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「オーストラリア撮影日誌1」

オーストラリア、実は鉄道が発達していると知って不意をつかれた。総延長約4万キロというから量では日本に勝る。国土が広いから当然と言えば当然だが。でも。ふむ。もっとも、その鉄道の多くは旅客用ではなく、豊富な鉱物資源を運ぶために建設されたもの。だから鉱山と港を結ぶというようなルートが多い。或いは肉や野菜を生産地から都市に運ぶとか。そうした線路に、今は観光用の旅客列車を走らせているところもある。旅の始まりはシドニーから。きれいな町。もちろん、町の中に一歩出てみれば、そこには大都市らしい様々な汚さを目にするけど、遠目には非常に美しい。お天気はよく。空も海も、ものすごく青い。現代的なビルの印象が強いシドニーだが、町の中心にはビクトリア朝様式、ジョージ朝様式などの建築。これまた趣があってよろしい。

手始めに、海岸沿いに南へと旅をすることにした。シドニー中央駅からの出発だが、ここの撮影許可がいきなり厳しくて、直前まで入れてもらえず。普段のように駅を行き交う様々な人の表情を撮ることもままならない。危ういスタート。さらに列車の窓は汚くて、車窓を撮るのに苦労する。「汚い」と言っても、汚れているのではなく、白濁しているような状態。そういえばフランスでも同じことがあったと思い出す。撮影に関しては、快く写ってくれる人と、テレビに非常に敵意を持っている人と両方だが、まあ、これはどこの国でもそういうもの。向かうのはカイアマ。コーディネーターのジョゼフ(シドニー在住)に「カイアマに行ったことはある?」と尋ねると「こどものころ一度行ったかも」という返事。彼の両親が若かったころ(30年くらい前ということか?)にポピュラーなリゾートだったらしい。なるほど。ほう。
関係ないけど、ジョゼフは映画を監督して日本の大会で優勝しているんだって。ちょっと代わりにディレクターしてもらうというのはどうかな。お断りだってか。そりゃそうか。電車はどんどんカイアマへと走る。線路は国立公園をかすめて、車窓には森あり海あり乗馬練習場なんかもあって、カイアマへ到着。カイアマの周辺は、うねるような緑の丘が続き、その彼方は青い太平洋に白い波頭が砕け散る。「なるほどウェールズと似ているからニュー・サウス・ウェールズなの?」などと思ったりしつつ、風景の美しさに何だか少し哀しくなった。意味不明。

ディレクター 中村 博郎
シドニーの街並み
シティレールの車内で出会った親子
カイアマへと近づくシティレール
「オーストラリア撮影日誌2」

「アメリカの夜」に「映画作りは旅と似ていて、最初はよい旅を期待するけど途中からはただ目的地に到達することが目的になる」というような台詞があったと思うけど、この番組のロケは物理的にも終点到達を目的に旅をする、そのものだ!と思い出して苦笑い。とにかく終点に着くまで旅は完結せず、それでは番組にならない。出発する前は様々な期待があるけど、列車の中でそれが実現するとは限らず、トラブルに見舞われることもあり、でも終点まで撮り続けるのだ。わはは。さあ、行くぞ!

そして、今回は本当に終点までが長い。インディアン・パシフィック。オーストラリア横断列車。ここで、いきなり話は逸れるが気になること。オーストラリアの列車のネーミングは安易過ぎませんか?インド洋と太平洋を結ぶから「インディアン・パシフィック」。スイッチバックがあるから「ジグザグ鉄道」。カーブで車体が傾いて遠心力を打ち消すから「ティルト・トレイン」。何というか、そのままじゃん?「では君はどんなネーミングならいいのか?」と問いつめられると答に窮するわけだが。そういえば、TGVだって「とても速い列車」みたいな意味だし。子どもにも判ってよろしいのかも。じゃあ、いいです。で、インディアン・パシフィックだが、走行距離4352km、3泊4日。歴史は案外新しくて、というのはオーストラリアの鉄道は各州がばらばらに建設したために線路幅が州によって違っていて、一本の列車で通ることができなかったのだそうだ。州の自治権が強そうというのは、他にも折に触れて感じる国。さすがなのか。

