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『SmaSTATION!!特別企画 特別対談:石原慎太郎×香取慎吾』

いよいよ3期目に突入した、石原慎太郎都知事・74歳。依然その言葉のキレが衰えることはなく、財政規模6兆6000億円という巨大都市・東京で強いリーダーシップを発揮しています。そこでまず最初のカトリノギモン!

石原慎太郎さんって、一体どんな人生を送ってきたの??

石原慎太郎さんが生まれたのは1932年9月30日、兵庫県神戸市。父親・潔さんが海運会社に勤めていたことから、幼少期を神戸・小樽と港町で過ごしました。そして慎太郎さん誕生から2年、一家にもうひとり、男の子が加わります。弟の裕次郎さんです。まじめで優等生タイプの慎太郎さんと、喧嘩が強く、自由奔放な裕次郎さん――後に日本の歴史に名を残すことになる、伝説の兄弟の誕生でした。
慎太郎さん11歳のとき、一家は神奈川県の港町、逗子に転居します。名門・湘南中学、高校と進学しますが、まもなく迎えた敗戦によって、慎太郎さんを取り巻く環境は大きく変化していきました。海軍士官を育成していた高校で、突如、教師がやみくもに民主主義を説き始めたのです。さらに、「とにかく何も考えずに勉強して東大に行き、大蔵省に入ればいいんだ!」と、いかに多くの生徒を東大にいれるか、そればかりを考えるようになったのです。そんな教師の押し付けは慎太郎さんにとって、ただ苦痛でしかありませんでした。さらにこのころ、ある事件が起こります。慎太郎さんが通りを闊歩していた米兵に頑として道を譲らず、殴られてしまったのです。この件で教師に呼び出された慎太郎さんは、「戦争に負けたからといて、なぜ必要以上にアメリカに頭を下げなきゃいけないんですか!」と問いかけましたが、明確な答えは返ってきませんでした。現在の慎太郎にも通じるその考えは、すでにこのころ、出来上がっていたのです。
そして17歳、高校2年のとき、慎太郎さんはついに胃腸の病気を理由に1年間休学します。いまでいう「不登校」でした。学校をサボっていたとき夢中になったのが、本と映画、そして絵を描くこと。慎太郎さんはこのとき200近くもの作品を一気に描き上げたといいます。1年の休みを経てようやく高校に戻った慎太郎さんを、今度は突然の悲劇が襲いました。父・潔さんが脳溢血のため、51歳の若さで突然他界したのです。経済観念のない母と、相変わらず放蕩を続ける弟、裕次郎さんを養うため、一家の長となった慎太郎さんは、当時給料がいい、ともてはやされていた公認会計士を目指すことを決意し、一橋大学に進学しました。しかし、会計士という地道な勉強はどうしても性に合わず、志半ばにして挫折。生活、そして将来に不安を抱いた慎太郎さんが出会ったのが小説でした。どうしても原稿が足りないから、と頼まれ、大学の同人雑誌用に書いたのです。その最初の作品が思わぬ好評を得たことから、慎太郎さんは2作目にとりかかりました。それが、わずか2日で書き上げ、文壇にデビューするきっかけとなった作品「太陽の季節」です。自由気ままに生きる弟・裕次郎さんからヒントを得て書かれたこの小説は、なんといきなり芥川賞を受賞。当時としては最年少となる23歳での受賞で、慎太郎さんは一躍時の人に…。小説の登場人物のファッションや行動をまねた、「太陽族」と呼ばれる若者が出現、慎太郎さんの髪型までもが「慎太郎刈り」として大流行するなど、社会現象にまでなり、過激な性描写は大きな話題を巻き起こしました。後にこの作品は長門裕之・南田洋子主演で映画化もされ、大ヒット。慎太郎さんはこの1作で一世を風靡したのです。そしてこの映画でデビューを果たしたのが、当時無職だった、石原裕次郎さん。慎太郎さん自身も、1シーンだけながら、出演を果たしています。ちなみに、この映画「太陽の季節」は思わぬ形で、後の日本映画に大きな影響を与えています。それは映倫。太陽族を描いた一連の作品が「青少年に悪い影響を与える」として、映画関係者以外の第3者を加えた、映倫管理委員会が設立され、以降、事前に内容が審査されることになったのです。
