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SmaSTATION!!秘められた伝説シリーズ2 『綾小路きみまろ ブレイクまで30年 隠された成功の秘密』
「秘められた伝説シリーズ」第2弾は、漫談家・綾小路きみまろさん。現在、中高年を中心に圧倒的な支持を受けているきみまろさんは、全国各地で年間200本近くライヴを開催。いずれもチケットは即完売という人気ぶりです。しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。その隠された成功の秘密に迫ります。

綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その1  『原点は幼少期の逆境』
綾小路きみまろ。本名、仮屋美尋(かりや よしひろ)は、1950年、鹿児島県松山町で農業を営む両親の元に生まれました。小さいころから人を笑わせることが大好きだったきみまろ少年は、教室で先生の物まねをしたり、踊って見せたりしては他の生徒を喜ばせていたそうです。そんなきみまろ少年の父は、当時農耕馬の種馬を飼い、雌馬への種付けの商売をしていました。その為、きみまろ少年についたあだ名が「種馬」。しかし、そんな逆境にもきみまろ少年はめげませんでした。持ち前の明るさと機転で乗り切って見せたのです。授業参観の作文の発表では、馬の種付けの様子を文章に書いて発表。「メス馬の後ろからウチの馬が乗っかって動きました」。後ろで聞いていた父兄達は笑いをこらえることができなかったそうです。

「負けない子でしたね。なんかこう強い。自分で言うのも変なんですけども。随分いじめられても大丈夫。いじめ返すことは無いんだけども生きていけるみたいなね。だから、『種馬』ていうのは私の今のエネルギー源になってるんじゃないですか」



綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その2  『キャバレーで覚えた毒舌』
きみまろさんが、現在の仕事を意識したのは高校生になってから。当時テレビで放送されていた歌番組の司会やスポーツ実況など、歯切れの良い声に魅了され、それをモノマネしていくうちにアナウンサー、そして司会者になりたい・・・と強い憧れを抱くようになったのです。高校を卒業したきみまろさんは、単身上京。「アナウンサーになるためには大学に進学しなくてはならない」と決意し、新聞販売店に住み込みで働きながら、日々勉強に明け暮れました。その甲斐あって、きみまろさんは、翌年、見事拓殖大学に入学を果たします。そしてこのころ、きみまろさんは、新聞の配達地域にあった病院で運命的な出会いを果たすことになります。偶然、親しくなった入院患者のひとりが、足立区にあった大きなキャバレーの営業部長だったのです。アナウンサー、そして司会業への強い憧れを語るきみまろさんに、その部長は、話す仕事のきっかけになればと自分の店でボーイとして働くことを薦めたのです。
昭和40年代半ば、当時はキャバレー全盛期。大きいところでは100人以上のホステスを抱え、歌謡ショーあり、漫才あり、手品あり…という、芸人の登竜門的存在でした。その華やかさを支えていたのが司会者なのです。そんなある日、専属の司会者が体調不良を訴え休むことに…。そこで、支配人は、ボーイとして働いていたきみまろさんに急遽代役としてステージを任せたのです。

「それでやったら『お前の方がうまいんじゃないか』みたいな…。そういうところがきっかけでしたね。自分が司会者に憧れていましたし、そういう事をいつかはしたいなっというのがありましたから、ドキドキはしたんでしょうけども見よう見まねでやったんでしょうね。そういうことがしたかったわけですから、そういう意味では運命の分かれ道というかね、その辺がターニングポイントです。私のね。」

生まれて初めてのステージは大盛況のまま終了。その才能を認められたきみまろさんは以降、専属の司会者に抜擢されたのです。しかし、その後のステージではなかなかお客さんが自分の喋りを聞いてくれません。そこできみまろさんは、何とか自分のほうに向かせようと「客イジリ」を始めたのです。

「『なぜそこはホステスさんが座ってないかというと、ツマミを取らないから』とかね。けっこうお客さんを虐待した話でしたね、今考えると。だからお新香が飛んできたり、おしぼりが飛んできた時代があるんですよ。よく怪我しなかったなと思いますよ。本当に投げてくる。『客をバカにしてんのか!』って。結局毒舌ですから、それぐらい言わないと、みんなこっちを向かないわけですよ。女の子目当てに来てますから。そういう話をしてましたよね。」