一等にあたるゴールドカンガルー・サービスに乗る。基本は2人用個室寝台のツインキャビン。機材がどっさりあるので個室は助かる。まあまあの広さだが、ずっと籠もっていると、さすがに閉塞感。シャワー、流し、トイレ、クローゼット、鏡、AC電源などの設備あり。タオル、石鹸、シャンプー、歯ブラシなど用意されている。食事付だし、手ぶらでもこれなら困らない。あ、着替えが要るか。3泊4日着たままはヤバかろう。窓は三重。おそらく40度を超える暑さの中で室内の快適さを保つためだと思うが車窓撮影には強敵だ。
シドニー中央駅の撮影は今回も厳しくて、思うように撮れず。不満を抱えたまま、列車は非情にどんどん出発。昇降口は施錠されるし、少々囚われの気分がしないではない。まあ、列車に身を委ねて終点到着を目指すとしよう。

ディレクター 中村 博郎
シドニー中央駅
インディアン・パシフィック
ゴールドカンガルー・サービスの車内
「オーストラリア撮影日誌3」

何だか、あまりよく眠れずに一晩中過ごしてしまった。日頃、通勤電車の中でよく居眠りするのに寝台車では目が冴えるのは何故だ。もったいない。寝台から落ちるという杞憂があるからなのか。あと変な夢ばかり見るし。すっかり忘れていた大昔の友人が夢に登場したり。それから、走っている時には寝付けるのだが、長い停車があると目が覚めるのも不思議だ。加えて、私たちには「夜明けを撮る」という使命もあるので、寝過ごしてはいかんという緊張もあるのだけど。夜明けというのは、大概が日の出時刻の1時間前くらいからがよき時間帯だったりするので、油断してはいけないのだ。明るくなった時にはもう遅い。
そして無事に寝坊することもなく、日の出を撮り、朝食風景を撮って、列車はブロークン・ヒルに到着。到着する前から、前方にボタ山的な光景が見えてくる。鉱山の町とは聞いていたが、駅の前がいきなり鉱山、というか廃鉱。ブロークン・ヒルの停車時間は、列車が遅れたこともあって30分程度。ほとんど何も見ることができずに終わって残念。ここまで来るの大変なのに。本当なら泊まってゆっくり見て歩きたいぞ。廃鉱をそのままミュージアムにしたところや、アート・ギャラリー、砂漠の野外彫刻ギャラリー、開拓時代っぽい雰囲気の残る五つ星ホテルなど、見所はたくさんあるらしい。まあ、いつかまた、来られる機会もあるだろう・・・と未練を断ち切る。
えっと、そう、今回はインディアン・パシフィックの旅なのだが、シドニーからブロークン・ヒルまでは他にも列車が運行されている。時刻表を見るとダッボ乗り換えで毎日運行。15時間以上かかるようだが。ブルー・マウンテンズの入り口カトゥーンバだったら一日20本以上列車があるので、ダラダラと列車で旅をするという方法も実はある。もちろん、インディアン・パシフィックを途中下車しながら旅するという手もあるけど、週に2本だけの運行だからブロークン・ヒルに何日も滞在したいのでなければ、ちょっとどうかなあ。
そして列車はブロークン・ヒルを出発し、また車窓にはアウトバック。ずーっと変化のない景色が続いていたが、お昼を過ぎると沿線にぽつんぽつんと町が現れるようになってくる。ここに鉄道が敷かれたのも、元々ブロークン・ヒルの鉱物をポート・ピリーの港に運ぶため。今はどんよりとしている沿線の町々も、鉄道が盛んだったころは活気が溢れていたらしい。
ディレクター 中村 博郎
ブロークン・ヒル駅に到着
ホームにあった、鉱石を売る売店
アウトバックの風景
「オーストラリア撮影日誌4」

