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SmaSTATION特別企画「政界の暴れん坊・浜田幸一」
“ハマコー”の愛称で親しまれ、「政界の暴れん坊」とも呼ばれた浜田幸一氏。政界引退後も、なお絶大な影響力を誇るハマコーさんは、一体どんな人なのでしょうか?「暴力議員」というレッテルを貼られたこともあるハマコーさんの人生を追いながら、その意外な素顔に迫ります。
母の教えを実践した少年時代
浜田幸一さんは、1928年(昭3)9月、千葉県君津郡青堀町に、4人兄弟の次男として生まれました。名前の由来は『浜で働き、田で働き、一生懸命働いて幸せ一番になる』。父親の甚三郎さんは、大の賭博好きで祖父の代に築いた財産を全て使い果してしまっていました。そのせいで浜田家は貧乏暮らし。母親が女手ひとつで4人兄弟を養っていたのです。そこで幸一少年は7歳から新聞配達を始めました。雨の日も雪の日も1日も休まずに10年間続けたそうです。小学校時代、学級委員になった幸一少年は、その権限で皆の弁当を開かせ、いいおかずを持ってきた人から取り上げ、みんなに平等に分け与えました。例えば卵焼きが入っていると、箸で細かく割り、ほんのひと口ずつでしたが、クラス50人全員に分けて食べさせたのです。母に教えられた平等の精神を実践した行動でした。
17歳の時、それまでの生活を一変させてしまう出来事が起こりました。それは『敗戦』。多くの人たちが明日への希望を失っていた時代に、幸一青年は、毎日ケンカにあけくれ、夜は芸者遊び、そして賭博場にも出入りするようになっていったのです。
そんなある日、幸一青年はある事件を起こしてしまいました。知り合いの天ぷら店で暴れていた若い衆5人を相手に大立ち回り。警察が駆けつけたとき、ひとり逃げ遅れた幸一青年は、傷害で逮捕され、懲役1年の実刑をくらってしまったのです。天ぷら店を救おうとした為に起こした事件でしたが、翌日の新聞には、彼のことがこんなふうに掲載されました。『木更津のダニ』と…。
出所の日、温かい弁当を持って迎えに来てくれたのは母親の安江さんでした。「幸一、今のままで死ぬか? それとも新聞配達をやってた頃に温かいモノを食べさせてくれた、故郷のおじいちゃん、おばあちゃん、そういう人たちのために死ねる男になるか、もう一回だけ考えてごらん」。涙ながらにそう言う母の言葉に、「これからは親を大切にし、故郷の人たちのために、一身を奉げ尽くそう」と決意したのです。
政界進出と田中角栄氏との出会い
心を入れ替えた浜田さんは、地元青年団の団長などを務め地域の街づくりに貢献。1955年(昭30)、町会議員選挙に立候補しトップ当選しました。そして、その5年後、1960年(昭35)には無謀にもこの小さな町の町会議員から、いきなり衆議院選挙に打って出たのです。しかし、結果は惨敗。勉強不足を痛感した浜田さんは、県会議員を5年半務めた後、再び衆議院選挙に挑戦しました。普通のことをしていたのでは勝てないと思った浜田さんは、変わった選挙運動を思いつきました。それは、『自分の応援歌』。オーケストラから混声合唱までプロに頼んで、行進曲風な3番まである曲を作ったのです。そのタイトルは『燃えるハマダ』。房総半島の畑の中、その歌をガンガン鳴らしながら選挙カーで走ったのです。その結果、7万8千票を獲得し、見事トップ当選! 国会議員となった浜田さんは、将来総理になる人物だと見込んだ田中角栄氏の門を叩きました。しかし、田中角栄氏の返事は意外なものでした。「浜田君、君は川島派に入りなさい。そこで勉強してきなさい」。何と角栄氏は、対立派閥へ入ることを指示したのです。「これは角栄さんの天下取り構想の作戦だ」とこの時直感的に思った浜田さんは、田中派のスパイのつもりで川島派へ行く事を決意したそうです。角栄氏もまた、浜田さんの潜在能力を高く買っていました。後に角栄氏は、浜田さんの著書の出版記念パーティーで、こんな挨拶をしています。「この浜田という男、いろいろ批判もあります。しかし、田中角栄に対する批判に比べたらたいしたことない。でも、国会にはこんな男も必要なんです!」。
1972年(昭47)、田中角栄氏が総理になる直前、角栄氏は浜田さんに「天下を取るためには、こういうことが必要なんだ。」とあるものを見せました。それは、『餅代リスト』と呼ばれる、誰にいくらお金を渡したかのメモでした。そこには国会議員の名前がズラッと書いてあり、その横に、「五百・三」「五百・五」などと書かれていました。例えば、「五百・三」というのは、角栄氏がその議員に「今まで500万円を3回、計1500万円を渡した」という意味でした。
政界の暴れん坊・その武勇伝とは
当時の浜田さんは、その歯に衣着せぬ言動から、『ヤジ将軍』と呼ばれていました。そんな浜田さんには『ヤジの三原則』なるものがあったそうです。それは「女性をやじらない」「国民の皆さんに生きがいを与えるものでなくてはならない」「ナイス・ジョークでなくてはならない」。
ヤジひとつにも拘りを持っていた浜田さんは、数々の武勇伝も残しています。1979年(昭54)、大平総理に退陣を迫った反主流派が、議員総会の会場に椅子やテーブルでバリケードを築いて立てこもりました。浜田さんが現場につくと、主流派と反主流派が激しい言い合いの真っ最中。そのやりとりを見た浜田さんは、「こんなことして、自民党が良くなると思ったら大間違いだぞ!」と、ひとり黙々と、バリケードを撤去し始めたのです。
