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SmaSTATION-4特別企画「ニッポンを愛した“世界の喜劇王”チャーリー・チャップリンとは!?」
生涯、80本以上の映画を残し、喜劇に、そして映画に革命をもたらしたといわれる“喜劇王”チャールズ・スペンサー・チャップリン。大の親日家としても知られるチャップリンの生涯を追いました。
放浪紳士・チャーリーの誕生
1889年4月16日、イギリス・ロンドンの下町で、チャールズ・スペンサー・チャップリンは、芸人夫婦の次男として生まれました。生後すぐ両親は離婚。そのため、チャップリンは母・ハンナにより、女手ひとつで育てられたのです。1910年、21才となったチャップリンは、舞台俳優として、初のアメリカ公演に臨みました。その演技が、映画会社社長マック・セネットの目に留まり、映画の世界へ。それから4年後、『成功争い』で初主演を掴み取ります。ところがこの作品、興行的には大コケ。そう、チャップリンは映画俳優として順風満帆なスタートをきったわけではなかったのです。しかし、続く2作目の撮影中、チャップリンに思わぬ転機が訪れました。ある日、監督がアイデアに煮詰まり、自暴自棄になりかけていました。現場の空気は最悪。何とか監督を助け、現場の空気を変えられないものか――チャップリンは、ある行動を起こしたのです。衣裳部屋へと走ったチャップリンは、ステッキを手に取り、だぶだぶなズボンに、キツイ上着、小さな帽子に、大きすぎる靴、さらに、若さを隠すためにちょび髭をつけ、現場に戻ってきたのです。そう、この時こそが、チャップリンのトレードマークとなった、放浪者でありながら紳士という「放浪紳士・チャーリー」誕生の瞬間でした。さらに驚くべきことに、この時チャップリンはこうまくし立てました。

「小さな口ひげは虚栄心。だぶだぶなズボンは、人間の不器用さ。大きなドタ靴は貧困の象徴。窮屈な上着は貧しくても、品位よく見せたいという必死のプライドを表してるんです」

そう、この男のキャラクターが、いつの間にかチャップリンの頭の中で出来上がっていたのです。この出来事をキッカケに、チャップリンの類まれな天才ぶりは映画界に認められることとなり、次々と、この放浪紳士・チャーリーは映画に登場することとなりました。これが、大ヒットし、映画俳優としての地位を築く、大きなきっかけとなったチャップリンは、この年、実に35本もの映画に出演。瞬く間に所属映画会社キーストン社の看板俳優となったチャップリンは、その後、脚本・監督・主演・編集の1人4役を全て任されるなど、超一流スターへの階段を一気に上り詰めていきました。
チャップリンが変えた「喜劇」
当時、チャップリンには、その驚異的な人気ゆえに困ったことが起き、ついには訴訟事件にまで発展しました。それは、「そっくりさん」の出現。当時、チャップリン人気に便乗して、ひと儲けしようとする「偽チャップリン」が何人も登場したのです。その中でも最も有名なのが、俳優ビリー・ウェスト。本物の映画に出ていた共演者まで出演させる徹底したパクリぶりを見せたビリーは、その後もチャップリンを真似し続け、生涯で50本以上ものパクリ映画製作。中には、その映画を本物のチャップリン映画として堂々と上映していた所もあったそうです。このそっくりさん騒動は、アメリカだけにとどまらず、メキシコでは『チャーリー・アップリン』、ドイツには『チャーリー・カップリン』が登場。それぞれが、「私こそオリジナルだ」と主張しました。これには、さすがのチャップリンも大激怒。裁判を起こし勝訴を勝ち取っています。

世界中でそっくりさんが登場するほどの超人気者となったチャップリン。彼に与えられた称号は、『世界の喜劇王』。チャップリンの登場によって、世界中の喜劇は大きく様変わりしました。それまでの喜劇映画といえば、明るい笑顔で人気を博したハロルド・ロイドや、体を張ったギャグアクションで有名なバスター・キートンに代表されるスラップスティックコメディー、つまりドタバタ喜劇が主流。これらは全て、最後には必ず追いかけっこになって終わる、というお決まりの喜劇でした。しかし、そんなドタバタ喜劇に飽き飽きとしていたチャップリンは、それまでの喜劇にはない2つの新しい要素を加えたのです。ひとつは『涙』。1918年に封切られた「犬の生活」は、孤独なチャーリーと、酒場でひどい扱いを受けていた歌手のエドナ、そして、野良犬の群れで虐められていた一匹の犬を描き、ふたりと1匹が、貧しいながらも懸命に生きてささやかな幸せを掴み取るまでを描いた感動作です。フランスの有名な批評家、ルイ・デリュックはこの作品を『シネマとして最初の完全なる作品』とまで評しました。