1955年、慎太郎さんはかねてからの恋人・由美子さんと結婚。執筆活動、そして映画の活動を本格化させていきました。そうして書き上げたのが「狂った果実」。この作品の映画化にあたり、慎太郎さんはひとつの賭けにでました。それが、弟・裕次郎さんの売込み。「次の作品の映画化権は是非うちに・・・」そんな交渉を持ちかけてきた日活に対し、「ならばひとつだけ条件があります。この小説はかならず日活に譲りますが、その代わり映画化のとき私の弟を主役で撮影してください」と、返したのです。ヒットが約束された、当代1、2を争う人気作家の言い分を、さすがの日活も飲まざるを得ませんでした。こうしてなかば強引に、慎太郎さんの手腕によって誕生したともいえる裕次郎初主演作品「狂った果実」は大ヒット。石原裕次郎さんは一躍国民的大スターへとのし上がったのです。その後も慎太郎さんは裕次郎主演の「錆びたナイフ」など次々とヒット作を生み出し、「若い獣」では監督に初挑戦。そして「日蝕の夏」ではなんと自ら原作・脚本そして主演まで果たします。慎太郎原作で映画化された作品は5年で16本。こうして慎太郎さんは20代半ばにして日本の文壇のみならず、映画界までも席巻していったのです。
そんな慎太郎に、1967年、大きな転機が訪れました。それが、新聞社の依頼で取材に行った、ベトナム戦争。この取材をきっかけに「果たして日本はこのままでいいのか・・」と考えるようになった慎太郎さんは、1968年、ついに行動を起こします。参議院選挙に立候補し、35歳という若さながら当選。さらに4年後には衆議院に転じ、以来連続8回当選を果たしたのです。福田内閣では環境庁長官、竹下内閣では運輸大臣を務め、青函トンネル開通という歴史的瞬間に立ち会うなど、政治家として着実に名を上げていきました。しかしこの年、、慎太郎さんを大きな悲しみが襲いました。かねてから肝臓ガンを患っていた、弟・裕次郎さんの死でした。日本を代表する大スター・石原裕次郎の兄――。慎太郎さんは国民的人気を誇る一方で、そのタカ派的思想、そして時には失言とも報じられる言動でも注目を浴びるようになりました。そんな中、慎太郎さんはついに総理のイスを狙うことを決意します。1989年、自民党総裁選に出馬したのです。しかし、最大派閥・竹下派の推す、海部俊樹に敗れるという結果に・・・。そんな政治活動の最中においても、慎太郎さんは作家としての活動を止めませんでした。ソニーの盛田昭夫会長と発表した「NOといえる日本」は120万部を越える大ベストセラーを記録し、日本のみならず、世界中で大きな反響を呼びました。さらに90年には長男・伸晃さんが衆議院議員に立候補、初当選を果たします。ちなみに石原家の子どもは4人。長男・伸晃さんは現在安倍内閣の下、自民党幹事長代理を務め、次男・良純さんは俳優・タレント・気象予報士として活躍。三男・宏高さんは2005年の総選挙で初当選。四男・延啓さんは画家として活躍しています。
1995年、議員在職25周年表彰の国会演説。ここで慎太郎さんは、突然の辞職表明をして世間を驚かせました。しかしそのリーダーシップとカリスマ的人気から、辞職後も、「石原新党設立か・・・」「次期総理は石原に・・」という石原待望論が常に起こっていました。そんな慎太郎さんが動いたのは辞職から4年後の1999年。東京都知事選挙に立候補したのです。慎太郎さんは並み居る有力候補者をおさえ、圧勝。見事当選を果たしたのです。


