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SmaSTATION-6 特別企画 「いじめ問題に向き合うヤンキー先生・義家弘介」
『美しい国ニッポン』をスローガンに掲げた安倍総理大臣は、昨年10月、教育改革への取組みを強化するため教育再生会議を設置しました。そのメンバーには、教育関係者はもちろん、ノーベル賞受賞者・企業経営者・オリンピックメダリスト・百ます計算のカリスマら、著名人が名を連ねていますが、そんな錚々たるメンバーの中で、室長を務めているのがヤンキー先生こと義家弘介さんです。番組では、そんな義家先生の生い立ちを紹介しました。

義家弘介(よしいえ ひろゆき) 35歳。1971年、長野県に生まれた義家さんは、生まれてすぐに両親の離婚を経験。すぐに父親が再婚するも、物心ついた時から孤独を感じていた義家少年は、「反抗」という形でしか自らを表現することができなくなっていきました。中学校にあがると、髪を染め、不良ファッションに身を包み、酒にタバコ、更にバイクを夜な夜な乗り回し、誰振りかまわず喧嘩を売る毎日・・・。

<義家先生>
「もう殺してくれって感じ。引くに引けないし、あれはどうしようもない。恐かったですよ。すごく。恐かったけど、やっぱり強く見せたかったのかな。」

高校進学後も孤独を紛らわせるために、暴れに暴れたという義家さん。入学早々、目立っている同級生に片っ端から因縁をつけ、気に入らなければ先輩だろうと喧嘩を売り、気づけば一年生で番長に・・・。夜はバイクで繁華街に繰り出す、手のつけられない悪ガキでした。

<義家先生>
「埋没したくない、とにかく場所がほしかった。安心できる場所、敵もいなければなんでもない、安心できる場所が欲しかった。だから本当はすごい嫌われてたんでしょうね」。

そんな義家さんは高校2年のときに恋に落ちました。学校一の人気者であった彼女とは、ごく普通のデートを重ねていましたが、ある日、担任の先生がその彼女に言ったひと言が義家さんの人生を変えることとなりました。

「お前はなぜ義家みたいな不良と付き合うんだ?あんなやつと付き合っていたらお前の進路はめちゃくちゃになるぞ」

これを聞いた義家さんは自分の感情を抑えることができませんでした。自分が責められるなら仕方ないものの、何も関係のない彼女を責めたことに対する怒りが爆発したのです。そして、義家は、その担任の頭にライターで火をつけたのです。その後も暴れまくった義家さんに、学校側は進路変更処分を言い渡しました。これは「うちの学校ではこれ以上生活を続けることはできないが他の学校に行くならば書類を出して転校を認める」というもの。この話を聞いた父親は、16歳の義家さんを勘当。児童相談所に預け、その後彼は、里親の元に引き取られることとなりました。

<義家先生>
「不思議なくらい抵抗しなかったですね。なんか全部あきらめちゃった。夜の街もつまらない、学校もうそつきだけ、これ以上家にも迷惑かけるわけにはいかないだろうと。だから、あとはもう好きにしてくれと。従うよ、ってなんかそういうように感じましたね」

しかし、教師への暴行という理由で学校を辞めさせられた義家さんを受け入れてくれる学校は中々見当たらず、里親のもとで悶々とした生活をすごすことに・・・。何かをする気力もなくした義家はいつしか引きこもりの生活になり、そして自暴自棄に陥った彼はこう考えるようになりました。「生きていてもしょうがない・・・」。そして、手首を切って自殺を図ったのです。

<義家先生>
「生まれさせられたんだったら、命をたつ時は俺がやってやるって…。自分が選べるのは何かってね。住みところも選べない。生まれるか生まれないかも選べなかった。未来も選べないような気がした。だったら、今俺に選べるのがあったとしたら、生きるってことが選ぶってことだとしたらね、今俺に選べるものってないじゃないかと。一個しかない。それは死だ、って単純に思ったよね」

発見が早かったこともあり一命を取り留めた義家さんでしたが、病院のベッドの上で、「俺は死ぬことさえできねえのか・・・」と思ったそうです。そんなある日、義家さんの人生を大きく変えることとなるある記事が新聞に掲載されました。「小さな学校の大きな挑戦・・・」。それは、北海道の余市町という場所にある私立学校が、過疎化の影響で生徒数を確保することができず廃校の危機に陥ったため、その打開策として全国から中退者や不登校生徒の編入を募集する、というものでした。その記事にはこうも書かれていました。

「やり直しを賭けようとするものの過去は問わない」

義家さんは、今までの生活から抜け出したい一心で1988年4月、私立北星学園余市高等学校の門を叩きます。義家さん同様、あの新聞記事を見て約50名の生徒が余市にやってきました。が、ほとんどの生徒がさまざまな問題を起こし学校に行けなくなった者ばかりで、学校ではそんな彼らの暴力事件が後を絶ちませんでした。元々不良少年と呼ばれ続けていた義家さんもそんな問題児のひとりだったのです。
そんな義家さんがあるの教師との出会いにより少しずつ変わっていくことになります。当時、義家さんのクラスの担任でもあった安達俊子先生です。安達先生は、正面から義家さんと粘り強く向き合い、ちょっとした義家さんの行動も見逃さず、問題を起こしたら真剣に怒り、良いことをした時は大いに褒めました。

<義家先生>
「海にエスケープしてたら車で来るわけですよ。『義家君!!乗りなさいっ!』ってね。
普通、教師としてエスケープしてる人間を浜に向かえに来たら職員室に連れてきて指導部とかで怒るでしょ?先生は真っ直ぐ教室にブチ込むんですよ。それって今までの学校像とは全く違った、教師像かなぁ。『俺たちなんかにそんなにかまうなよって』言ったらね、満面の笑みで『宝物だから』っていうわけですよ。『なんじゃコイツは!!』と思いましたよ。ちょっとビックリしましたよね。仕事だからとかね、そんなんじゃ全然ない。宝物だからって言われたって、返す言葉ないでしょ。『何でこんなガラクタが宝物って。なんなんだろうこの人は』って初めはすごく思ったけど、でも、暖かいなって感じましたけどね」

