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#882
2023年9月17日

関根勤さんとテレビ(前編)

【司会】山口豊(テレビ朝日アナウンサー)
    八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーション】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】関根勤
1974年 芸能界入り。翌年“ラビット関根”として活動を開始。
1982年 テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」の出演をきっかけに
本名の“関根 勤”に変更。
同時期に小堺一機さんとコンビ「コサキン」を結成する。
デビューから49年レギュラー番組をずっと持ち続け、最近70歳になられた
関根さんにテレビについて伺いました。



<芸能界への興味>
お笑いは好きだったんですよ。
だけど芸能人になるっていう気持ちはさらさらなかったです。
俯瞰でものを見ていましたからね。
テレビに出ている方は、天才的な人で才能の溢れる人だと思ってました。
僕は趣味で“お笑い”をやっていたんですけれども、あくまでも趣味。
父の後を継いで消防署員になるつもりでした。

―そもそもお笑いに興味を持ったきっかけは?

気がついたら好きになってたんです。
これ多分なんですけど…
末っ子で、甘やかされて好き嫌いがひどくて、学校の給食をほとんど食べられなかった。
小学校2年のときの先生が厳しい方で、「食べるまで帰さない!」って。
2年生から5年生まで、毎日夕方まで残されて…家に帰る時には気持ちがブルーでした。
それを救ってくれたのがお笑い番組。
笑うとリセットするんですね、気持ちが。
それが、お笑いの持つ一番の力。
それで余計に傾注していったと言うかのめり込んでいったんです。

―当時、救ってくれた番組は?

「大正テレビ寄席」「シャボン玉ホリデー」「てなもんや三度笠」それから・・・結構、寄席番組があったんですよ。
小学校、中学校の時ずっと観ていました。
それでテレビに出てくるモノマネの人のまねをするようになりました。

中学2年の時、友達にモノマネを披露したらウケたんです。
それでプロのモノマネの人のコピーをして。
友達だから笑ってくれるハードルが物すごく低いんですよ。
何でも笑ってくれるんです。
やっていくうちに、コツをつかんできてね。
自分でオリジナルの千葉真一さんだとかジャイアント馬場さんとかできるようになって。
友人は、僕のモノマネをしょっちゅう聞かされていたからコツをつかんで、彼は彼で、モハメドアリだとか原田芳雄さんとか僕がやらないのをやり始めて、
2人でコンビを組んで高校の時、色々なところの文化祭に出てたんですよ。
そこで知り合った他の3人と「目黒五人衆」というグループを組んで “アマチュアお笑いグループ”を大学3年までやっていました。



<「ぎんざNOW!」に出演>
就職活動のころ、「目黒五人衆」を解散することになって、心にぽっかり穴があいちゃったと思っていた時に、テレビを観ていたら、せんだみつおさんが「ぎんざNOW!」で「しろうとコメディアン道場」というのをやっていて。
僕らは身内を笑わせてたけど、こういう公式なところでどのくらいの実力があるのかわからないから、ちょっと試してみようと思って、オーディションに応募したんです。
オーディションに受かりたいから中学2年から大学3年までの持ちネタ全部を45分間やったんですよ。

「フリッツ・フォン・エリック 対 ジャイアント馬場」3本勝負や
「タイガーマスク対アントニオ猪木」3本勝負とか。
こんなにやるから45分かかっちゃうんですけどw
あとは千葉真一さんとか水森亜土さんとか、刑事コロンボとかをやって。

それまで番組では週のチャンピオンを決めていただけだったんですが、
その時のプロデューサーが、「関根はネタをいっぱい持っているから勝ち抜き戦にしよう」って言われて…
「勝ったら2週目も出られる」これいいなと思って。

―当時、何をやって勝ち抜かれたんですか?

プロレス中継とか、千葉真一さんとかね。
千葉真一さんは、あの頃車のCMもやっていたんで「足のいいやつカリーナー」とか、刑事コロンボで「うちのかみさんがね。」とかやっていたんですよ。
頑張って5週勝ち抜いたんです。
審査委員に浅井良二さん(浅井企画創業者・代表取締役*当時)がいらして、喫茶店に呼び出されて「やってみないか」って言われたんですが、最初はお断りしたんです。
クラスの男の子に人気がある。それだけの人間がプロの世界で通用するわけがないと。
でもね。このまま消防士になって26、27歳になった時に同期の人がテレビで活躍しているのを観たら、実際に同時期に芸能界入りした明石家さんまさんも出てきましたし、そんなさんまさんたちを観て「ああ俺もあそこにいれば彼らと一緒に仕事できたのに」って後悔するのも嫌だったんで30歳まではやってみようと。
自分一人だったら30歳で転職してもなんとか食っていけるんじゃないかな?と思って勝負させてもらいました。

そうしたら番組のプロデューサーが「5週勝ち抜いたんだから生え抜きだ。
来週からアシスタントに入れちゃえ」と。
「浅井さんが取ったんだから、番組でも売り出そう」と。
乱暴すぎませんか?素人だったんですよ1週間前まで。