そしてもうひとつ、チャップリンが喜劇に持ち込んだものが『社会風刺』です。1936年に公開された『モダン・タイムス』の中でチャップリンは、当時資本主義社会の主流になりつつあった機械文明を痛烈に皮肉。「機械化が人類を幸福にする」と信じられていた時代に、人間が機械に支配される未来に対して、警鐘を鳴らしたのです。『涙』と『社会風刺』。このふたつの要素を喜劇に織り込んだ理由に関して、のちにチャップリンはこう語っています。

『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である』

更に、チャップリンは斬新な撮影方法をも編み出していきました。例えば、『モダン・タイムス』のラストシーン。チャーリーと恋人が手を取り合い、去ってゆく場面の影に注目してみると、実はカメラに向かってくるふたりの影が、最初は手前に伸びているのに、去ってゆく時には、ふたりの後ろに伸びているのです。朝日をバックに歩き始めたふたりが、夕日に向かってまだ歩き続けている、ということを2カットで見事に表現して見せたのです。

映画監督としてのチャップリンは、こだわりも半端ではありませんでした。放浪紳士・チャーリーと、盲目の花売り娘との可笑しくもせつないラブストーリー『街の灯』で、どうすれば、目の見えない花売りの娘にチャーリーのことをお金持ちだと勘違いさせられるか頭を悩ませていたチャップリン。納得のいくシーンが撮れるまで、いつまでもこだわり続けたチャップリンは、このワンシーンの撮影になんと368日間も費やしたのです。そこでチャップリンが思いついた演出手法とは、チャーリーが盲目の花売り娘に出くわした時、車のドアが閉まる音がする、という手法。当時、車を持っているのはお金持ちの証し。その車はチャーリーのものではないのですが、目の見えない花売り娘は、車のドアが閉まった音を聞き、チャーリーのことを金持ちだと勘違いしてしまうのです。こうして約2年を費やして完成した『街の灯』はトーキー映画が90%を越えていた時代に、その3倍の売り上げを記録する大ヒットとなりました。そしてこの『街の灯』、なんと、形を変えて日本に上陸を果たしました。実は、歌舞伎の演目にもなっているのです。アメリカで公開されていた『街の灯』を見て感銘を受けた歌舞伎関係者が、帰国後、歌舞伎版『街の灯』を上演。その題目とは、『こうもりの安さん』。アメリカで『街の灯』が公開されたのと同じ1931年夏、この『こうもりの安さん』は東京・歌舞伎座で上演されたのです。『街の灯』の有名なシーン…娘の目の手術代を稼ごうとしてボクシングの試合に出るチャーリー、という設定は、「相撲」に変えて上演されました 。
ニッポンを愛したチャップリン
このように日本の伝統芸能にも影響を及ぼしたチャップリン。彼はニッポン及びニッポン人と常に深い関係にありました。同時代、共にハリウッドの大スターと凌ぎを削ったのが・、以前、スマステーションで紹介した日本人初のハリウッドスター『早川雪洲』。アメリカ人女性の投票による当時の全米スターランキングで、雪洲とチャップリンは1位と2位を分け合った者同士でした。雪州のチャップリンに対するライバル意識は相当で、チャップリンが豪邸を買ったと聞けば、雪洲はお城を購入。毎週盛大なダンスパーティーを開いてはチャップリンを招待して、その贅沢ぶりを見せつけたのです。勿論、チャップリンも負けてはいませんでした。雪洲が飛行機を買ったと聞けば、その直後、チャップリンは、なんと飛行場をまるごと購入したのです。

そんなチャップリンの日本びいきが始まったのには、あるひとりの日本人との出会いがきっかけでした。1916年、チャップリンはマネージャーに、当時アメリカで運転手をしていた日本人を雇いました。高野虎市(こうのとらいち)さんです。チャップリンは、車の運転から経理まで何でもこなす高野の働きぶりにいたく感動し、10人以上もいた使用人も全て日本人に変えてしまったのです。高野は、映画『チャップリンの冒険』で、なんと運転手役で出演も果たしました。この高野さんとの出会いをキッカケに、チャップリンはニッポン、そしてニッポン人に大いに関心を寄せるようになったのです。

チャップリンが初めて来日を果たしたのは、満州事変の起きた翌年、1932年。東京駅でチャップリンを待ち受けていた野次馬の数はなんと8万人。この時、こんなエピソードが残っています。新聞記者のひとりが、押しつぶされそうになっていたお婆さんに「そんなにチャップリンが見たいのですか?」と尋ねると、お婆さんは「あんなに私を笑わせる人を見ないで死ねませんよ!」と答えたというのです。日本でのチャップリン人気はそれほど凄まじかったのです。