不良少年だった義家さんにとって安達先生との出会いは、初めて心から感じた温もりだったのです。1990年高校を卒業し、横浜の明治学院大学に進学した義家さんは、「弁護士になって社会に挑戦状をたたきつけたい」という目標を掲げ、猛烈に勉強に明け暮れました。授業のあとは家に直行し、ひたすら法律を勉強したのです。しかし、司法試験を直前に控えて、義家さんはバイク事故を起こしてしまいました。内臓を激しく損傷し、意識不明の重体・・・必死の救命活動でなんとか一命は取り留めたものの、予断の許す状況ではなかったそうです。そんな義家さんに生きる力を与えたのは、安達先生でした。事故の一報を聞いた先生は病院に駆けつけ、意識が朦朧としている義家さんに涙ながらにこう訴えました。

「死んではダメ…あなたは私の夢だから」と…。

<義家先生>
「『あなたは私の夢なんだから死なないで』って、何度も何度も伝えてくれた。あの瞬間ね、苦しんできた全てが肯定された気がした。この事実だけあれば俺は生きていけるって。何としてでもこの温もりに執着したいって思いましたよね。救われた命だから、このクソったれの世の中だから傷つき涙する連中がたくさんいる。これからはその連中に寄り添いながら生きていこうって。どんなに望んでも俺は 彼女の子供ではない。だったら彼女の歩いてきた教育という名の道を歩いていこうと。教師になろうって思ったんですよね」

大学を卒業した義家さんは、北海道の大手進学塾へと就職。塾の講師として、教育の場に飛び込みました。そして1999年、ヤンキーは教師として母校に帰りました。当時も多くの編入生を受け入れていた余市高校は心に大きな傷を負った生徒が多く、赴任早々から問題は山済みでした。かつての自分がそうだったように一筋縄ではいかない相手に対し、義家さんはとにかく全力で向き合ったのです。生徒との衝突は日常茶飯事でした。タバコ・集団飲酒・シンナー・暴力・ひきこもり・そしてイジメ…全力で向き合っている分、問題を起こした生徒には徹底してヤキを入れたそうです。

<義家先生>
「いじめだけは絶対に許さねえぞ!失敗は許そう。でもいじめは許さねえぞと。そのときは俺と全面対決する気でいてくれと。大体ね夢を追うっていうのは自分より先のものを目指すわけですよ。自分より弱いものいじめてるヤツは絶対夢なんかつかめない。だから俺に向かって来いと。そういう感じでしたね。見て見ぬフリしてるやつもみんな同じ。エンドレスのHRですよ。てめえら絶対帰さないぞと。徹底的にわからせてやる。それがどんなに情けないことなのかていうのを、って」

そんな折、学園はおろか、全国を揺るがす大事件が起きました。「大麻事件」です。
79名にも上る生徒が「大麻吸引」に加わるというこの一大スキャンダルをマスコミはこぞって取り上げました。全国から誹謗中傷を浴び、新入生は激減するなど、学校の存続も危ぶまれたこの事件。きっかけはひとりの生徒が漏らした「うちの学校で大麻をやってる人たちがいるらしいよ」という言葉でした。この一言に、教師たちは水面下で情報収集に奔走し始めました。これらの情報を元に緊急の職員会議が開かれ、そこで出された結論とは、「大麻にかかわった生徒は自ら名乗り出てくるように訴えます。もしそこでだれも名乗り出てこないなら、私たち担任団は教師を辞めます」というもの。この訴えに異を唱えるものはいませんでした。そして、教師生命をかけたこの訴えは確実に生徒たちの心に届きました。ひとり、またひとりと自ら名乗り出てきたのです。結局、全校生徒約600人のうち、実に79人もの生徒が自らの意思で悪事を認めたのです。その後、彼らの処分や、この問題に困惑する大麻にかかわっていなかった生徒たちのケアをどうするのか、といった議論が連日朝まで続きました。2名退学、77名は無期停学。翌日から停学者に対して、各担任は電話、文通、家庭訪問を繰り返し、彼らと向き合いました。残った生徒たちに対しても「知っていたのに、言えなかった、言わなかった」事に対する問題を徹底的に話し合ったのです。全教師が全校生徒にうわべだけでない「真の人間関係つくり」を迫ったのです。この事件後、学校は生まれ変わりました。停学処分を受けた77名の生徒も学校に戻り、トイレからはタバコが消え、遅刻の数も減り、問題を起こし停学になるものもほとんどいなくなったそうです。
この一大スキャンダルは世間でも注目を浴び、中でも、同校出身で元ヤンキーという異色の経歴をもつ義家さんは、度々ドキュメンタリー番組に登場。その姿がテレビドラマ化されるなど一層注目を集めるようになりました。そして2005年、義家さんは次なるステップとして横浜市教育委員会のメンバーとなりました。更に、昨年4月から東北福祉大で、特任講師として教壇にも立ち、将来教育者を目指す学生を対象に「教師論」を講義しているのです。そしてラジオを通しても多くの悩める子供たちと正面から向き合っています。義家弘介は今も教育という現場で走り続けているのです。


FMヨコハマ『Y-Y-Y』
FRIDAY 25:00〜27:00
yyy@fmyokohama.co.jp

『ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない』
毎週日曜日 24:00〜25:00放送
ホームページアドレス http://www.allnightnippon.com/yume/
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