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東ヨーロッパ編撮影日記
1.「行ったことのない所には、行ってみたい」

今年もまた唐突に、岡部プロデューサーのダーツの矢が放たれた。「次の車窓は東欧を考えています。スケジュールは如何でしょう?」。メールでたった1行。嘘ではない。こうして毎年、あちこち飛ばされているのだ。ピュン。何も斜に構えている訳ではない。声をかけられた途端、鼻息フガフガ。彼の地への想像は膨らみ、地図帳を見ていると夜も眠れなくなる。そして地図帳とガイドブックに目を通していたら、ルーマニアとブルガリアに呼ばれているような気がした。どちらも行ったことのない国だ。こうなると想像は妄想となり「ルーマニアで羊と戯れている私」「ブルガリアでバラを摘んでいる私」が脳内でくるくる踊り始める。

希望を告げると意外にすんなりルーマニアとブルガリア行きは決まった。しかしここで岡部プロデューサーより短いが壮大な提案が…。「国際列車も入れようよ」。調べてみたらチェコのプラハから、スロヴァキア、ハンガリーを縦断してルーマニアに至る「パンノニア号」なる列車があった。その走行距離およそ1500キロ。に、に、24時間も乗車するらしい。(ブダペストで途中下車することになったけど)それから日本の本州ほどあるルーマニアを周遊し、ブルガリアにも行っちゃうのだ。ここ数年コンビを組んでいる辻智彦は「走り屋トモくん」とでも呼びたいほどの健脚の持ち主。今回が『車窓』デビューとなる遠山くんも若鮎のようにピチピチだ。「よし!二人に頑張ってもらおう」。オバチャンに片足を踏み入れつつある私は、慎み深い同行者となることを心に決めたのだった。

プラハの宿泊は1泊だけだった。だからプラハってどんな所?と聞かれても答に窮してしまう。どことなくドイツに似ているなあ、というのが獏たる印象。重要なのはパンノニア号の始発地ということだ。そして、すでに私の中では妄想が始まっていた。「車両はごつく、色はネイビーブルー、夜汽車に揺られている乗客の横顔にはどことなく翳りがあって…」。ところが現実のパンノニア号を目にし、直ちに妄想とのギャップの修正を迫られる。4つの国を縦断するから、車両も仲良く4等分。赤、青、緑とバラバラで統一感がないのだ。行き先表示の看板に書かれたPANNONIAの文字も申し訳程度だったりする。乗客もバックパッカーが多かった。出発が夜の11時23分だったから、出発してすぐにオヤスミ態勢に入る人が多く、我々も早々に寝床に入った。1等の寝台車は2段ベッドで布団も清潔。久々の寝台車は、列車の揺れが心地よく、やはりいいものだった。スロヴァキアで深夜3時に、突如パスポートチェックがやって来たのには驚いちゃったけど。

ディレクター 中澤洋子

プラハ本駅ホームとパンノニア号
アルフォンス・ミュシャのステンドグラス
パンノニア号車内
2.「パンノニア号の今昔」

コーディネーターのマルティンさんは、子供の頃パンノニア号に乗った事があると言う。
ヨーロッパが西と東にくっきり別れていた頃、東側の人々にとってバカンスといえばルーマニアやブルガリアの黒海沿岸で太陽と海を満喫することだった。そこでパンノニア号の登場である。東側の海のない国々の人々はパンノニア号で青く輝く海を目指したのだ。ところが今は、地中海でもエーゲ海でもどこにでも行ける。パンノニア号で長距離列車の旅をする必要がなくなったのだ。東ヨーロッパの急激な変化は、こういう場面にも影響を与えている。
我々が目覚めたのはスロヴァキアの首都、ブラティスラヴァだった。それからハンガリーに入国すると、あれよあれよという間に通路まで人が一杯になった。ブダペスト到着は8時18分だから、通勤通学の人々が近郊の街からどんどん乗車したらしい。これが今のパンノニア号の現実なのだった。
ブダペストの宿泊は2泊。だからブダペストってどんな所?と聞かれても答に困る。真面目そうな人が多い気がした。でも重要なのはパンノニア号に再び乗ることだ。乗車が土曜日だったから乗客の入りも良く、お天気も上々。車窓には可愛らしい家並みやプスタと呼ばれる草原、菜の花畑が広がっていた。けれど車内の撮影になって、ちらりと落胆。短い区間を乗る人ばかりで、乗客の入れ替えが激しい。長距離旅行者はほとんどいないのだ。くすん。でも、土地柄が乗客の様子にすぐ反映されるところは面白い。ハンガリーの人々はやはり物静かで、ルーマニアに入った途端、ワイルドになった。さすがラテン系の国だ。食いっぷりなど、野獣のようだった。車窓の景色も違う。ルーマニアに入ると羊、牛、馬が車窓にあらわれる確立が非常に高い。羊が線路を横切って、列車が立ち往生する一幕もあった。