ことし4月に行われた、東京都知事選挙。これまでの楽勝ムードとは違い、選挙直前のさまざまな問題や有力候補者の出現によって強気発言を封印、慎太郎さんはいつになく神妙な選挙活動を行いました。しかし、結果は圧勝。石原慎太郎節もすぐに復活しました。そんな3期目の石原都知事が掲げているのが、、「10年後の東京」と題された長期計画。これは10年後を見据えた様々な東京改造計画で、「隅田川を整備し、イギリスのテムズ川のように親しみやすい水辺を作る」「電柱の地中化・そして緑を増やすことによって、セントラルパークをもつNYのような緑あふれる美しい街を作りあげる」「環状線を完備することによって都心の渋滞を盆・正月並みにまで解消する」といったことが盛り込まれています。そして、今回の都知事選、最大の争点ともなり、石原知事がいま最も力を入れているのが東京オリンピック誘致。2016年夏に開かれるオリンピック候補地に日本代表として東京が立候補を計画。もし誘致が成功すれば、晴海ふ頭にメインスタジアムが建設され、武道館や東京ドーム、国際フォーラム、東京ビッグサイトなど、この半径10キロ圏内でほぼすべての競技が行われることになります。

そこでカトリノギモン!

石原さん、これから東京をどう、変えていくつもりですか??

