぶられた。あの時の、少し困ったような少女の顔が今も忘れられず、胸が痛い。

ディレクター 福本 浩
ストラスバーグ鉄道の蒸気機関車
ストラスバーグ鉄道 オープンエアクラスの車内
ランカスター郡のアーミッシュの子供たち
「アメリカ撮影日誌3」

 今回、初めて世界の車窓からのロケに参加したアシスタントディレクターの立川修史です。この番組が始まった1987年、僕はわずか7歳。小学一年生でした。それから20年近い年月が流れ、この番組の撮影のために30歳も年の離れた「哀しき中年撮影隊」と共にアメリカを旅することが、とても嬉しく、不思議な感じがします。これから何回かに分けて、現場で感じたことを撮影日誌として書きたいと思います。

 9月11日、本日の撮影スケジュールは非常に奇妙である。早朝6時前、ピッツバーグから200キロ離れたアルトゥーナという小さな街に車で移動する。そしてこのアルトゥーナの街からピッツバーグまでペンシルベニアン号に乗車して移動し、ピッツバーグから再びアルトゥーナまで車で200キロ移動するというものである。合計600キロ近くの長旅だが何だか行ったり来たりで旅をしているように思えない。しかし、このようなスケジュールになったのにはちゃんと理由がある。
 数日前、ハリスバーグで鉄道用の石造りアーチ橋としては世界一長い「ロックヴィル橋」と、この橋を通過するペンシルベニアン号を撮影するために待機していたのだが、列車がいよいよ来るという時間になって突然、トランシーバーがうるさく音を立てた。 「えー、ただいま、警察らしき男性が近づいてきました。あ、捕まりました…!」川の対岸の線路脇で待機していたスタッフからの連絡だった。貨物列車の運転手が線路脇でカメラを設置していた我々を怪しみ通報したのだった。列車を撮影してから駆けつけようと考えたのだが、何十両もある長い貨物列車は橋の途中で急停車し、ペンシルベニアン号はその貨物の向こう側を走っていった。何もかもバッドタイミング。9月11日前のアメリカは、「絶対テロを起こさせないぞ」という緊張感が高まり、かなり撮影が厳しい状況なのだった。我々はアムトラックの撮影許可証を提示し、無事解放されたが、再びこの橋を撮影する必要があり、スケジュールを大幅に変更することとなった。日本にいるときはまるで実感がなかったが、列車の走りを1カット撮影することがどんなに大変かを思い知った。
 翌日の9月12日。「中年撮影隊」がヘリで空撮している間「20代撮影隊」は列車に乗り込み、アルトゥーナ近くのジョンズタウンという駅から逆方向の列車でハリスバーグに戻り、ハリスバーグで順行列車に乗り換えてピッツバーグ方面に向かうという、前日以上に奇妙なスケジュールを決行した。しかし、9.11を過ぎたためか厳しかった鉄道スタッフの表情は和み、「日本から撮影に来たというスタッフがこんなに若いのか」と驚き、食べきれないほどのハンバーガーとコーヒーをご馳走してくれた。「がんばれよ!」と笑顔で声をかけてくれる車掌や車内売店のスタッフはとても気持ちのいい人達ばかりで、アメリカが好きになった。

アシスタントディレクター 立川修史
ロックヴィル橋で急停車する貨物列車
アルトゥーナの馬蹄カーブ
ピッツバーグに到着したペンシルベニアン号
「アメリカ撮影日誌4」

 9月14日、シカゴ・ユニオン駅からカリフォルニア・ゼファー号に乗り込む。ロッキー山脈越えの人気路線。アムトラックの広報が一緒に乗ってくれたおかげで、窓を開けて撮れるようになった。ようやく通常の車窓のロケらしくなる。車窓は大豆畑や牧草地が広がり気持ちがいい。今回のニューヨークからサンフランシスコまで、およそ5400キロを横断する鉄道の旅。一気に乗れば3泊4日。アメリカには4つの時間帯があり、時差変更線を越えるごとに働く時間が1時間ずつ増えていく。つらい旅だ。しかも車内は全面禁煙。長く止まる駅でしかタバコが吸えない。これもつらい。もっとつらいのは列車が遅れること。この路線のアムトラックはユニオン・パシフィック鉄道など他の会社の線路を借りて走っているため、貨物列車の走行が優先されるのだ。更に保線状態があまりよろしくなく、スピードが出せない区間も多々ある。5、6時間遅れることは日常茶飯事。しかも1日1本しか走らない。走りの撮影は地獄である。暑い砂漠の真ん中で3時間以上立ちっぱなしで待ったこともあった。すっかり暗くなり、せっかく選びに選んだ場所が台無し。夜の走りになってしまった。「車窓」のディレクターはスチール写真を撮ることが義務づけられている。一眼レフのデジタルカメラがひどく重い。そんなこんなの疲れで、またもやってしまった。ドイツのロケで日本からはるばるミュンヘンまで旅をした、我が入れ歯。ある朝、ホテルに置き忘れてしまった。最終ロケ地のサンフランシスコまで郵送してくれるように頼んだのが、届かず行方不明。永遠の別れとなった。現在3代目の入れ歯(くどいようだが、総入れ歯じゃなくて部分入れ歯)と暮らしている。
ディレクター 福本 浩
シカゴの街並み
シカゴ・ユニオン駅のグレート・ホール
シカゴを出発するカリフォルニア・ゼファー号
「アメリカ撮影日誌5」