それから印象深いのが、食堂車を利用する人がたった一人しかいなかったこと。ずっと見張っていたのに…。我々は昼も夜も食堂車を利用したので、厨房のおじさんに感謝された。サラダもフレッシュで、よく煮込まれた豚肉のシチューも美味しかった。トカイワインも飲んじゃった。別れ際に「明日も乗ってね」と声をかけられたけど、それは難しい。 それにしてもだ。う〜ん、長かった。ブダペストからブカレストまで15時間である。飛行機なら日本に帰れるぞ。到着の頃には毛細血管が、プチプチ切れそうだった。

ディレクター 中澤洋子
ブラティスラヴァ駅
プスタに広がる菜の花畑
パンノニア号の食堂車
3.「ルーマニアはラテン系」

『車窓』ではこれまでに、ロシア、ウクライナ、クロアチアと東ヨーロッパの旧共産圏に飛ばされる機会が多く、自分自身も性にあうものを感じていた。だから今回もウハウハだった。けれどルーマニアの首都ブカレストに足を踏み入れて、おや?先の三国とは何かが違う。街の印象からいうと、右を向いても左を向いても景色に色がない。旧共産圏独特のグレーのビルだらけ。対照的に人は基本的に明るい。そのギャップに最初は違和感を覚えていたのだけど…街のたたずまいからいうと、民主化されて15年とはいっても、ブカレストはまだチャウシェスクの影をひきずっているようだ。

その昔、チャウシェスクは自分の権威を際立たせるために、美しい教会や一軒家などをことごとく破壊し、代わりにグレーの集合住宅を建てたという。それからアメリカのペンタゴンに次いで大きい「国民の館」なるものを作った。「国民の館」とは、チャウシェスクが掌握する権力のすべてを収めるためのバカでかい器。これがまた独特で、映画のセットのようだった。お城や美術館には歴史というものがあるけれど、「国民の館」は築15年ほど。(チャウシェスクはその竣工を見届けることなく葬られた)その中途半端さと内部のゴージャスさが何とも妙で、リアリティーに欠けるのだ。
北朝鮮の人がブカレストに来て、ピョンヤンに似ていると言ったらしいが、分かる気がする。ブカレストでは政治が街の景観に与える影響について考え込んでしまった。そんな街とは裏腹に、人はとってもフレンドリーだ。やはり東ヨーロッパ唯一のラテン系国家なのだ。明るいというより、人と人との距離感が狭い。その代表格が、われわれ取材班のドライバーとなったラドさんだ。どこで覚えたのか、のべつまくなし英語で話しかけてくる。私は典型的な東北人なので、はにかんでいるぐらいの人に好感を覚える。あまりに喧しいので注意させていただくと、黙っていると頭が変になるとの反論がかえってきた。とほほ…。

ルーマニアの場合、ラテン民族という素地の上に、政治の急な転換も影響しているように思える。何せちょっと昔までは秘密警察がいて、想像を絶する締めつけの中にいた人が、急に自由を手にしたのだから。はじけちゃっても仕方ないのかもしれない。実際にブカレストでは、一旗挙げてやろうと田舎から出てきて、会社を起こす人が多いという。それで上手くいった人、滑ってしまった人が混在し、この街は掴みどころのないパワーを放っている気がする。