香取:東京でもうちょっと車のカーチェイスとかできないんですか?カーチェイスもそうですし、ロケーションBOXもできて新しく変わったと思うんですが…。
石原:カーチェイスなんかね、東京混みすぎてね。外環道路がもうちょっと2つできれば大分空いてくるけど、やろうと思ったらお台場なんかでできるよ。お台場でカーチェイスやろうと思ったら。
香取:何かの映画のときにスタッフがカーチェイスやりたいんだけど、できないんだと言ったら、「いや、慎太郎さんがお台場だったらできるって言ってた」と、言ってもいいですか?
石原:それからね、カーチェイスは大変だけどね、アメリカの映画だと国連ビル爆破するシーンがあるけど、よくマンハッタンでロケーションされてるんですよ。それはねえ、知らん顔してやってるんだよ。黙ってやっちゃえばいいんだよ。わかんないようにやればいいんだから。
香取:一般の市民とそのほかの人たちにわかんないように。さっと。わかりました。東京ロケーションBOXもそうなんですが、慎太郎さんの雑誌の記事を僕、見させていただいて、隅田川の計画とか。隅田川をイギリスのテムズ川に…。
石原:だってさ、あんなに由緒のある川ないんだよね。テムズと同じくらい歴史がある。だけどさ、首都高も一応隅田川の横、走るのあるけど。見てごらん、建っている建物の中で裏口が川についてる建物ひとつもない。みんな背中向けてるだけ。とにかく護岸をあんな風にしてしまって情緒もへったくれもない。ちっちゃなモーターボートで川遊びしててさ、ちょっと上ろうと思っても上るとこがない。本当に川をダメにしましたね。
香取:慎太郎さんが雑誌のインタビューで言っていたテムズ川とかパリの街並とかNYセントラルパークとか…。
石原:セントラルパークはただの公園ですけどね、パリの街並なんてのはドゴールの時にねアンドレマーロウが文化省になってね。規制しちゃったんですよ。パリはだからモノクロのいい街になった。だって昔は早慶戦とかボートのレース隅田川でやってたんですよ。交通量もなくなったんでまた復活したらいいと思うんですけど。いま、戸田でやってるでしょ。あんなの住むところでやったっておもしろくないじゃない。
香取:慎太郎さんが言ってた場所って僕、すごい好きな場所なのでそこみたいに、NYセントラルパークみたいなのが東京にもっとできたらな、って。
石原:少なくともテムズ川の川沿いみたいなああいう遊歩道もあるんですけどね。いまそこに住んでるのブルーテントの連中だからね。花火見ながらボートレース見たりするみたいなね。
香取:降りてお茶できて、っていう場所もっと欲しいですよね。公園とかあっても芝生入っちゃいけないとことか多いですよね。
石原:みんな寝てるじゃないの、皇居の前なんか。
香取:でもなんか、もっと芝生に入れてみんなでそこで遊べたりとか…。入れもしないし、「ここではボール遊び禁止です」とかっていう場所とか多いな、と。もっともっと好きなもの持ってきて、ボールで遊んでて転がったボールで人と知り合えて…とかもっとそういう場所増えたらいいのに。
石原:おっしゃるとおり。オープンスペースの使い方がへたくそなのと役所の管理が下らないのと…。芝生が痛んだらまた張りなおしゃいいんだからそういう事やっぱり気が利かないんだよね。とにかくお役人というのは現場っていうのを知らないから。
香取:本当に平気ですか?ボク、芝生入っていったら警備員さんがいっぱい来て、わーって…。
石原:警備員なんかいませんよ。まあひとりで入っていってチカンと間違われないように。
香取:10年計画で東京をもっとより良い東京に、っていう中にそういうことが入ってると思うんですけど。慎太郎さんは今回東京都知事になってそしてあと4年でおしまいだ、と。それだど、10年の計画は出来ないんじゃないですか?
石原:いやいや、だけど基礎つくりはすればいいんだよ。10年計画だってよく言われたんだよ。それじゃあ考えようって、去年の暮れに発表したんですよ。たとえば小学校中学校のグランドは芝にするとかね。お台場を埋め立てしてるところがね
皇居くらいの大きさになるから全部森にしてね。安藤忠雄さんという建築家が言い出して。この間も、大手の企業集めて「協力しろ」っと言ったらね、東急なんかね、東急線走ってる線路の斜面は緑化しますよ、って言ってくれるし。そういうこと重ねて行くと10年で1000ヘクタールくらい緑地が増える。1000ヘクタールっていうとね、実感ないんだけどサッカーグラウンドの大きさでいうと1500面くらい増えるんです。いいことでしょ?それから街路樹がいま東京は47万本。森の木は別だけど47万本ね、それを10年で倍、100万本にしようと思ってる。
香取:100万本!
石原:できるんですよ。例えばね江戸川区なんてのはね、ワンコイン運動なんてね、区民に500円玉出してもらって、犯罪抑止のために特別カメラを設置したの。そしたら1300万くらい集まって、それで監視カメラつけたからものすごく治安が良くなった。それと同じように街路樹も健康の祝いとかなんかの祝いに寄付してもらってそこに名札張って木を自分の家の記念に庭に植えるみたいなそういう運動やろうと思ってて。
香取:10年後、10年後に東京は…。
石原:もうちょっと緑増えると思います。で、慎吾さん、川をね、面白く使う方法考えてよ。江戸っていうのはすごく運河が発達してたの。いまでも残ってますけどね。それで日本はね、東京はアジアのベニスにするって言ってたの。そしたらね、結局建設省の役人がバカだからね。河は全部3枚張りにしちゃったろ?味もへったくれもなくなっちゃってさ。例えばね、現代美術館にある木場。あのあたりはもう埋め立ててしまって。だけどね、行ってごらん。運河に橋かけたの。人と車が渡るために。その運河ってのはもう水位が上がってきたらね、ボートでこうやってそこいらのローボートで頭屈まなかったらぶつかるくらい初めから低いんですよ。で、もう水路が水路になってないの。そういうバカな事を誰がしたんだって言ったら、建設省が、「うちでございました。どうもすみません。」っていまごろやってもしょうがないんだよ。そういうところは政治家ももうちょっと気をきかせてみんなで意見出せばいいんだけど、なんかお上のやることにみんな楯つけないからね。
香取:慎太郎さんのいまの話を聴いていてもっともっと新しく変えて欲しい、変わったらいいな、と思いますけど、4年で終わってしまう中で、それ以上先は…。
石原:できますよ。そんなの。だって地ならしだけしていけばいいんだもん。基本の設計図はできてる。あとは時間かけて続けていくといい。