 9月15日、アイオワ州のバーリントンというミシシッピ川沿いの港町に滞在する。この大河を渡るカリフォルニア・ゼファー号を撮影するため、バーリントン鉄道橋の脇にある下水処理場のタンクの上にカメラを設置し、同時に線路向こうの川岸からも列車の走りを狙う。しかし列車が到着する時間になっても、なかなか列車の姿が見えてこない。どうしたことだろうと考えていると、ミシシッピ川の上流から石炭を山盛りに積んだ船が汽笛を上げて進んでくるのが見えた。その直後、およそ150年も前に作られたというバーリントン鉄道橋の一部が大きく回転し始めた。なんとこの橋、とても低く作られているために船を通すときに、橋を回さないといけないのだ。当然、回転中している間、列車は通過することはできない。列車が遅れているのは、船の通過を待っているためで、その結果、我々は非常に臭い下水処理場のタンクの上で1時間ほど我慢することになった。
 このバーリントンという町はかなり廃れた町だ。かつては石炭の積出港として栄え、港まで貨物列車の線路が敷かれていたりするのだが、山盛りに石炭を積んだ船や貨物列車はこの町に停まることなく過ぎ去っていく。それにしてもアメリカの貨物列車はあまりに長大だ。何十両という巨大な編成は当たり前。先頭から最後尾まで過ぎ去るまで15分もの時間を費やす。また、アメリカでは貨物列車の会社が鉄道路線を所有し、アムトラックはその線路を借りて走っているため、貨物列車のスケジュールが優先されてしまい、通常の運行スケジュールよりも遅れてしまうことも多い。運んでいる物資も色々あって幅広い。小麦粉など大量の生活用品をはじめ、生活物資自転車やバイク、自動車や軽トラックといった乗り物や、豚や馬や牛など家畜類のほかに、ダイナマイトや爆薬といった危ないものまでコンテナに入るものなら何でも来いという感じだった。それだけの物資を運ぶため警戒心も強いのか、このバーリントンでも貨物の機関車が僕らの前で急停車し、突然、窓が開いたかと思うと機関士が顔を出し「パシャ!」と携帯電話のカメラで僕らを撮ったのだった。こんな片田舎まで来ているのに、何か指名手配の犯人のような気分になってしまった…。
アシスタントディレクター 立川修史
ミシシッピ川を渡るカリフォルニア・ゼファー号
回転するバーリントン鉄道橋
アイオワ州の大豆畑を疾走する
カリフォルニア・ゼファー号
「アメリカ撮影日誌6」

 9月17日、デンバーに到着。以後、25日までコロラド州に滞在。ロッキー山脈の周囲に広がる大自然を満喫する。ここにはもうピリピリしたアメリカはなく、変わらぬアメリカがあった。アムトラックだけではなく3つの観光鉄道も撮影した。特にパイクス・ピーク・コグ鉄道の車窓がよかった。標高4000mを越える山頂での撮影はさすがに息が苦しかったが、気持ちはさわやか。とにかく今回のアメリカ・ロケでコロラド州での撮影が一番気持ちよかった。それは風景だけのせいではない。一緒に仕事をしたドライバーが本当にいい男だったからである。それまではドライバーに恵まれなかった。ニューヨークからピッツバーグまでのドライバーは携帯でしゃべってばかりいて、道路サインをよく見落とし道に迷う。仕事時間が長くなるとすぐ機嫌が悪くなった。シカゴ〜バーリントンのドライバーは自称・俳優のC調男。1日に何回も服を着替える変なヤツ。駐車禁止の場所に車を止め、なぜか警察の制服も持っていて、それに着替えだしたので慌てて止めた。列車に乗り込む時は私物や要らない機材を車にのせ、降りる駅までドライバーに運んでもらうのだが、いつまでたってもやって来ない。やむなくタクシーでホテルへ。ドライバーと荷物が着いたのは真夜中だった。彼もまた地図を見ずカンで走るタイプで、道に迷ったのだ。アメリカではカーナビはまだ普及していない。デンバー生まれのドライバー、ビルは全く違う。道をよく知っているし、以前にアムトラックの撮影を経験しているので撮影ポイント情報にも明るい。朝早い出発では熱いコーヒーとクッキーを用意してくれた。ビールを愛し、フットボールを愛し、コロラドを愛する素朴な奴。こんな男に出会うとアメリカが好きになる。
ディレクター 福本 浩
ジョージタウン・ループ鉄道
パイクス・ピーク・コグ鉄道
ロイヤル・ゴージ・ルート鉄道
「アメリカ撮影日誌7」