アデレードはオーストラリアで5番目に大きな都市で、人口109万人。こぢんまりと、洒落た感じの町で好感が持てる。日本に喩えると仙台に近い規模かと考えてみるが、結局イメージが湧かない。自分の国なのに。
到着するのは、実はケズウィック駅という、アデレードの中心から少々離れた駅だ。何故アデレード駅でないのかというと、アデレード駅は地下駅で古く、1980年代中盤からは都市交通だけが利用している。インディアン・パシフィックは編成によっては20両を超えるので停められるホームがないからだという話も聞いたが、どうなのだろう。市長選挙になると、候補者は公約に「インディアン・パシフィックをアデレード駅に入れる」と掲げるそうだが、未だに実現はしていない。
ケズウィック駅に降りると、途端にハエの来襲を受けた。オーストラリアってどうしてハエがこんなに多いのか、昔から不思議でならない。アウトバックの厳しい暑さと乾燥。動物も植物もまばらなところに、なぜ大量のハエが存在できるのか。そして始末の悪いことにハエは黒いものを好むようで、テレビカメラは大人気。レンズの前をうろうろ飛ぶのは止めてくれ!また、水分を求めてなのか、人間の鼻や口に潜り込もうとするのも困ったものだ。駅に降りて、列車の担当スタッフにお礼とお別れを言う時も、お互いに2秒ごとに顔にとまったハエを手で追い払いながらなもので、何だか真剣味に欠けるシーンとなってしまった。
そういえば、数奇な出会いというのはあるもので(というと大袈裟だが)、夜明けの車窓を撮影しながら、やはり早起きのカナダから来た老夫婦とラウンジで話をしていた時のこと。
「カナダ横断鉄道に乗ったことはあるかい?」
「はい、10年ほど前にこの番組の撮影で乗りました」
「あのバンクーバー〜ジャスパー間の測量をしたのは僕の大祖父なんだよ」
「ええっ?」
「 本当さ。大祖父は、ネイティブ・アメリカンの人たちに道案内を頼んでいたのだけれど、毎日、案内料金の交渉に午前中いっぱいかかったそうだよ。交渉の結果、いつも前日と同じ金額に落ち着くんだけど、でも必ず翌朝も改めて交渉。大祖父の名前はキャンビーといってね、バンクーバーには彼にちなんで名付けられた通りがあるよ。」
そんなやりとりをしていると、様々な記憶が蘇ってきて懐かしい。
いつの日か、このオーストラリア横断の旅を思い出させてくれる出会いがあるだろうか。

ディレクター 中村 博郎
アデレードのケズウィック駅
繁華街ランドルモール
海辺の町グレネルグへ向かうトラム
「オーストラリア撮影日誌5」

ナラボー平原を横断するにはインディアン・パシフィックに乗るか、海岸近くの道路を走るか、この2つ。大昔は本当に命がけだったのだろうと想像する、というか主に船で東西は連絡しあっていたのだろう。私が10年ほど前に一緒に仕事をした女性のADさんは、学生時代に自転車部でナラボーを横断したことがあると言うので私はとても感心したっけ。
ナラボーの下は巨大な石灰岩の一枚岩で鍾乳洞が発達しているのだというが、それを列車から見ることはもちろんできない。
少し前までナラボーには線路に沿って幾つもの小さな町が存在していた。保線などを行う人たちが住んでいたからで、そのころは食料品や日用品を売りに来る専門の「店列車」まであったという。しかし合理化によってそうした町もほとんど整理されてしまった。今がそういう時代なのは仕方のないことだけど、オーストラリアらしさが失われていくようで寂しいやい。
ナラボー平原では空撮。とは言ってもヘリコプターをここまで回航させることは難しいのでセスナである。これが、かなりオンボロだった。撮影のためにドアを外して飛んでいるのだが、そのパッキンの部分が、飛んでいる間に風圧でどんどん剥がれてくる。私は後部座席から手を伸ばしてそれを押さえているという状態。地表は30度を超える気温でも、上空は風もあってすごく寒く、手がかじかむ。揺れも激しくて、しんどいフライトだった。
さて、空撮を終えてセスナから列車へ合流する手はずだが、ナラボーのかつての鉄道町のひとつにフォレストという場所があって、ここには場違いに立派な、舗装された滑走路を持つ飛行場がある(アウトバックではエアストリップと言って、単に草刈りをしただけのような地表が滑走路ということが一般的)。自家用飛行機でオーストラリアを横断する場合、途中で給油が必要になるので、そのために存在しているフォレストの空港。空軍のためでもあるらしいけど。人口は2人。夫婦が住み込みで管理人をしている。冷えきった私たちに紅茶と手作りのケーキをふるまってくれた。うれしい。暖まる。体の節々に少しずつ命が通ってくる感じ。そして、車で線路まで運んでくれる。用なしになってしまったフォレストの小さな駅舎がポツリ。へへ、空が広いぜ、べらぼうめ。
そういえば、この近くには隕石観測用のカメラがあり、少し前にはBBCが撮影のために来ていたそうだ。10人で一週間と言っていたかな。潤沢な予算。
ディレクター 中村 博郎
ナラボー平原の世界一長い直線区間を走る
フォレスト駅
フォレスト空港の管理人夫婦
「オーストラリア撮影日誌6」