それを観た人が、5週勝ち抜けば芸能人になれるんだっていうんで、
ザ・ハンダースとか小堺くんとか、とんねるず、柳沢慎吾くんが挑戦しているんです。

芸人って誰かの弟子になって、その芸人の方の目に止まって「お前はデビューしてもいい」ってなるまで2年くらいあるわけですよ。カバン持ちから。
そうやってプロになっていくわけですよ。すごく狭き門なんです。
ところが、僕が「ぎんざNOW!」で5週勝ち抜いてテレビに出始めたら、次から次へ面白い素人が出てきた。
「あれ?これは弟子制度じゃなくていいんじゃないかな」って、世の中の人が気付いて、吉本興業さんが1982年にお笑い学校NSCを作ったんですよ。
そこから芸人が一気に増えたんです。ビッグバン。
師匠を通さなくていいから。
そのきっかけが僕だったみたいですよ。



<父親の反応>
父親はものすごくショックを受けてました。
ただ、「勤が好きでやってるんだからしょうがないな」と。
当時、父は入院してたんですよ。
浅井企画の社長と専務が「息子さんをうちで預かりたい」と訪ねてきた時に「私は息子を公務員になるために育ててきた。条件として公務員の給料を保証してくれ」と。
考えられないですよ。売れてない時は芸人ってみんなアルバイトするんですよ。仕事をほとんどしないのに公務員と同じ給料を、僕はもらえたんですよ!

だから僕は芸人になってからアルバイトしてないんです。
僕の場合は、当時、浅井企画の「コント55号」が、萩本欽一さんがめちゃくちゃ売れていましたから結構バーターで出れたんですよ。
「カックラキン大放送!!」で坂上二郎さんが出ていれば、関根出してよって。
だから助かりましたよね。



<1976年「徹子の部屋」のクイズのコーナーを担当>
「徹子の部屋」の前身番組「13時ショー」に出た時に、加山雄三さんとか田中邦衛さんのモノマネをしたら、「若いのにそんな事できて」って徹子さんにウケまして、それで「13時ショー」から「徹子の部屋」になった時に、バラエティショーからトークだけで1本でやるのは何か怖いから10分間だけ「フラッシュクイズ」っていうアマチュアが参加するクイズコーナーをやろうと。
その時に徹子さんが「ラビット君がいいわ」って言ってくれたんです。
だからこれはバーターじゃないんですw

この番組で僕は鍛えられまして。
徹子さんに「ラビットさん。今日は何やってくれるんですか?」と振られてモノマネやるわけですよ。
ところが「徹子の部屋」は月~金ですから2週間位でネタが尽きるんですよ…
「今日はちょっともうできません」って言ったら「寂しいわね」と言われたんで、ゲストに来ている方をずっと観て、その方のモノマネを即興でやるようになったんです。
宇津井健さんがゲストでいらしたときに、宇津井さんのモノマネをしたんです。
「徹子さんね。ええ、私はやっぱり赤いシリーズは頑張ってやりましたね、ええ。」って。
そうしたら宇津井さんが喜んでくれて、「僕のモノマネをやってくれた」と。
後に僕と小堺君がやってるラジオのゲストに来てくれましたし、
別のテレビ番組で娘の麻里が一緒になった時には「お父さんにお世話になっているから、麻里ちゃん、うどん食べに行こうよ」って言ってくださってうどんをごちそうになったんですって!僕はごちそうになってないのにw



<モノマネで怒られた>
ジャイアント馬場さんのモノマネをやっていた当時、プロレス中継を観ていたらアナウンサーが「最近、馬場さんのモノマネをしている人がいますけども、どう思いますか?」って馬場さんに聞いたんです。
その時、馬場さんは真顔になって、「不謹慎です」って怒っていたんですよ。
僕はオンエアを観ていて青ざめちゃって…

その20年後くらいに「笑っていいとも」の増刊号にジャイアント馬場さんがゲストで出演されたんです。
僕は「馬場さんのモノマネなんかしていません」って顔して対応していたら
アナウンサーが良かれと思って、馬場さんが怒っているって知らないから
「そういえば、関根さんは馬場さんのモノマネをしてますよね」って言った途端、馬場さんが「僕はね、スポポポポーンなんて言ってないよ」って。
馬場さんが水平チョップの技をするとき、1回チョップするところを僕は面白くしたかったので、馬場さんの新兵器“マシンガン水平チョップだ”と言って、スポポポポーンってやってたんです。
そしたら、「僕はそんなこと言ってない」と言われたので「すいません」と脂汗かきながら謝って。
そうですね、馬場さんのモノマネをちゃんとするとしたら、やっぱり汗をこの親指でぬぐいながら、「そーですねー、今日はねー」って言ったら「うん、それは似てるね」って。
僕がジャイアント馬場さんのモノマネを始めて20年くらい経ってましたから、
馬場さんもある程度年齢を重ねられて、丸くなっていたんでしょうね。
デビューしてすぐの頃に会っていたらきっと張り倒されていましたねw

長嶋茂雄さんのモノマネは、本人がゲストでいらっしゃった時に怒ってるのかなぁと思っていたら、司会のせんだみつおさんに急にフラれて。
「おーラビット、お前、長嶋さんのマネをやっているだろう」って。
そうしたら長嶋さんが「やってみてよ」って言われたので、
「そうですね。一茂はですね。首周り50センチはありましてね」ってモノマネしたら、長嶋さんが「えヘヘヘ。僕よりいいね。」って。
長嶋さんも認めてくれたんです。
嬉しかったです。
やっぱり本人が大好きでやっているから嫌われたくないんですよ。
好きだからすごく集中して観察するから特徴とかも入ってくるんですね。