 1914年、大正3年。日露戦争に勝利し、列強の仲間入りを果たした日本はこの時代、積極的に海外の文化を取り入れ始めました。そんな中、宝塚はある一人の男性の発案によって産声をあげます。阪急電鉄の父と言われている、小林一三です。当時、小林は大阪の中心地・梅田から兵庫県・宝塚を結ぶ現在の阪急宝塚線を開通。その開通にあわせ、沿線住民の乗車利用拡大を目論んだ小林は、古くからの温泉地であった終点の宝塚にモダンを売りにした宝塚新温泉をオープンします。そして、小林は目玉になるアトラクションはないか、考えを巡らせていました。その時、小林の耳にこんな噂が届いたのです。それは、東京の老舗百貨店・三越が客寄せの一環として少年音楽隊なるものを結成し店内の広場で余興として演奏を披露したところ、人気を博している…というもの。三越少年音楽隊とは、20~30人の可愛らしい男の子達が洋装に身を包み、鳥の羽根のついた帽子を斜めにかぶったチャーミングないでたちで、当時としては珍しい西洋音楽を歌い披露するもの。 これが東京で大人気となっていると聞いた小林は、「東京が男の子なら、こっちは女の子だ!」と、女子だけの音楽隊の結成を思いついたのです。早速、募集を開始した小林は、単なる音楽隊結成に止まらず、うら若き少女達をあずかるには、それなりの人間的教育、しつけにも責任を持つべきだと考え、上下関係や礼儀作法などの生活指導も担う「音楽学校」を設立したのです。後に、小林が掲げたモットーは「清く正しく美しく」は、今なお宝塚を象徴する言葉です。一期生として採用された少女は、16名。こうして誕生したのが、宝塚歌劇団の前身、宝塚少女歌劇です。 第1期生となる彼女たちは、宝塚新温泉の宴会広場などで桃太郎を題材にした「ドンブラコ」やダンス「胡蝶」などの演目を披露しました。これが、思いのほか人気を博したのです。当初は、行楽地の余興程度に考えていた小林でしたが、誕生の翌年には年間、実に25万人の観客を動員。少女たちの可憐でレベルの高い歌劇は全国で噂となり、「みだれ髪」で知られる歌人、与謝野晶子や、「当世書生気質」の坪内逍遥らが、わざわざ東京から公演を見に足を運びました。当時、大正初期は、海外から流入したばかりの「活動写真」が人気を博すなど、民衆が「新しいもの」を強く求めていた時代。そんな時代背景もあり、宝塚少女歌劇は一躍大きな支持を得ていったのです。こうした人気に後押しされるように、小林はかねてから胸に秘めていた「新しい国民劇の創造」、さらに「質の良い芝居をより多くの大衆に見せる」、という2つの理想を実現するため、ある構想へと向かっていきます。
「芝居というものが特定の人間のものじゃなくて、多くの方々に愛されて、多くの方々に提供する文化だと。そのためには劇場を大きくして、小屋を大きくすると入場料が安くなる、そうすると安い料金でご家族そろって楽しんでいただける、そういう文化を提供しようというのが、大きな前提にあったと思いますね。」(演出家・植田氏)
宝塚少女歌劇結成から10年後の大正13年。小林は宝塚大劇場建築を決意するのです。当時、日本最大だった東京の帝国劇場が収容人数1700人だったのに対し、小林が考えたのは、収容人数4000人を超える大劇場。日本はもちろん、当時としては東洋一の大きさを誇る規模でした。さらに小林は、大劇場にふさわしいショースタイルを模索するため、所属の演出家・スタッフをパリに派遣。当時のパリでは、「ムーランルージュ」に代表される“レビュー”と呼ばれるショースタイルが全盛でした。“レビュー”はパリで生まれ、毎年12月に1年間の出来事を、場面を転換させながら風刺的に演じた喜劇が元となったもの。歌と踊りを中心に、多彩な演出と豪華なセット、華やかな衣装で観客を魅了する最先端のショーを目の当たりにした演出家たちは、帰国後すぐさま小林にレビュー導入を進言しました。しかし、レビューの導入には大きな問題がありました。「莫大な経費」です。この公演を実現するには、衣装や舞台装置、音響設備など準備費用だけで、それまでの公演1年分もの制作費がかかってしまうのです。さらに、脚や肩など露出の多い衣装に、多くの反発が寄せられるのでは、という懸念もありました。世界最先端のレビューショー導入は、夢物語に終わるかに思われたとき、小林は言いました。「それが素晴らしいものならやりなさい!」と。 小林の英断により、昭和2年、日本初のレビュー「モンパリ」が真新しい宝塚大劇場で幕を開けたのです。斬新な舞台、ラインダンス、大階段を使ったフィナーレに観客は圧倒され、大反響を呼びました。この「モンパリ」は、実に9ヵ月にも及ぶ宝塚としては初のロングラン公演を記録。レコード発売されたテーマ曲、「うるわしの思い出モンパリ」も大ヒットとなりました。さらに、東京の歌舞伎座や新橋演舞場でも公演された「モンパリ」は大喝采を受け、日本初のレビューは大成功をおさめたのです。そんな光景を目にした小林は、「何とか東京でも毎日宝塚を見てもらいたい」と考え、昭和9年(1934)、東京の中心地・日比谷に3000人収容の東京宝塚劇場を建設しました。オープン以来連日、大盛況。レビュー以外にも新作を次々に上演するという、宝塚の第一次黄金期を迎えることとなるのです。昭和12年には劇団員は394名にまでふくれあがり、全国から集まった良家の子女たちがトップスターを夢見てしのぎを削りました。宝塚トップスターの人気は、当時、絶大な人気を誇った歌舞伎役者や劇役者・榎本健一をしのぐほどだったといいます。公演終了後、宝塚のスター達の出を待つファンが会場前に溢れ返るという情景も、この頃から続いているものです。しかし、そんな時代も長くは続きませんでした。
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