クイーンズランド州北部は一転、熱帯雨林。木々の緑が何だかとても濃く鮮やかで、浮き上がって見えるよう。梢の間にはひらひらと青く光る蝶の姿も見かける。鬱蒼とした森の中には、幾多の川や滝があり、そこで人々が泳ぐ様子は野性的で涼やかだ。身勝手な希望としては中南米のようにヤドクガエルやバシリスクもいてほしいけど。でも夜になれば樹上に、ここだけに棲息している有袋類を見ることができたりする。東にはグレートバリアリーフ。大障害珊瑚礁 ?…オーストラリアって何だか「大」がつく地名が多い。大分水嶺山脈とか。大鑽井盆地とか。子どものころ読めないし意味わからないし、何か大人の世界を感じたものだったっけ。いや、しかし蒸し暑い。これまでは暑くても乾いていたわけだが、ここでは空気がぺとっとまとわりつく。
クイーンズランドでは、ケアンズから2本の列車に乗る。キュランダ観光鉄道と、ティルト・トレイン。滝の前を横切る鉄橋が有名なキュランダ観光鉄道。この線路も19世紀に港と鉱山を結ぶために建設されたもの。線路の起点を何処にするかで、ケアンズ、ポート・ダグラス、イニスフェルと三つ巴の争いだったというが、今、ケアンズだけが繁栄していることを考えると、鉄道の重要さを思い知る。もう1本のティルト・トレインは海岸沿いを南に向かってタウンズヴィルまで。この列車は、いわゆる振り子タイプの車体を持ち最高時速160キロを誇る最新型。でも現在は最高速100キロで運航中。実際には100キロも出せない区間がほとんどで、というのは古い鉄橋を始め、線路の状態が悪いところがあちこちにあるから。(同様な事情は様々な国で目にしますな。)車内はとても静かで涼しく快適。しかし、これでブリズベンまで行くとなると25時間。いやー、それはちょっと…私、飛行機で行きます。すみません。
タウンズヴィルは、年間300日晴れるという「晴天の町」。そう聞くと何だか爽やかだが、実際には日差しが強く、暑くて干からびて植物の緑が乏しい町だった。ついさっきまで熱帯雨林とか言っていたのに。町は、茶色い印象から「ブラウンズヴィル」という悪口で呼ばれることもあるという。この手のあだ名は、周辺の町に幾つもあるようでゴードンヴェール→ボアドンヴェール(退屈)、エドモントン→デッドモントン(死)という具合。酷い言われようなんだけど、なかなか言い得て妙なところもある。
 