日本滞在中、チャップリンが行くところには必ず人だかりができました。ところが、好奇心旺盛なチャップリンは意のままに動き回りました。ある時は、藁ぶき屋根の農家を見つけるとツカツカとひとりで入っていき、お茶をご馳走になりました。またある時は、風情ある銭湯を見つけるとふらりと立ち寄り、脱衣場に居合わせた人々にビールを振る舞ったのです。さらに、こんなことも…。深夜3時ごろ、チャップリンが宿泊していた帝国ホテルの電話が鳴りました。「いま、芝浦でチャップリンと名乗る男が豪遊しているが、本物のチャップリンか?」。それは警察からの電話でした。念の為に、チャップリンが泊まっているはずの部屋をチェックしたところ、なんと、ベッドはもぬけの殻。その頃、チャップリンはというと、芝浦の料亭で、美女15人に囲まれ、どんちゃん騒ぎの真っ最中。「ドジョウすくい」をいたく気に入り、その動きを練習していたそうです。また、日本の伝統文化にひかれた彼は、ある時は相撲に見に出かけ、土産にもらった行事の扇で行事の真似をして、大はしゃぎ。またある時は、茶道に魅せられ、お茶を出す娘の一挙手一投足を見て「優雅だ。バレエのようだ。」と話したそうです。

そんなチャップリンが最もはまったが「歌舞伎」。チャップリンが4度目の来日の時に見たのが、『義経千本桜』。その時、いがみの権太役を演じていたのが、現在の“5代目中村富十郎”です。「チャップリンに見られていると思うと緊張してね。でも、舞台が終わると、楽屋に来てくれてね、僕が『女形についてどう思います』と聞いたら、『素晴らしいと思う』と言ってましたよ」(中村富十郎・談)。
アメリカ入国拒否と再評価
3度目の来日から帰国を果たした1939年、世界は暗黒の時代へと突入しようとしていました。ヒトラー率いるナチスドイツの台頭です。ヒトラーのポーランド侵攻のニュースを聞いたチャップリンは怒りに震え、「ヒトラーの愚行を徹底的に馬鹿にするには言葉が必要だ」と考えました。無声映画にこだわり続けていたチャップリンは、ついに初のトーキー作品を手がけることを決めたのです。それが「独裁者」でした。独裁者ヒンケルに間違われたユダヤ人の床屋の悲喜劇を描いたこの作品。大観衆の前で、演説をしなければいけない羽目に、というラストシーンで、チャップリンはついに初めて言葉を喋りました。それが6分にも渡る演説シーン“世紀の6分間”と呼ばれ、映画史上に残る名シーンとうたわれるシーンでした。「残念ながら、私は皇帝などになりたくありません。誰を支配することも征服することもしたくありません。私たちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって生きたいのです」。

チャップリンの訴えも空しく、世界は第二次大戦へと突入。最後は、アメリカによる広島、長崎への原爆投下によって6年に及んだ戦争に幕が引かれることとなりました。チャップリンは戦後一作目となった「殺人狂時代」のラストシーンでこんなメッセージを残しました。

「1人殺せば悪党で、100万人殺せば英雄になる。数が殺人を神聖なものにするのだ」。

何百万人もの犠牲者を出しながら戦勝国となったアメリカを痛烈に風刺。この言葉がアメリカ政府の逆鱗に触れ、チャップリンは思わぬしっぺ返しを食うこととなりました。1952年9月、チャップリンは家族とともに新作「ライムライト」の宣伝のため、ヨーロッパへと旅立ちました。その船上で、チャップリンはアメリカ政府から、ある通告を受けます。それは『チャップリンの再入国拒否』。アメリカはチャップリンを追い出したのです。アメリカを追われたチャップリンは、スイスへの移住を強いられることになったのです。

そんなチャップリンの元にハリウッドから一通の招待状が届きました。再入国拒否から20年後の1972年のことでした。その招待状とは、アカデミー特別賞受賞の知らせ。その賞の対象となったのは、自分がアメリカを追われるきっかけとなった、25年前の映画「殺人狂時代」でした。この時、アメリカは10年以上続くベトナム戦争が泥沼化。戦死者は5万人を超え、膨大な戦費負担は経済をも圧迫。アメリカ国内では至る所で「反戦」が叫ばれるようになっていました。そのような時代背景もあり、『殺人狂時代』の“反戦”メッセージが再評価されたのです。「自分はまだアメリカの民衆から嫌われているのでは?」。チャップリンはそんな不安を抱えたまま、20年ぶりにアメリカの地を踏みました。そんな彼を、

アメリカ国民は「偉大なる喜劇王」として大歓声をもって迎えたのです。それから5年後、香取編集長の生まれた1977年のクリスマスの朝、チャップリンはスイスの邸宅で、妻・ウーナと8人の子供たちに囲まれながら、ひっそりと、その波乱に満ちた88年の生涯を閉じたのです。


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