黒川紀章さん73歳。日本を代表する世界的建築家で、代表作にクアラルンプール国際空港・六本木の国立新美術館、オランダのヴァンゴッホ美術館(新館)などがあります。石原さんとは旧知の友人であり、過去には選挙事務所を提供するほどの仲でした。しかし、今回の都知事選に立候補。自らが設計した選挙カーや個性的な選挙活動は大きな話題を呼びました。そんな黒川さんが選挙後のインタビューで驚きの発言を。

「2年後に石原さんがオリンピック招致に失敗することが分かったんですって!『ニューヨークタイムズ』で調べたんですが。日本を支持する票は一票もないんだって・・・だから結局、その時に石原さん辞めるんですって」

石原:でもあの人もおもしろいね。東京には隠れた借金が2兆円ある、って。そんなもん(あれば)隠せるわけないよ。こっちはおかしいからゲラゲラ笑ったら、次の日にはそれが20兆円になっちゃった。うそっていえばただのうそだけど、駄法螺っちゃあ駄法螺なのかな?
香取:そうなんですか?
石原:そうらしいよ。新党作って総裁になって、なんか有名なキャスターとか、あなたにも来たんじゃないの?「私の党に賛成して入りなさい」って。NOという返事が無かったら承諾した事にするって。これもちょっと乱暴で、なんかね断った人が随分いたって聞いたけどねえ。
香取:NOと言わなければ、YESになってしまう。
石原:そうそう。
香取:素晴らしい方法ですね。あと気になるところが、東京オリンピック。開催できますか?
石原:これはもうこれからの競争ですよね。ただアメリカはね、段々力が無くなってきてるし、人気も落ちてきてるからアメリカの候補地はそんなに強くないと思いますよ。中南米のリオデジャネイロ辺りはね、強敵になってくるかもしれない。一番問題なのは国際競技場でしょう。国立。いまの国立競技場はもうだめ。どう考えても立て直して8万人以上入るスタジアムにならない。あれはもうね、サッカーなんかの専用グラウンドにして。それぐらいにしてやっぱりね、お台場に作りますよ。そしたら安藤(忠雄)さんができるって言ってるから。
香取:それ、お台場にできるスタジアムでSMAPのコンサートやってもいいですか?
石原:おーやってください。あなたのところは武道館がいっぱいになるんだろ?武道館でやった事ある?
香取:ありますね。
石原:あれやりにくいでしょ。あそこ。
香取:いや、そんな事はないです。


石原都知事は就任以来、斬新な政策を次々と打ち出しています。多くの観光客を東京に呼び込むための財源を得るための「宿泊税」導入。増え続けるカラスに対抗する「カラス対策」。
環境面で問題となっていたディーゼル車規制。さらにはラッピングシリーズとして都バスなどに全面広告を施し、初年度だけで5億円の広告収入を得ることに成功。そしてネーミングライツを地方自治体としては初めて導入し、あの東京スタジアムが味の素スタジアムと名前を変え、5年で12億円という、莫大な広告収入を得ることになったのです。また、もっと日本を舞台に映画を、と東京ロケーションBOXを設置。これまでまさにお役所仕事だった、ロケーション認可の仕事をサービスと呼べるまでに作り変えたのです。このサービスを使って撮影されたのが「硫黄島からの手紙」そして「BABEL」。さらに、2005年の5月には東京からはるか南の沖ノ鳥島を都知事として初めて視察。日本の領土を海外にアピールするというパフォーマンスも見せてくれました。

そこでカトリノギモン!!数ある石原さんの政策の中でも気になっているのが、以前スマステーションでも取り上げた「お台場カジノ構想」。

石原さん。カジノまだできないんですか!?