ディレクター 中村 博郎
キュランダ観光鉄道
ティルト・トレイン
タウンズヴィルの町
「オーストラリア撮影日誌7」

ところでバナナの価格が高騰したんだって。去年の3月に巨大なサイクロン(台風の類)がクイーンズランド州を襲った影響で、バナナが壊滅的打撃を受けたからなのだそうだ。
熱帯雨林にも大きな被害があって、半年以上経ったというのにバビンダ周辺の川は倒木流木等が多くて、噂に聞いていた美しさとはほど遠いイメージ。いやはや、好いところだと思ったのだけれどサイクロンが来ると甚大な被害の可能性がある。何処に住んでいても色々と大変と思い知る。
オーストラリアでサイクロンの被害というと、1974年にダーウィンの町を襲ったサイクロン・トレーシーが歴史的な猛威で、何と町の90%が破壊され、少なくとも65人の死者が出た。(ダーウィン、第二次世界大戦中は日本軍の空襲という大被害もあったりするけど、気まずい話題なのでさて置く)というわけで長い前フリだったが、オーストラリア最後の列車は、そのダーウィンに向かうザ・ガンだ。アデレードからダーウィンまで、オーストラリア中央部を縦断する。ザ・ガンとは「銃」ではもちろんなく、「アフガン」の「ガン」なのだった。だから本当は、やや「ガ(-)ン」と伸ばすのが正しい。
などと説明されても、これでは意味がまったく分らず「?」なわけだが、つまりこうです。19世紀のオーストラリアでは、過酷な気候風土の中、物資を運ぶのにラクダを用いた時代があったんですな。ラクダとラクダ使いを連れて来たわけです。「ははん、それでアフガンね」と思うわけだが、さらにヒネリがあって、さすがというかやっぱりというか、正確ではないらしい。ウェブで調べたところによると、このラクダ使いの人たちは、現パキスタン(当時イギリス領インド帝国)から来たパターン族だったようで、アフガニスタンとは無関係。だから、列車の名前も「ザ・ターン」とかになっているはずだったのかもしれず。ただしパターン族の一部には、実際にアフガニスタン領内から来た人たちもいたようだが。まあ、とにかく彼らとラクダは1930年代まで大活躍。最盛期には600人ほど存在したらしい。ほとんどはその後帰国したそうだが、アリス・スプリングスを中心に残った人もいるという。昔は頑なに祖国での生活習慣を守っていたそうだが、さすがに現在では、社会に溶け込んでいるのかしら。ちなみにラクダは、その多くが野生化したようだ。きっと固有の生物たちに淘汰圧をかけているんだろうなあ。
ディレクター 中村 博郎
ケズウィック駅を出発するザ・ガン
車内で出会った母子
車窓に広がるアウトバックの大地
「オーストラリア撮影日誌8」

長距離列車の夜というのは、ちょっと魔法を感じる時間でもある。相対性理論の解説図みたいな感じで、外界とは別な時間が流れているとでも言うんですかね。列車のスタッフも、昼間は大勢いるのだが、夜は各自のキャビンで眠りにつく。その間、列車全体を見張るのは、ナイト・マネージャー独り。乗客全員がおとなしく眠ってくれれば、何事もなく朝を迎えられるわけだが、例えばベロベロに酔っぱらった人が出る場合なんかもあるのだそうで、注意しても聞かずに暴れるような人の場合、警察に連絡してどこかの駅で降ろすのだそうだ。警察の保護の下で醒めるのを待って、後続の列車に乗せるということだが、後続の列車は何日も後だったりする場合もあるので、どうするんだろう。訊くの忘れた。夜中に眠れない乗客が起きてきて、あれこれ人生について語るのを聞く役を務めることもあるという。何だか本が書けそうなシチュエーションだが、胸にしまっておいた方がよい感じ。
ザ・ガンが悲願のダーウィンまで開通したのは2004年。何だか新しい列車のようだが、ポート・オーガスタ〜アリス・スプリングス間で運行が始まったのは1929年。当時、冷房はもちろんないし、蒸気機関車。ルートも今と違って、もっと東の丘陵地帯を通っていた。狭軌レールのカーブの多い線路で、洪水で不通になることが珍しくなかった。何日も動けなくなった時には、乗組員がハンティングをして食堂車の肉を調達したという言い伝えもある。
2日目、列車はレッド・センターと呼ばれる、オーストラリアらしい赤茶けた岩や土のエリアに入る。オーストラリアの大地の不毛さというのは、もちろん降雨量が少ない影響も大きいのだが、それよりも土地がそもそも貧しいのだということをJ.ダイアモンドという人の本で知る。土の養分というのは、例えば火山活動や氷河の活動によって補充されるのだが、火山も氷河もあまり縁のなかったオーストラリアの土壌はものすごく古いままで養分が残っていないのだと。土地の養分がないと、そこを流れる川や周辺の海もやはり養分がなく、だから生命の生産性は全体的に低い。そんなところに、ヒツジやウサギを持ち込み、森林の伐採や漁業を他の大陸同様の勢いでやったものだから、ものすごく環境破壊が進んでしまっているということだ。比べると日本は、気候温暖、雨が多く火山国で肥沃な土壌という、とても恵まれた自然環境なのだと気が付く。
 