現在の毒舌漫談というスタイルは、このキャバレー時代に培われたのです。

綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その3  『漫才ブームの影で・・・』
1980年代初め、爆発的な漫才ブームが到来。かつて仲間だった芸人達がテレビに出演するようになります。きみまろさんも、積極的にオーディション番組などに参加しましたが結果はいずれも不合格。キャバレーでは人気者になっていたきみまろさんでしたが、テレビ界から声がかかることは無かったのです。それでも、「いつか、ブームにもかげりが来るはず、自分の時代が来るはず」と、きみまろさんは信じ続けました。

「絶対にね、分かってくれる人がいるはずだ。必ずいるはずだ。ひとりでもいいから、お前すごいな、お前おもしろいなって言ってくれる人が絶対いる。もっと分かりやすく言えば、俺が一番みたいなね。そういう気持ちがどっかにないと続けられない仕事かもしれないですね。」

漫才ブームの影での苦悩…そんな日々の中できみまろは努力を続けました。そして、そのことが次なる飛躍へとつながっていくのです。



綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その4  『司会者から漫談家へ』
漫才ブームに遅れをとっていたきみまろさんに転機が訪れます。それは「面白い司会者がいる」との噂を聞いた関係者から「日劇で行われる森進一の歌謡ショーの前座を務めないか」という誘いでした。1日限りでしたが、きみまろさんは会場中を笑いの渦へと巻き込み、見事、前座の仕事をつとめあげました。舞台裏で聞いていた森さんも、きみまろさんの漫談に大爆笑。その様子をテープに収録させ、車の中で聞くほど、その才能にほれ込んだそうです。その甲斐あってきみまろさんは森さんの専属司会を務めることとなります。しかし、きみまろさんの漫談はその毒舌ゆえ必ずしも受け入れられるという状況ではありませんでした。

「『厳しい管理社会の中で少しばかりの給料をもらってローンで家を建てて払い終わった頃死んでいく』みたいなことを言うと、『ステージで死んでいくとかそういう言葉はやめてくれ』とかね。『夢を与えるところなんだからステージというのは、そういう事言っちゃダメだよ』」とかね。要するに、垢ぬけない。そういうちゃんとした所に出られない。それを森さんが拾ってくれて森さんのところで磨いてもらったみたいなね。そういうところで森さんにすごい感謝してますよね。」

こうして、きみまろさんは、森さんの専属司会者を実に8年もの間つとめることになりました。さらには小林幸子さんのショーでも司会を4年間務めました。そんな中、あるきっかけがきみまろさんを変えることに。それは伍代夏子さんのショーへのゲスト出演でした。いままでの司会者としてではなく、きみまろさんの漫談コーナーとして20分という時間が設けられたのです。

「その頃私も40代後半でしたし、お客さんも50代60代ばっかりじゃないですか。もう、徐々に中高年の漫談が確立してましたんで。そういう意味ではとてもやりやすい場所を提供してくださったと思います。」

伍代夏子さん
「もう爆笑の渦ですよ。特にお母様方が多いときだともう本当に大爆笑でみなさんねお腹痛くなって、涙ポロポロこぼして、もう本当に喜んで下さって。まろさんがそうやって盛り上げて下さると私のショーも皆さん印象に残ってくれるじゃないですか。そんな意味で本当に助かりました。」


漫談家として確かな手ごたえを感じ始めたきみまろさんは、この時すでに40代後半。書きためたネタ帳は、ダンボール5箱分にもなっていました。



綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その5  『ある芸人から学んだこと』
不遇の時代、きみまろはキャバレー回りである芸人と出会いました。それは、ビートたけしさんです。きみまろさんはたけしさんの毒舌ネタに魅了され、こんなことも…。

「この前たけしさんに会ったときに、『たけしさん私ね、北海道で3日間キャバレーの仕事があって、1日2ステージで3日目になると、ネタないんですよ。だから北海道の釧路だったらたけしさん聞いてないだろう、と思って、随分たけしさんのネタ使わせてもらいました』って言いました。面白いネタいっぱいあるんですよね。おばあちゃんのネタでね、『ウチのおばあちゃんはね、畳の上で死にたい、畳の上で死にたい、毎日言ってる。最終的に畳を背負って歩くようになったって。そしたら畳の下敷きになって死んだ』って。逆説のこの辺の組み合わせが面白いなと思って、こういうネタを作りたいなというのがひとつの目標でしたもん。」