ディレクター 中澤洋子
ブカレストのトラム
トラムの車内乗客
ブカレストの国民の館
4.「ドラキュラの里の真実」

ルーマニアといえば、ドラキュラ、コマネチ、チャウシェスクを想像する人が多のではないだろうか。私もご多聞に漏れず、その内の一人だ。それで行ってみたのだ、ドラキュラの舞台とされるブラン城へ。彼の地へ行くために乗車したのは、北のクルージ・ナポカ方面へ行く急行列車。水色の車体がノスタルジックで、なかなか可愛い。途中、2000メートル級の山々が連なる場所を通るのだが、5月だというのに予想外の雪景色だった。綺麗なのはいいけれど、あまりの寒さに鼻水を垂らしながらの撮影になった。そしてブカレストから列車に揺られて3時間、ブラショフで降りて車で30分。念願のブラン城に到着した。出発前、ブラン城を撮影する時はドロロ〜ンと曇ることを願っていた。けれど、そんな時に限って立派な青空。ご対面したブラン城はこじんまりと美しく、とても吸血鬼の住処とは思えないヘルシーさ。ちっとも恐くなかった。それに日本人の我々がぜひ見てみたいと思うほどだから、ブラン城は世界中から人が集まる大観光地だった。城の麓にはドラキュラグッズを売る店が鈴なりで、みうらじゅん氏言うところの「イヤゲ物」の宝庫。Tシャツ、マグカップ、短剣にお面…。どれも、パンチのきいたドラキュラのイラスト入り。そこまで豊富なヴァリエーションを一挙に見ると、人は笑ってしまうものらしい。言葉の壁を超え、みんなニコニコ顔で商品に受けていた。

ちなみにアイルランドの作家ブラム・ストーカーが著した『ドラキュラ』は、ノンフィクション作品ではない。だから、ブラン城と小説『ドラキュラ』との関係は微妙だ。真相を語るとしよう。15世紀の昔、この辺りに串刺し公の異名を持つ、ありとあらゆる拷問を考案実行したヴラド・ツェペシュ公という人がいた。その伝承がブラム・ストーカーの耳に伝わり、主人公像が形成されたらしい。でも串刺し公は、生き血を吸わなかっただろうし、太陽光にもニンニクにも弱くなかったはずだ。たぶん…そしてブラン城は串刺し公のおじいさんの居城だった場所で、串刺し公自身は住んでいない。だからどうしてドラキュラといえばブラン城になったのか、不明だ。広告代理店気質の知恵のある人がいて「そういうこと」にしたのかもしれない。実際、ブラン城内部のガイドツアーに参加すると、ドラキュラの話題は一切出ないらしい。真相がわかっていながら、なぜノコノコそんな遠くまでと思われそうだけど…、いいんだもん!人は騙すより、騙された方がいい。お土産横丁は面白かったし…

ディレクター 中澤洋子
ブラン城
ブラン城の土産物屋
ブラショフ駅のホームと列車
5.「ストライキ騒動」

コーディネーターの船津女史が唐突に言った。「5日後から国鉄がストライキに入るかもしれません」。あまりのショックに、肩が脱臼するかと思うほど落胆した。しかしストが決行されるか否かは、まだ分からない。それからというもの、しつこいと思われるのを承知で、3時間に1遍ほど「ストは?」と女史に聞く日々がつづいたのだった。しかし予定日の前日まで埒があかず、急きょ取材班はスケジュールの前倒しを断行。北のクルージ・ナポカまで一気に駆け上がった。嗚呼、それなのに、それなのに、ストは中止になり、今度は延期だと言う。心理学の本で、見通しが立たないと人はイライラするという記述を読んだことがある。その例に漏れず私も少し…いや、かなり胸焼けと胃痛に見舞われた。
しかしルーマニアにはルーマニアの事情があるようだ。昨年、はじめて非共産党政権が誕生し、人々は生活改善を願って新政権に期待していること。国鉄はバスに客を奪われ財政的に苦しく、そのため職員も低賃金に不満を持っていること。2007年のEU加盟を控えて、物価が上昇していること…。ルーマニアの人のことを考えれば「さあ皆さん、頑張って闘ってください!」と応援したいところだが、「どうか列車様、走ってください」と願う心の狭い私だった。そして私の神通力も相当なもので、結局ストは回避された。