1987年、衆議院予算委員会。与党自民党の予算案に断固反対の野党議員は、委員長の採決を阻止しようと委員長席周辺へ押し寄せました。浜田さんは、他の自民党議員とともに野党議員たちともみ合いになり、委員長を守りました。結局、この委員会は、自民党が野党を押し切る形で強行採決されました。
1993年、自民党の改革派若手議員たちが、総務会の開催を阻止するため、体を張って会場入口を封鎖。入室しようとするベテラン議員たちと押し合いが始まり、怒号が飛び交いました。その時突然、浜田さんは、仰向けに転倒し、「痛い!痛い!」と両手両足をバタバタさせ始めたのです。そんな謎の行動に、若手議員たちがひるんだすきに、自民党執行部が次々と総務会室に強行突入。浜田さんの咄嗟の演技により、どうにか総務会を開催することができたのです。
政治家として成し遂げたもの
豪快な武勇伝ばかりが取りざたされる浜田さんですが、国会議員として一体どんなことをしてきたのでしょうか。浜田さんの代名詞とも言えるのが『東京湾横断道路・アクアライン』。千葉県木更津市と神奈川県川崎市を橋とトンネルで結び、東京湾を横断するという夢のプロジェクトでした。総事業費は1兆4400億円。これは1mあたりに換算すると1億円かかっている計算になります。アクアラインの開通によって、孤立した半島のイメージが強かった千葉県を東京と結び、相互に発展することが期待されていたのですが、平均通行量は当初の見込みの約3割と、いまのところ期待外れな結果。しかし、浜田さんは「何年後かに東京に大地震が来たら、みんな、あの橋の有難さが分かる時が来る」と…。
このアクアライン、半分が橋、半分が海底トンネルで出来ているのですが、実はここに浜田さんの政治家としての理念、子供の頃に聞いた母の教えが反映されていました。これだけの公共事業になると、請合った業者の売り上げも大きくなります。そこで鉄鋼業者とセメント業者に公平に利益を分配するために、半分を橋に、もう半分をトンネルにしたのではないか――そう著書の中で分析したのは前回ゲストに来てくれた竹中総務大臣です。浜田さんは地元のあらゆる業種が均等に発展する事を願ったのです。
さらに、浜田さんは、日本の領土問題にとって非常に重要なあるものを消滅の危機から救ったのです。それは『沖の鳥島』。1968年、小笠原諸島がアメリカから日本に返還されました。その最南端、沖ノ鳥島は、そのままにしておくと、わずか10数年で波の浸食を受けて消滅してしまうほど小さな島だったのです。そこで浜田さんは、日本政府に働きかけて、285億円の巨費を投じ、島の周囲50mをコンクリートで固めて波の浸食で消滅してしまうのを防いだのです。もし、この沖ノ鳥島が消えてしまっていたら、日本国土と同じ面積の豊富な漁場を失ってしまうところでした。
ラスベガス賭博事件、そして再起
順風満帆に大臣への道を突き進んでいた浜田さんでしたが、1980年、とんでもない災難に見舞われました。東京地裁でのロッキード事件での公判中、検察側から驚きの陳述が行われたのです。「小佐野被告がロッキード社から受け取った20万ドルは、K・ハマダという人物がカジノで負けてラスベガスのホテルからの150万ドルの借金の返済に使われた」。浜田さんにとってはまさに寝耳に水。確かにハマコーさんは、150万ドル、当時の金で4億5千万円、ラスベガスのカジノで負けて借金はしたのですが、その借金は、千葉の自分の土地を売って、全て返済済みだったのです。その日から浜田さんへの集中砲火が始まりました。賭博自体は合法的なものだったのですが、浜田さんの過去の経歴にまつわる話も新聞や雑誌に面白おかしく書きたてられました。苦悩する浜田さんに、妻の寿美子さんは「一度、きちんと出直したら?」と助言。そのひと言で、浜田さんはいさぎよく議員辞職することを決めたのです。
ラスベガス賭博による議員辞職から2年後。浜田さんは再び衆議院選挙に当選!久しぶりに国会に戻ってきた“ハマコー”さんの暴れん坊ぶりは健在でした。浜田さんは、93年、健康上の理由で政界を退きましたが、その影響力は引退後も絶大でした。自民党幹事長会議で森喜朗を罵倒、2002年には、小泉総理と会見。その中で浜田さんがは、「『アメリカンプレジデント』っていう映画を観たほうがいいよ」と小泉総理に進言したそうです。そのとき、浜田さんは、もうひとつ、総理にある提言をしています。
それは「総理の間に結婚してください」というもの。小泉首相の任期は来年9月まで。果たして浜田さんの提言を受け入れるのでしょうか。その破天荒ぶりばかりがクローズアップされる浜田さん。だが、実は意外な一面も持ち合わせているといいます。浜田さんの長男で現・衆議院議員の浜田靖一さんによれば、父親としての浜田さんは非情にナイーブで寂しがり屋で泣き虫でロマンチストだそう。そんな浜田さんが好きな映画は、何と「プリティ・ウーマン」。理由は「ジュリア・ロバーツの大ファン」だからとか。50年間、浜田さんを支えてきた寿美子さんによれば、彼は記念日に限らず、よく指輪などのプレゼントをくれたそうです。その中にはこんなメモが忍ばせたあることもあったそうです。「両親を面倒見てくれて、ありがとう――」。
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