香取:ボクが気になってるところがカジノ…。カジノ構想はどうなっちゃってるんですか?
石原:これはもう国。
香取:ボクは海外行っときにカジノに遊びにいかせてもらう事があるんですけれども、慎太郎さんがお台場にカジノを、って言った時に…。
石原:お台場でもやったらいいし、東京でやったらいいし、日本中でやったらいいんですよ。これ、僕に言ってもだめ。国会。国会がねえ、なにをどう考えるか。この間、僕の知ってる人がバカラでえらい金儲けたんだって。それでね、払い込みがおかしいんでね、弁護士使って国際的に訴訟起こして、そのカジノの大元どこだったと思う?パプアニューギニアですよ。パプアニューギニア。そういう時代になってきてる。なんでともかく日本でやらせない。僕は文化だと思うしパチンコはせいぜいやかましいだけだけど、カジノは色んな発生する文化って出てきますよ。あなたが頑張ってやってくれよ。
香取:ボクがですか?東京にカジノを?それはいまここではっきりとNOと言わなければYESになってしまう?


都知事として多忙を極める石原さんが久しぶりに脚本を務める映画が誕生しました。現在公開中の「俺は、君のためにこそ死ににいく」。物語の舞台は、太平洋戦争末期、鹿児島県南部の美しい町・知覧。この場所は日本軍にとって特別な場所でした。当時、不利な戦況に陥っていた日本軍は、少ない戦力で敵と戦うため、最終手段を編み出しました。それが特攻隊。戦闘機に250キロもの爆弾を搭載し、敵艦に体当たりするのです。そんな特攻隊の出撃基地が作られたのが鹿児島県の知覧飛行場だったのです。この飛行場には全国から若い兵士が集められ、終戦まで実に439人もの若者が飛び立っていくことになりました。その知覧で特攻隊の若者に母とも慕われたのが、食堂を切り盛りしていた鳥濱トメさん。特攻直前の数日間、死を目前とした若者たちはこの食堂だけが憩いの場となっていたのです。この映画は死へと飛び立つ若者たちをとめることも出来ず、ただ慈愛の心で見守り続けたトメさんの目を通じ、特攻隊の若者の青春を描いた実話なのです。そのトメさんを演じるのが国際派女優の岸恵子さん。特攻隊員を徳重聡さん、窪塚洋介さん、筒井道隆さんらが演じています。石原都知事は鳥濱トメさんと長年にわたって親交を深め、この作品を企画。原作・脚本はもちろん、製作総指揮にも名を連ねています。そこでカトリノギモン!

鳥濱トメさんって、どんな方だったんですか?