ところでルーマニアの列車だが、ラテン系の割には時間に正確である。一度だけ機関車が故障して頓挫した以外、パンクチュアルだった。ただ寂しいのは、食堂車はおろか、車内販売や国境を隔ててすぐのウクライナにはあった駅ごとの物売りが一切ない。みんなお弁当持参主義でパンにハムやチーズぐらいで済ませている。しかし人のことなど言えないのが我々クルーで、昼食の半分ほどをお菓子で済ませている。というかお菓子が好きなのだ。特にハマったのは、『ジョー』というウエハース菓子で、これは切らさないように細心の注意を払った。断っておくが、特に美味しい訳ではない。甘さはしつこいし、味もどこか安っぽい。けれどそこが『ジョー』の魅力というか、親しみを感じさせるところなのだ。遂に我々は『ジョー』を擬人化し、撮影で辛いことが重なった時など「ジョーに慰めてもらおう」などと言い出し、3人でサクサク食べて奮起している。

ディレクター 中澤洋子
クルージ・ナポカ出発と夜明け
シク村のハンガリー人達の踊り
シゲット・マルマツィエイへ向かう列車の子供たち
6.「ルーマニア流もてなし術」

ブカレスト、ブラショフ、クルージ・ナポカまでは都会だったが、それ以北のマラムレシュ地方は田舎である。出自が田舎なので、こういう所に来るとホっとする。ヨーロッパの原風景と言ってもいいほど、自然、風習、人間ともに素朴で温かい。農作業や田舎道の移動の主流は、今も馬車だ。老若男女、日曜には教会へ行き、祭事を大切にしている。それから羊は家族のように扱われているのでとても人なつこく、カメラのレンズをぺろぺろ嘗めたりする。そして人々からは熱烈的歓迎を受けた。
具体例を報告しよう。まずウクライナとの国境に近いシゲット・マルマツィエイの駅に到着すると、私ひとりが駅長室に呼ばれた。そこに用意されていたのはサラダから肉料理までのフルコース。こんなことは『車窓』のロケでは初めてである。そしてお酒を勧められた。一口飲んで、ガオー!食道から胃にかけて炎の激流が走った。これが噂のルーマニアの地酒、ツイカだった。ものによってはアルコール度数50度を超える蒸留酒である。船津女史によると、まずはツイカで乾杯がルーマニア流のもてなしだそうだ。オチョコ一杯ぐらい飲んだだけで、火だるまみたいになってしまった。この日は牧羊祭という、冬を農家で過ごした羊が、山の羊飼いに預けられる節目の祭を撮影することになっていて、山道を2キロぐらい登ったのだが、最後尾をヘナチョコについていくのがやっとだった。しかし山頂で待っていたのは、またしてもツイカだった。ピクニックのように村人が輪になって座り、飲んで食べているところを撮影したのだが、相手に合わせて座った途端にツイカのお酌。撮影の辻智彦は下戸なので、飲むフリだけ。私も洗礼済みなので用心を心掛けた。かくしてツイカを飲む役は助手の遠山君に。徐々にご機嫌になっていく遠山君、そのうち呂律が怪しくなる遠山君、最後には撃沈して山裾で寝込む遠山君を、あたたかい眼差しで見守る私と辻だった。

ツイカ攻撃はこれに留まらない。その日に泊まったペンションでも、荷物を下ろした途端、宿主が満面の笑顔でツイカのグラスを配り始めた。サルヴァという小さな駅では、駅の隣に住むおばさんの家に呼ばれ、自家製のツイカをご馳走になった。この数日で、果たして何杯のツイカを飲んだのだろう。想像するだに、恐ろしい…。

ディレクター 中澤洋子
シゲット・マルマツィエイ駅ホームと列車
シゲット・マルマツィエイ駅で出会った親子
マラムレシュの牧羊祭 乳搾りコンテスト
7.「若者はどこへ?」

