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#931
2024年9月22日

中村雅俊さんとテレビ(後編)

【司会】山口豊(テレビ朝日アナウンサー)
    八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーション】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】中村 雅俊(俳優・歌手)
デビューから丸50年。現在73歳、俳優で歌手の中村雅俊さん。
今回は、五十嵐淳子さんとの結婚、
生まれ育った故郷、宮城県女川町への想い、
そして、テレビについて伺いました。

― デビューして35年経った頃のインタビューで

「還暦が楽しみなターニングポイント」と仰っていました。
次は何歳になるのが楽しみでしょうか?


何歳っていうのはないですが、もうレストですから。
あと何年生きるのか、のような感じから
漠然と10年くらいバリバリで、
と言いながら丁寧に生きようと思っています。
昔演じた役に「俺は今日一日、精一杯生きればそれでいいんだよ」
というセリフを言うキャラクターがいました。
今そういう心境で、近い将来や遠い将来ではなく、
今日一日どうだったか、その積み重ねで「丁寧に生きていきたい」
ということを密かに思っています。



<ドラマ「俺たちの旅」>
大学生でいきなりデビューしたので、
プロ意識がありませんでした。
学生気分のままやっているところがありましたが、
「俺たちの旅」をやり、
「そうだ、俺は役者としてちゃんと生きていこう」と決めました。
それまでは本当に自覚がなくて。
「俺たちの旅」の前に松田優作さんと「俺たちの勲章」をやっていて、
優作さんから「雅俊、プロ意識!」と随分言われてました。



<五十嵐淳子さんと結婚>
― 松田優作さんと出演した刑事ドラマ「俺たちの勲章」で共演した

俳優・五十嵐淳子さんと結婚。26歳でした。



事務所や周りの方から大反対されました。
ファンクラブもありましたが、8割2分いなくなりました。
事務所の方や、いろんな方たちから
「雅俊、お前結婚すると人気なくなるから」と言われましたが、
結婚したらそうなり、あぁそうなんだと(笑)
でも後悔はしていません。



<夫婦円満の秘訣>
もう結婚して47年くらい経ちますが、ずーっと好きですね。
結婚した時に、宝くじに当たったという様な言い方をしましたが、
本当にパートナーとしてはすごくいい人と出会ったと思っています。
2人で40年近く毎月2回食事に行っています。

― ご夫婦でテレビを観ることはありますか?

結構観ていて、普通に視聴者です。
この人は随分以前と変わったとか、皆さんと同じように
この人体型変わった?など。

― どんな番組がお好きなんですか?

紀行ものやドキュメンタリー番組は、
お金と時間をかけているな…ということを
味わいながら観ています。



<宮城県女川町で育った少年時代>
宮城弁で「おだづもっこ」という言葉がありますが、
ひょうきんなやつのことをそう言います。
そういう意味では、やんちゃな子供でした。
高校に入りなぜか、
「外交官になりたい」と言い出して、
大学に入りクラブも英語をやらなきゃと思い
英語劇をやりましたが、
英語よりも劇の方にどんどんのめり込んで今があります。
自分が歩んできた道は、今を良しとすれば
間違いはあったかもしれないけど、間違いじゃなかったかもしれません。



<東日本大震災>
2011年に発生した東日本大震災。
中村さんの故郷、宮城県の女川町も津波による大きな被害が出ました。
中村さんが故郷を訪れたのは地震発生からおよそ1カ月後。
変わり果てた生まれ故郷を目にした中村さんは、
こんな思いを抱いたそうです。


(中村さん)
ここから頑張る気持ちは強くなりました。
かなり壊滅状態なのでいち早く復興していくことが、
被災されている方々に元気を与えられるのではないか?

続いて訪れたのは、
母校、女川第一小学校でした。


(中村さん)
元気を与えようと思いましたが
逆に元気や勇気をもらいました。
あの子たちが、みんなを引っ張っていってくれるのかな。
女川町も復興するのに時間がかかるでしょうが、
きっと彼らの時代に完成されるでしょう。

震災から13年。
復興を願い現在も女川に足繁く通っている中村さん。
今も故郷に心を寄せ続けています。


震災時はドラマの撮影が入っていて、
三宅裕司さんと2人、電車の中で撮影していました。
止まっていましたがあまりにも揺れがすごく、
電車の中にいるべきかそれともホームに出た方がいいか、
よくわからないまま終わったという感じでした。
この地震はどこ?と聞いたら、女川のすぐ真横が震源地でした。
テレビの中継を見た時にびっくりしました。
小学校5、6年の時にチリ地震津波があり
その時も走って山の上に逃げましたが、
津波が家の1階の天井まできました。
東日本大震災は、20メートルの丘の上に病院がありましたが
そこまで水が来たんです。
もう規模の違いに唖然とするばかりでした。

<震災後の女川町>
震災直後はどこへ行っても誰に聞いても全てが悲劇で、
うちの親が兄弟が亡くなった話で、
悲劇だらけでもう聞かなくてもいいんじゃないか
と思うくらいでした。
でも、だんだん皆さんの笑顔が増えてきて、
いつがゴールか分かりませんが、
復興が進んでいるということは行くたびに実感しています。
何か不思議な現象があって、
女川の町って私が知る女川じゃなくなっています。
町がほとんど壊滅だったので、家も道路も駅舎まで全て新しく
なっていて、何か知らない町に来た感じがします。
モデル地区といわれ復興のスピードや質も含めて
こうあるべきだみたいなモデルになっていますが、
復興のゴールは分かりません。
建物や道路、インフラができればゴールかといえば。。。
人の心がいつまでも傷ついているなというのは
実感としてあります。
この人達の心が癒されるのはいつなのか?と考えると、
ゴールはないような気がします。
何十年も経って東日本大震災のことに触れた時
古傷ではありませんが、兄貴が…など。
またそうやって思うとゴールはないが
進んでいかなきゃいけない。



<中村さんの復興支援>
以前は避難所へ行けば人が大勢いたので、
歌を歌ったこともありました。
今は皆さん個人住宅で生活があるので、
デビュー作の「われら青春!」のスタッフやキャストの連中で、
大人の遠足みたいに被災地へ行ってお金を落としています。
お金を落とすのも復興支援の一つの形だということで行っています。
あと、大学のクラスの有志を集めて
同じことをしたり、
今はそういうことをやっています。
テーマとしては「忘れない」
風化するのは仕方ありませんが、
「忘れない」ということをやろうと。
みんなでそういう風に言い合っています。



<デビュー60年に向けて>
「丁寧に生きたい」と考えています。
デビューしてからすごく忙しく生活してきました。
何か人生というか終止符を打たなきゃいけないので、
丁寧に取りこぼしのない生き方をしたいと思っています。



<中村雅俊にとって「テレビ」とは>
イメージですが、すごく恐ろしく頭のいい同居人。
すぐそばにいるのですが、ものすごい知識があり、
聞けば何でも教えてくれるが鵜呑みにしてはいけない。
鵜呑みにしてそのまま自分の知識にするのではなく、
1回自分の中に入れて、お前はどうなんだ?と。
全部鵜呑みにせず、自分の意見をそこから生み出そう
という風に思うメディアです。