ディレクター 中村 博郎
レッドカンガルー・サービスの老夫婦
レッド・センターを走るザ・ガン
ゴールドカンガルー・サービスの親子
「オーストラリア撮影日誌9」

オーストラリアの旅もとうとう終り。ダーウィンに到着。チモール海に面した小さな町。港の周辺を中心に再開発が盛んで建設ラッシュなのが少々意外。
この南北縦断は変化があって楽しかった。時間に余裕があればアデレードでは、バロッサバレー、マレー川、カンガルー島など足を伸ばすこともできたんだけど。そう、この「時間の余裕」というのがオーストラリアを旅する場合のポイントかも。鉄道で回るのは楽しいけれど、長い時間をかけてじっくり味わうと本当のよさを見つけられる土地のような感じがする。列車の中で「一ヶ月以上かけてオーストラリアを旅行する」という人たちに大勢会ったけど、そういうことだ。ブッシュウォーキング、シュノーケリング、イルカやクジラやサメやペンギンやウミガメやジュゴンのウォッチング。レインフォレストで有袋類の姿を探したり、滝壺に飛び込んだり、岩山に登ったり、砂の斜面を転がったり、先住民の生活を体験したり。アクテビティは多様多彩なのだが、どれも慌ただしい中では楽しめない。国土も広いので目的地に行くだけでも時間がかかるし。
アデレードを出発した列車は、ポート・オーガスタの発電所の大きな煙突を見ながら夕暮れ。夜が明けてしばらくするとノーザン・テリトリーに入り、車窓はひたすらアウトバックの風景。ようやく町が見えてくるとアリス・スプリングスに到着だ。ここも長期滞在できれば、キングス・キャニオン、デビルズ・マーブルズなど、オーストラリアらしさを存分に味わうことができる。が、我々は時間がないのでウルル・カタジュタだけ撮影。朝からひどい天気で暗澹たる気持ちで出かけたのだが、夕方には晴れて、真っ赤に染まった巨岩の姿をカメラに収めることができた。うれしい。でも、この後ちょっとびっくり。ホテルで部屋に帰ろうとすると、回廊にはうじゃうじゃ虫がいっぱい。蛍光灯の光に誘われて集まってきたカミキリの類と、もう一つは大嫌いなゴキブリの類。大きいし。うわあ。恐いよ。ハエばかりではない、オーストラリアの虫の多さは、やはり謎。
アリス・スプリングスを出発し、翌朝が明けると周りはすっかり森になっている。疎林だけど、前日の風景とはガラリと変わって新鮮だ。雨が多い北部に来たことを実感する。木々に混ざって、これまた北オーストラリア名物の巨大な蟻塚が次々と通り過ぎていく。何でこんなに大きいのか。アリに聞いてみないと判らないか。
ディレクター 中村 博郎
車窓に現れる巨大な蟻塚
ダーウィン到着前のザ・ガン
チモール海に沈む夕陽
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アルゼンチン編の撮影日記が、狩野ディレクターから届きました!