ブカレストはそんなこともなかったのだが、ルーマニアは北へ行くほど若い人の姿をあまり見ない。なぜだろうと思い船津女史に聞くと、若い人はブカレストや外国へ働きに出てしまっているのだと言う。ルーマニア北部というのは農業、林業、畜産業など、昔ながらの暮らしが営まれている地域で、タイムスリップしたみたいに素朴でいい所だ。けれど日本と同様、若い人はそういった仕事を受け継がないらしい。お年寄りが好きなので、ホイホイ撮影しているけれど、頭の片隅で「バランス悪いなあ」という気分が正直言ってあった。それから、おじいさんおばあさんと孫という組み合わせも多い。事情を聞くと、子供を田舎のおじいさんおばあさんに預け、子供の両親は都会で稼ぐということらしい。2007年のEU加盟を控えて、人々は西側の生活に憧れ、お金を得るためにライフスタイルを急激に変えているような気がする。

『車窓』では過去2回、ルーマニアを取材している。チャウシェスク政権が崩壊したばかりで、人々の表情には自由を得たことへの喜びと希望が満ちていた。けれど今回、人々の表情から読み取れるのは、自由もなかなか大変だ、ってことだろうか。農業をするにも、社会主義の時代は機械も肥料も国が調達してくれた。でも今は、それらを自分の力で用意しなければならない。しかし出来ないから、馬車や鍬をつかっているのが実情なのだ。旅人として眺めている分には長閑な風景だけれど、実情を聞くと切なくなる。

余談になるが、ルーマニアの人々は日本人を尊敬していると聞いた。敗戦から立ち上がり、経済大国になったからだ。その日本人である我々の働きぶりを見て、彼等は驚いていた。我々は休みというものを殆どとらす、ロケの間はくるくる仕事する。一方、ルーマニアの人々は生来のラテン系気質と社会主義時代に培った受け身の体質が合体して、こういっては何だが仕事ぶりは困ってしまうほどノンビリだ。結論として、我々のような仕事の仕方はできないとのことだった。うーん、複雑な心境。ルーマニアには経済発展してほしいが、いろいろ難題がありそうだ。個人的には、世界のグローバル化の波に呑まれないで、昔ながらの伝統やオリジナリティーを大切にしていってほしいと願う。

ディレクター 中澤洋子
サルヴァからスチャヴァへの列車
ヴォロネツ修道院
スチャヴァ北駅で列車を待つ乗客
8.「さよならルーマニア」

 17日間、ルーマニアを旅した。タフな旅だった。ルーマニアは第一次世界大戦、第二次世界大戦ともに戦勝国で、その度に領土を広げている。国の面積は日本の本州ほどあり、東ヨーロッパ諸国の中でも意外に広い。そのルーマニアを時計まわりに周遊したのだが、一度の乗車が平均5時間とかで、あらためて広い国だと実感した。そして国土の中には山あり、谷あり、ドナウあり。変化に富んだ自然に恵まれている。印象に残っているのは、やはり北のマラムレシュ地方だろうか。昔ながらの素朴な暮らしが今も営まれていて、人もあたたかだった。情報に毒されていない、味のある面構えの人が多かった。列車の思い出としては水色ボディのノスタルジックな車両かな。でもこの2年で急行はすべて、新型のインターシティに変わってしまうらしい。変化することを否定はできないが、ちょっと寂しい。ルーマニアの風景には、水色の列車の方が似合っていると個人的には思う。

我々がルーマニアを後にしてから聞いた話だが、国鉄は2週間のストライキを断行したらしい。ロケの期間じゃなくて良かったとエゴイスティックに胸をなでおろしつつ、過渡期にあるルーマニアのことを思った。2007年にEU加盟が予定されているものの、西側との経済格差はかなりのものだ。それを埋めるために、様々なことがこれからも起きるだろう。ストライキ、人口流出、物価の高騰…。それらにどうルーマニアが対処していくのか、他人事ながら心配になる。子供達がのびのび育つことができる未来であるよう、祈るばかりだ。

ディレクター 中澤洋子
トゥルチャ行きインターシティの入線
インターシティの乗客
ルセ駅 ソフィア行き列車の少女たち
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