ビートたけしさんを目標に、きみまろさんは毒舌漫談にまい進していきました。



綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その6  『カセットテープ配布』
伍代さんの歌謡ショーにゲスト出演し、着実に漫談に磨きを掛けていったきみまろさんは、「もっと、たくさんの中高年に自分の漫談を聞いてもらいたい・・・」という思いから、自分の漫談ライヴを録音したテープを配ってとにかくたくさんの人に聞いてもらおうと考えました。そんな時、たまたま目に入ってきたのが、高速道路のサービスエリアにやってくる全国からの観光バス。観光客は中高年が多くの割合を占めていました。

「よく考えたらバスの中にはデッキもありますし、閉じ込められてるし、渋滞になったらガイドさんの話も途中まで、なんかもうネタ切れだったり、カラオケでもずっと疲れるだろうなって思って。よしこれだと思って、サービスエリアとかバスのたまり場を狙い始めたんですね」。

渡すカセットテープには購入の際に必要な連絡先も添えました。観光客は全国各地の町内会などを単位としたツアーが多く、きみまろさんの噂は口コミで全国各地へ広がったのです。きみまろさんは、場所を変えてはテープを配り続けました。注文のテープの本数も10本が20本と、日に日に増えていったのです。テープは全て手作り。ダビング作業は、実に8年間もの間、来る日も来る日も続きました。友人に頼んで作った、特注のダビングの機械は1回で30本のカセットに録音が出来ました。やがて、事務所に電話が殺到するようになると日夜を問わずその対応に追われ、夜中もダビング作業に奮闘。それでも人手が足らなくなった為、最後は親戚にも手伝いを頼み、作業をおこなったそうです。当時、郵便局からの引き取りサービスを知らなかった奥さんは、ポストに入らなくなるまで何箇所かに分けて投函していたそう。不思議に思ったのは集配に来た郵便局員。配送用に使っていた赤い封筒が毎日あちこちのポストから山のように出てきたのですから。結果、テープは約3年をかけ、5万本以上を売り上げることとなりました。こうした地道な活動を経て、その後徐々に注目されるようになったきみまろさんは、テレビや出版界などで脚光を浴びるようになりました。そして、2003年にはライヴ集のCDがミリオンセラーになったのです。



綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その7  『川柳パクリ疑惑』
苦節30年。ようやく脚光を浴び始めたきみまろさん。そんな矢先、事件は起きました。きみまろさんが、漫談のネタに、「サラリーマン川柳」を盗用しているという噂がささやかれはじめたのです。同様の物と言われたネタは10作品ほど。ここできみまろさんは驚くべき決断をします。すぐさま、謝罪会見を開いたのです。

「申し訳ございませんでした。えぇ、盗みました。私たちの世界はね、やっぱり本とか、いろんなものを見て勉強するんですけど…。芸人仲間は『「どこにでもある話なんだけどな、しょうがないよ。売れたんだから、そのしっぺ返しだよ』みたいなことは言われましたね。もうあれから5年くらいはたちましたけど、ほんとに申し訳なかったなと」

きみまろさんの潔さは世間には好意的に受け止められました。なんと、CDの売上は倍増したのです。が、そんなきみまろさんに更なる疑惑が持ち上がります。



綾小路きみまろ 隠された成功の秘密その8  『カツラ疑惑』
芸能界においても確固たる地位を築き始めた矢先、ある疑惑が持ち上がりました。カツラ疑惑です。

「しゃべりながら見ていると目線が違うんですよね。不思議なもので、何かこの辺(頭)見てるんですよね」

当初は、「自分がカツラをカミングアウトすることで、周りに迷惑がかかるのでは?」と心配しましたが、きみまろさんは、公表を決意。自らがカツラであるということをラジオの放送中に明かすという行動に出たのです。その後、きみまろさんはテレビのトーク番組でもカツラを公表。現場は騒然となりましたが、その素直な姿勢は結果的に好印象を与えることとなり、またしてもCDの売上は激増します。こうして漫談家としての地位を確固たるものにしたきみまろさんは、現在も全国各地で中高年を相手に、精力的にライヴを行っています。

「好きな言葉は『みんなのおかげ。あなたのおかげ今日私がここにあるのは』。あなた達のおかげでこうなってる。私を支えてくれる人がいるから、わたしがある。だから今日あるのはあなたのおかげそんな気持ちで毎日がんばってます。」

中高年のアイドルとして、ニッポンに熱いメッセージを送り続ける漫談家・綾小路きみまろ。潜伏期間30年、その裏には地道な努力と成功を信じ続ける強い信念があったのです。




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