 9月20日。この日、ロイヤル・ゴージ・ルート鉄道という観光鉄道の撮影を行う。僕はこのアメリカロケに参加して、「観光鉄道の撮影がある日は覚悟しなきゃな」と思うようになった。というのは、多くの観光鉄道は路線が短く、列車の運行数が限られているので、ミスできないからだ。例えば、先日取材したストラスバーグ鉄道は、片道約20分しかない。列車の出発を撮ると同時に三脚を担いで車に乗り込み、大急ぎで列車を追い越し、撮影ポイントで車を降りて、大豆畑の脇道をまた三脚を持って走って設置し、撮影後、撤収して、また車に乗り込み、列車の折り返し地点へ急ぐ。文章で書くと簡単そうだが、実際はホテルに帰った途端ベッドに倒れてそのまま寝てしまうぐらいハードなロケだった。
 今回のロイヤル・ゴージ・ルート鉄道の撮影は、また別の意味でのハードさが待ち受けていた。垂直に切り立った大峡谷の下、アーカンソー川に沿って走ってくる列車を狙って、二手に分かれ、線路脇をずんずんと歩いていく。ちょうど世界一高い吊り橋ロイヤル・ゴージ・ブリッジと列車が同時に見えるようなポイントまで歩いていくのだが、これがなかなかすごい景色であった。乾いた赤い岩石がごろごろし、その合間に長いトゲがどっさり付いたサボテンが黄色い花を咲かせニョキニョキと生えている。撮影ポイントが決まり斜面を登ることになった時、「こういうところは、必ずガラガラヘビが生息していて、岩の陰に潜んでいることが多いから手を付かないように気を付けて!」とカメラマンに注意を促された。ヘビがいないように祈りながら、ゆっくりゆっくり上っていく。サボテンに足を刺されながら、滑りやすい斜面を登り、列車を待つ。あと5分で列車が通過するという時間になったとき、シュ〜シュ〜というイヤな音が聞こえてきた…。これはガラガラヘビが出す警戒音なんじゃないだろうか…?体に張り付くような冷や汗が流れた。ヘビがどこか確認したい。だが、もうすぐ列車が来る、それを見張っていなくてはならない。視線を動かすことができない。しかし列車の汽笛を聞こうと耳をすませているので余計にそのシュ〜シュ〜という音が耳に付いてしまう。「列車よ、早く来てくれ!」と願いながら列車の来る方向をじっと見つめていた…。と、そのとき鮮やかなオレンジ色の列車が現れ、屋根のない展望車に乗った大勢の乗客達がこちらに向かって笑顔で手を振ってくれた。一瞬の出来事だったが、恐怖を忘れ、嬉しくなり、思わず手を振り返した。苦労が報われた思い出深い瞬間だった。
 
アシスタントディレクター 立川 修史
パイクス・ピーク・コグ鉄道の列車を待つ
雄大なロイヤル峡谷を走る
ロイヤル・ゴージ・ルート鉄道の展望車
「アメリカ撮影日誌8」