香取:映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』製作、脚本・・・
石原:製作は?脚本を書いただけ。あれ、東映が私を利用するためにそうした。総指揮だなんて言ってね。ギャラなしでさせられてる。ほんとただ働きだよ。
香取:あーそうですか。今日は言いたいこと全て言ってください。脚本は慎太郎さんが書きました。製作総指揮というのは脚本よりも大きく出てますよね?
石原:製作総指揮と言ったって注文つけたって監督は言うこと聞かないんだよ。僕の弟子のくせに。
香取:そうなんですか?言うこと聞いてくれませんですか?
石原:ここもいらない、あそこもいらない、切れ、切れって言ってるんだけどね。映画は短い方が迫力あるんですよ。こないだも試写会やったあと、あそこ切れって言ったんだけど。
香取:試写会のあとにあそこを切れですか?それはちょっと無理だと思う、、。
石原:いやいや、いーんですよ、その方が。
香取:今回の映画の仕上がりは見てみてどうですか?
石原:いや・・・仕上がりは色々、注文もあるけれども。ただもうねえトメさんから聞いた話だけを要するにシナリオにしましたからね。全部本当の話です。
香取:本当の話。
石原:だからね、面白いのはね、時々ラッシュ見に行くとねえスタッフが泣くんだよね。 宣伝部でもちょっと覗きにきたりするとその連中も泣くんだよ。 こないだ試写会で見ててね、僕は耳を澄ませて聞いてたけどね。 けっこうあちこちで泣いてたな。それはねえ、あくびよりはずっといいですよ。
香取:この作品を書くきっかけになった鳥濱トメさんと知り合ったのはいつごろなんですか?
石原:それはねえ、まだ30歳前のころでねえ。あの近くの町、講演に行きましてね。行ってみようと思ってね。そしたらトメさんまだ元気でね。昔のままのトミヤもありましてね。そこでねえ色んな話聴いてるうちに、僕はやっぱり感動・・・というだけじゃなくてね、話がつまり重いというのかな。厳粛すぎるというのかな?僕と編集長、二人とも正座してましたね。最後。
香取:知らぬ間に?
石原:話が厳粛というか厳しすぎてね。
香取:僕、映画見させていただいたんですが辛かったです。はじまりから最後まで正直、目を背けたくなるくらいに重いシーンばかりで。でも映画なんでこれがどこまでが映画で、どこまでが実際なのかというのを思ったんですが、先ほどお話を聴いた感じだと実際の・・・。
石原:全部本当の話。
香取:今この時期にこの映画を公開したというのは何かあるんですか?
石原:それはねえ、監督が特攻隊の話をやりたいって言ってきて、昔からの付き合いだからさ。それでそれだったら僕がトメさんと親しくしてもらってたから、トメさんから聞いた話だけをシナリオにしようと。あのかつて有名なエピソードの英霊がホタルになって帰ってくる、実際あった話ですよ。だから変な思い入れとか変な価値観持たずに、トメさんが受け取った、トメさんが眺めた感じたと同じ様に見て感じて作ろうという事でやったんですよ。このごろやっぱり安倍総理が『美しい日本』と言ってるけど、『美しい日本』の解釈は色々あるけどだけど、やっぱり『美しい日本』と言ったら美しい日本人がたくさんいてどういう日本人が美しいかというと、美しい心を持ってる日本人。という事でしょ。そういう点ではあのとき英霊を見守って泣いて見送った人たち含めて、本当にあの知覧は美しい日本だったし、美しい人がたくさんいて、美しい心で生きていて、美しい心の行き交いがあったと思うな。
香取:今の2007年は『美しい日本』ではないですか?
石原:ないですね。みんなテメーの事しか考えてないもん。大体、人に言わしたらこの特に若い連中というのは若い連中だけじゃないな、大人もそうだけど、自分の周り5mくらいしか考えてないという。
香取:5m・・・本当に狭いですね。今回の映画でこんな人たちに見て欲しい。
石原:そうねえ、できたら若い人にみてもらいたいねえ。こういう青春もあったんですよって。それからするとあなた方ちょっとズサンに当たり前の事として、のほほんと生き過ぎてるんじゃないの。「自分は何だろうか?」と言う事を突き詰めて考えなさ過ぎるよ。自我がない。自分が。芯がないしねえ。変な話ケンカふっかけたって向かってこないだろ?特攻隊の青春が美しいとは言いませんよ。あんな苦しい、悲惨な怖いものはないけれど、でも今の若者たちの精神に比べるとね、特攻隊の青春は磨ききった5カラットのダイヤモンドだな。
香取:監督をしようとは思わなかったんですか?
石原:いやあちょっと。今ほかの事やってますんでね。暇がない。知事やめたらね、 ほんとうにもう、また映画監督戻ろうかと思って。映画製作の現場って楽しいじゃない。昔は活動屋って言ったんだけどその血がまだ僕残ってるからね。
香取:今、映画にしたいものってありますか?
石原:いっぱいありますね。
香取:いっぱいありますか?
石原:今度撮ろうよ、一緒に。
香取:おっ。撮ろうよ一緒に??!!僕がですか?
石原:そうそう。役者としてだよ。あんたは監督じゃない。俺が監督して。
香取:一緒にっていうから僕も監督かと・・・。もうそろそろお時間が来てしまいましたけど。
石原:随分長く話したな。
香取:今日は本当にありがとうございました。すごい楽しかったです。 慎太郎の慎と慎吾の慎て同じ字なんですよ。
石原:慎ちゃん同士だ。あなたのさあ・・・俺も本当になんて言うのかなあ、『新選組!』ハラハラして見てたんだよ。
香取:御用改めである!!
石原:そうそうそう。
香取:慎太郎さんの人生。都知事のあと。先ほど言ってた感じだと映画監督ですか?
石原:映画監督と俳優かなあ。
香取:俳優。共演しますか?僕と。
石原:いいねー、親子でやろう。


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