 9月24日、今日は空撮。快晴。コロラド州のグレンウッド・スプリングスからヘリで飛び、アムトラックの列車を追った。この時のパイロットがすごかった。今までで出合った中でピカイチの腕。おそらく軍隊上がり。峡谷を流れる川面すれすれに飛んで列車よりも低い位置で並走するし、空中で停止し頭を振ってカメラをパンさせてくれる。時々川の上に細い電線が架かっているが、それを「おっと危ない」と言いながらひょいと乗り越えていく。片足で軽くジャンプするような感じで。実は、夕日が正面から当たって電線が見えづらく何回かはホントに危なかった。撮影終了後、「フライトはどうだった?」と聞くから、「素晴らしかった。ちょっと怖かったけど」と皮肉を言った。そしたら「少しぐらい怖い思いをしないと、いい仕事はできないもんだ」だって。いや、名言でございます。あんなボロいヘリを自由自在にコントロールできるあなたは偉い。空港から飛び立ち、先回りして列車を岩山の上で待っていた時のこと。列車が来てさあ離陸という時にエンジンがかからない。エンストですよ、エンスト。「オイオイ、ここからどうやって空港に戻ろうか? 明日もう1回飛べるだろうか?」と激しく不安になったが、平静を装う。笑うしかない。凄腕パイロットは携帯で整備員と連絡を取りながら、必死であれこれやっている。黒い煙と油の匂いが周囲に広がっていく。急にヘリコプターが原付バイクのような身近な乗り物に思えてくる。何をどうやったか知らないが、列車が通り過ぎていった5分後ぐらいに飛ぶことができた。こんなエンストが2回もあったんですよ。ちゃんと整備しとけよなあ。すごい画が撮れたからチャラだけど。
ディレクター 福本 浩
グレンウッド・キャニオンを走るゼファー号
コロラド・ユタを空撮したヘリコプター
ユタ州の砂漠地帯を疾走するゼファー号
「アメリカ撮影日誌9」

 9月26日、コロラド州デンバーからネバダ州リノまで列車に乗る。走行距離約1873キロ、かなり遅れたので乗車は32時間半!こんなに長く乗るのは中国・モンゴル篇以来か。車窓は雪を抱いたロッキー山脈から険しい峡谷、そして砂漠と変化に富む。が、ずっと車窓を見ていると景色はどっかに吹っ飛んでしまい、何だか昔のことばかり思い出してセンチな気分になってくる。50過ぎのセンチなおじさんなんて気持ち悪いだけだが……。30年前、初めてアメリカに来た。初めての外国でもあった。まだ1ドル200円ぐらいの時代。英語だらけの町並みを見て、何とも言えない不思議な気分に襲われた。人ごみの中を歩いていても何だか映画のスクリーンの中にいるようなフワフワとした気分だった。あれがカルチャー・ショックというものなんだろう。その後60ヶ国以上の国へ行ったが、そんな気持ちになることはなかった。列車の中で老夫婦が寄り添いながら車窓を眺めている姿をよく見る。彼らもまた風景を見ているばかりじゃなくて、ふたりで歩んできた人生を振り返っているのだろう。列車での長旅ならではの醍醐味でもある。30年前とアメリカは変わったのか……。これは今だに答えは出ない。私の中でアメリカへのあこがれは既に消えて久しい。ただ、“God Bless America”という曲は変わらず好きだ。好きになったのは映画「The Deer Hunter」のラストシーンを見てから。1人がこの歌を口ずさみ始め、2人、3人と静かに広がっていく。戦争の空しさと仲間を失った悲しみに打ちひしがれながらも、祖国の未来を信じようとする普通の人々の気持ちがしみじみと伝わってきた。素朴に祖国を思うこんな美しい歌を持っているアメリカ人がうらやましいと、今も思っている。
あんまり勇壮に歌われると鼻白んでしまうけど。
ディレクター 福本 浩
雪が降る中を突き進むゼファー号
車窓に広がるネバダの砂漠
ラウンジカーの老夫婦
「アメリカ撮影日誌10」

 30日、リノからカリフォルニア州エマリービルへ。最後の乗車だ。本来なら夕方の5時前に到着するのだが、5時間も遅れた。お詫びに車内でビーフシチューがふるまわれた。思えば車内で本当にいろんな人に出会った。兵士としてアフガニスタンに向かう息子を見送りに行くという老女、亡くなった祖母が残したキルトを完成させようという女性、2人の子供を連れて実家へ向かう主夫専業の男性(コンピューター関連の会社に勤める奥さんが家計を支えている)。カリフォルニアでボートやヨットを造りながら暮らしたいという木工職人。モデル志望の女性を連れた一癖ありそうなプロデューサー。そして、34人の養子の母だという女性。自分も孤児だったことからアメリカ国内や外国の恵まれない子供たちを引き取って育てている。変わらぬもの、変わったもの、そのふたつが多様な形で広く深く存在するのがアメリカ。鉄道の旅は、その国の飾らぬ今を見せてくれる。その思いをまた強く実感した。
ディレクター 福本 浩
エマリービル駅に到着する
カリフォルニア・ゼファー号
まだ新しいエマリービルの駅舎
アムトラックのバスでサンフランシスコへ移動
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